おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

164_原仏9ー5

これまで、Ⅰ 釈尊の生涯 を、
序章 原始仏典へのいとぐち
第一章 誕生と求道ー「スッタニパータ」(1)
第二章 悪魔の誘惑ー「サンユッタ・ニカーヤ」(1)
と見てきました。

中村さんの本では、この締めくくりに、サンユッタ・ニカーヤにある、様々な教えの中の一つが紹介されています。
第七篇第二章・第四節の話です。
本では、子のかたちをした悪鬼と題して、紹介されています。
以下です。

昔、ある富んだバラモンがいました。ところが、この人がみすぼらしい格好で粗衣をまとい、釈迦のところに来ました。(注1)
そして、挨拶をして、傍らに座ります。
釈迦は、驚いて尋ねました。
「あなたは、昔裕福で、お金持ちだったのに、どうしてそんなみすぼらしい格好で、そんな粗衣を着ているのですか」と。
バラモンは答えました。
「お釈迦さま!私には四人の息子がいますが、彼らは妻たちと相謀(あいはか)って、私を家から追い出したのです」
釈迦は、びっくりして、「ああ、そうなのか。それなら昔から伝わっている詩の文句を、公会堂に大勢の人が集まる時に、そこに座っている息子たちに唱えてあげなさい」と言いました。
内容は以下の通りです。
「われはかれら(子ら)の生まれるのを喜び、またかれらの成長も願ったが、
いまやかれらは妻と謀ってわれを豚のように追い出した。
よからぬしれ者! かつてはわれを「父よ、父よ」と呼ばわったが、
実は子のかたちをした悪鬼だったのだ。
かれらは老いぼれたわたしを捨て去った。
老いぼれて役に立たぬ馬が食を与えられないように、
この子らの父なる老人は、他人の家に食を乞う。
不従順な子らをもつよりも、われには杖のほうがましだ。
猛き牛をも追い払い、また猛き犬をも追い払ってくれる。
暗闇ではわが前にあり、深い処では足場を作ってくれる。
杖の力により、倒れてもまた起き上る」(注2)

(以上、第一巻一七六ページ)

悪鬼は漢訳では羅刹と表現されます。(注3)
同じく、漢訳では、食を乞うを乞食という文字を当てます。
托鉢する僧侶は、威張って食を乞うけれども、この老人は異なり、食べる物にも困っていたのです。(注4)
そこで、釈迦にこの詩句を与えられた彼(老いぼれたバラモン)は、大勢の人が集まっている公会堂へ行きました。(注5)
そこに息子たちもきていたので、知らん顔をしてこの詩句を唱えました。
息子たちは大変に恥じて、昔は大いに富んでいたこのバラモンを家に連れ戻して、水浴をさせ、一重(ひとかさね)の衣を着せた、となっています。
(注6)

中村さんによると、インドでは総じて今日(中村さんがこの本を著した今から約33年前です)まで大家族主義の生活を続けていて、先進諸国のように、子供達が結婚すると親から離れて住むのは稀だとされています。
とはいえ、別居して親を捨て去る行状も、このように古来(今から約2500年ほど前)からあった訳で、いろいろと教えられるところが多い、と中村さんはお書きになっています。
こうした家族の問題は、古くて新しいものだということでしょうね。

~~~~~

(注1)ここでも、釈迦のことを、いちいち、お釈迦さま、釈尊と書きわけていますが、釈迦で統一して書きます。

粗衣~そい~粗末な衣服。

粗末~そまつ~①品質や作りなどが劣っていること。また、そのさま。
(用例)粗末な衣服。
②大事にすべきものなどをおろそかに扱うこと。むだに、使うこと。また、そのさま。
(用例)お金を粗末にしてはいけない。

(注2)息子は、原文では子息となっていますが、子息は、多くの場合、他人の息子をいうので、この文脈では息子が、ふさわしいと考え差し替えています。

他人の男の子供のことを子息と呼びます。あなたの、ご子息というように。しかし、自分の男の子供のことを子息とは呼ばないのが一般的だと思われます。

よって、ここでは元の、

私には四人の子息がいますが

私には四人の息子がいますが

に訂正すべきだと思われます。

このために、差し替えました。

しれ者~痴れ者~しれもの~①ばか者。おろか者。
②一つのことに心を打ち込んで夢中になっている人。(用例)風流の痴れ者。
ここでは、①の意。

挨拶~あいさつ~挨はおす、拶はせまるの意。
①人に会った時や別れる時にかわす社交的な言葉や動作。
(用例)初対面の挨拶。時候の挨拶。
②儀式・就任・離任などの時、敬意・祝意・謝意などを述べること。また、その言葉。
(用例)来賓の挨拶。
③他人の言動への応対や返事。うけこたえ。
(用例)何の挨拶もない。
④(ごあいさつの形で)相手の失礼な言動を皮肉っていう語。あきれた言いよう。
(用例)これはご挨拶だね。
(参考)もと、門下の僧に禅問答をして悟りの程度を確かめることをいった。
来賓~らいひん~式・会などに招待を受けて来た客。

傍ら~かたわら~①そば。わき。
②(副詞的に用いて)・・・と同時に。
ここでは①の意。

謀る~はかる~企てる。だます。あざむく。

悪鬼~あっき~人にたたりや害をする鬼。

乞う~こう~求める。

暗闇~くらやみ~①暗い所。暗いこと。
②(比喩的に)人目につかない所。心が分別を失っていること。また、前途に明るい見通しのないこと。

猛き→猛し~たけし~①力が強い。
②勢いが盛んだ。勢いが激しい。
③気が強い。勇ましい。
④すぐれてよい。えらい。
ここでは、①の意。

(注3)羅刹~らせつ~仏教語で、大力で足が速く、人間を魅惑し、あるいは食うという悪鬼の名。のちに仏教の守護神となる。

(注4)托鉢~たくはつ~僧が修行のため鉢(はち)を持って家々を回り、米や銭の喜捨などを受けること。

喜捨~きしゃ~仏教語で、喜んで寺社や僧に財物を寄進し、また、貧者に施すこと。

(注5)中村さんによると、当時のインドには公会堂があり、人々が集まり大事なことを決めていたとのことです。

(注6)水浴~すいよく~水をあびること。水あび。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2020/11/10 05:55 〜訂正内容〜本文と(注2)とこれに関連した訂正を少ししました。

163_原仏9ー4

三 梵天の懇請 その2 です。

前回の 162_原仏9ー3 に関しての雑感みたいな内容です。

仏教が大好きで、すごく素直で生真面目な人は、お読みになった場合に、ん?と引っ掛かるところがあったかもしれません。

不愉快まではいかなくとも、何を言ってるんだコイツは?と思われた箇所があったはずです。

別に、おちょくる訳ではないのですが、やや、懐疑的な雰囲気を漂わして書いていたことにお気づきになられた方がいるかもしれません。

それについてです。

原典を詳しく見れないので、何とも言えないところはあるのですが、梵天が、悟りを開いた直後の釈迦の気持ちに気づく点です。

あの話は、当時、六師の輩出のように、世相が混乱してきていた状況に、釈迦の、殊に、悟りを開いた釈迦の出現が重なった訳ですね。

ちょうど、救世主よろしく、登場してきた。

前回ちょっと触れたように、神様は絶大な力を持っていて、万能であり、何でもできると考えられるのが普通でしょう。

しかし、肉体人間の世界を、大元の神界のように高めていくには、あくまでも、神様が直接手を下すのではなく、側面や後方から支援して支える形をとってやっていくしかない、もしくは、そうした形をあえてとっている、とすると。

もしも、このように仮定すれば、神様とされる存在、殊に、高位とされる最高神梵天ならば、常に地上の肉体界(この世、現界のことです)に気を配り、堕落しがちな肉体人間を、導き、救い、教化して、世を救っていく存在には、大いに注目することになりますね。(注1)

従って、これにふさわしい人物が輪廻転生上に乗り、この世に出てくることを心待にすることにもなるでしょう。

前に、アシタ仙人のところで書いたように、釈迦の誕生を知った神々が、子どものように無邪気に?喜んでいる話にあったように。

あるいは、神様ご自身が時宜を見て、この世に聖者を降ろされるのかもしれませんが。(注2)

そして、当然、この世で悟りを得ようと精進している修行者には、特に期待されている釈迦のような人には、普段から注目しているのも、ごく自然な成り行きになりますね。

いつ、悟りを開かれるのだろうか、と。

当然、その心境や動向にも、注目しているはずですよね。

これならばわかるように思えるんです。

ここまで、書いてあれば。

梵天が釈迦に敬礼して、消えたくだりまで含めて。

ただ、あの中村さんの本に書かれている内容だけでは、釈迦の教化の断念とそれを梵天が認識したことが、うまくつながりすぎている、タイミングがよすぎる、できすぎている、と思えてしまうんですよ。

だいぶ前に書きましたが、釈迦の誕生にしても、イエスの誕生にしても、私はああいう神話はない、と思っています。

詳しくは書きませんが、今現在のみんなと同じような生まれ方(時代からすると帝王切開はなかったと思います)をしていると考えています。

宗教の教祖に関しては、どうしても信徒が崇めるために、勇み足を起こしがちになるところがあると思います。(注3)

ですので、唐突に見えるつながり、うまくできているつながりを見ると、一応、疑いを抱いてしまうんですよ。

戦勝者や、隊商や、負債なき人のたとえも、わかりやすすぎる代わりに、何かあまりにも卑近すぎて、当時の人が上から目線で、説教したり、服従させるたとえに、いかにも使いそうだなと思えて、あらぬ邪推をしてしまったもので。(注4)

あくまでも、邪推ですけど。

だから、その点に関して、もう少し、これに近い説明が欲しかったと思いました。

あくまでも、雑感というか、感想ですが。

~~~~~

(注1)教化~きょうか~人をよいほうへ教え導くこと。
(用例)民衆を教化する。
(参考)仏教では、きょうげという。

(注2)時宜~じぎ~時期が適当であること。ちょうどよいころあい。

(注3)崇める~あがめる~尊(たっと)び敬(うやま)う。

(注4)卑近~ひきん~身近で理解しやすいこと。また、そのさま。

162_原仏9ー3

三 梵天の懇請(注1)

ここでは、ちょっと、本の内容の運びがわかりにくいので、勝手に書き換えさせてもらいます。

かなり、乱暴で、大雑把な書き方になりますが、ご容赦下さい。

釈迦も、尊師とか、世尊とか表記されますが、面倒なので、以下、引用以外は、すべて釈迦で統一します。(注2)

修行者としての釈迦が悟りを開いて間もない頃、釈迦自身は、その感得した真理があまりにも深遠で、微妙なものであるために、到底、(当時の)一般的な世間の人々には理解できない、と考えた時がありました。

世界創造の神、最高神とされる梵天(ぼんてん)という神様が、どういう訳か?このタイミングで、釈迦の心中を知ったことになっています。

心によって知ったと書かれていますので、神様特有の神通力か何かなのでしょう。

しかし、何か、あまりに話ができすぎているような・・・。

それはともかく。

梵天は、嘆きます。

ああ、このままでは、世は救われずに滅びてしまう。真理を悟った、世間の人々、すなわち、肉体人間から尊敬をされるべき人=釈迦が、その内容をあまりにも難解で、教えるのは徒労に帰すると判断されて、人々に知らしめようとは思われないのだ、と。

そこで、世を滅ぼしたくないからなのか、釈迦に少ない上根の人々を教化させて、世を救う方向に導きたいのかわかりませんが、釈迦に教えを説くように説得に向かいます。

この本の文章の一連の流れを見る限り、梵天の判断として、少ない上根の人々でも、釈迦が教化に立ち上がれば、きっと悟りに至れる、そうすることで、少しでも悟りを開く人々を増やして、ひいては世の中を滅ぼさないだけでなく、良き方向に向かわせることができると考えた、と読み取れますね(個人的にですけれど)。

ただ・・・。

そんな梵天ほどの凄い神様が、ご自分で教化に向かわれるのではなくて、あくまでも、肉体人間としてこの世に生を受けた者を通さないと、この世を救うことはできないとも読めます。

凄い神様なんだから、何でもかんでも、自由自在、この世を救うなんて朝飯前のはず、と素人的には考えますが・・・。

神様は力があっても、肉体人間の世界を改善に向かわせる、ひいては、地上天国に導くには、肉体を授かった人間を通して、間接的に支援するやり方をするということなんでしょうか?

よくわかりませんが。

それはともかく。

釈迦は、梵天の懇願を聞いて、あまねく世の中を、その悟りを開いた力をもって(つまり、神通力をもって、ということでしょうね)見渡した。(注3)

そこには、上根の者から、それには程遠い、救われ難い下根の者までをも見渡した。(注4)

で、(個人的には、釈迦の動機がよくわからないのですが)教えを説くことを決意した、つまり、人救いに立ち上がった、となっています。

この次第は以下のようになっています。

まず、釈迦が悟りを開いた直後です。

初めてさとりを開かれたばかりのときであった。
そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽(ふけ)っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。 ー 
「わたしのさとったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。・・・人々には、縁起という道理は見難い。」

ここでの縁起の解説はこう書かれています。

・・・もとの意味は、「これを条件としてかれがある」という因果の連鎖のつながりをいうのです。つまり、いかなるものもビジョンと理由もないのに現れ出たわけではなく、必ず何か条件があって自ずから一つの現象が現れ出る、それが縁起の道理です。ところが人々はそれを知らない。・・・

申し訳ありませんが、私には、これが何を言っているのか、よくわかりません。ハッキリ言って、わかったような、わからないような、訳のわからない感じです。

要するに、因縁因果のことだと思うんですけどね。

続けます。

「またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)という道理もまた見難い。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労があるだけだ。わたしには憂慮があるだけだ」と。
(中間略)
尊師がこのように省察しておられるときに、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。

そのとき、(世界の主・梵天)は世尊の心の中の思いを心によって知って、次のように考えた、 ー 「ああ、この世はほろびる。ああ、この世は消滅する。実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しくさとった人の心が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思われないのだ!」

ときに(世界の主・梵天)は、・・・梵天界から姿を消して、世尊の前に現れた。
・・・「尊い方!尊師は教えをお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、(聞けば)真理をさとる者となりましょう」と。
(世界の主・梵天)はこのように述べ、このように言い終わってから、次のことを説いた。

「汚れある者の考えた不浄な教えがかつてマガダ国(当時の一番栄えた地方)に出現しました。
願わくはこの甘露の門(不死の門とも訳す)を開け。
無垢なる者の覚った法を聞け。
譬(たと)えば、山の頂(いただ)きにある岩の上に立っている人があまねく四方の人々を見下すように、あらゆる方向を見る眼のある方(かた)は、真理の高閣(たかどの)に登って、自らは憂いを超えていながら(生まれと老いとに教われ、憂いに悩まされている人々)を見そなわせたまえ。」(注5)

そして、いくつかの写本には、次に以下のような言葉があります。(注6)

起て、健き人よ、戦勝者よ、隊商の人よ、負債なき人よ、世間を歩みたまえ。
世尊よ、法を説きたまえ。(真理)をさとる者もいるでしょう。

修行により煩悩を克服した人を、打ち勝ったという意味で戦勝者としています。また、当時、商業活動が次第に盛んになってきたので、釈迦を隊商の主にたとえています。負債なき人とは、当時、貨幣経済が進展して、借金で悩む人が出てきたので、このように言っています。

わかりやすいですけど、何だか、ずいぶんと俗っぽいたとえですね。

怒られちゃうかな、こんなこというと。

次です。

そのとき尊師は梵天の懇請を知り、生きとし生ける者へのあわれみによって、さとった人の眼によって世の中を観察された。
世尊はさとった人の眼によって世の中を見そなわして、世の中には、汚れの少ない者、汚れの多い者、利根の(精神的素質に優れている)者、鈍利の者、性質の善い者、性質の悪い者、教え易(やす)い者、教え難い者どもがいて、ある人々は来世と罪過へ怖れを知って暮らしていることを見られた。
あたかも、青蓮の池・赤蓮の池・白蓮の池において、あるものは水中に生じ、水中に成長し、水面に出ず、水中に沈んで繁茂するし、あるものは水面に達するし、またあるものは水面から上に出て立ち、水によって汚されない。
まさにそのように、世尊はさとった人の眼をもって世の中を見そなわして、世の中には汚れの少ない者、汚れの多い者、利根の者、鈍根の者、性質の善い者、性質の悪い者、教え易い者、教え難い者どもがいて、ある人々は来世の罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。
見終わってから、(世界の主・梵天)に詩句をもって呼びかけられた。
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
(おのが)信仰を捨てよ。
梵天よ。人々を害するであろうかと思って、
わたくしは微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」(注7)

信仰を捨てよとするのは、釈迦の目から見て、当時のバラモン教などには、おかしな実践があったので、このような偏(かたよ)った信仰を捨てよ、と言っているとされています。

そこで、(世界の主・梵天)は、「わたしは世尊が教えを説かれるための機会をつくることができた」と考えて、世尊に敬礼して、右廻りして、その場で姿を消した。
(以上、第一巻一三六ー一三八ページ)

で、この話は終わっています。

~~~~~

(注1)懇請~こんせい~心をこめてひたすら頼むこと。
(用例)会長就任を懇請する。

(注2)尊師はよく出てきますが、あの事件のために、今は見かけることが少ないと考えられます。
以前書いたように、字引にも出ていませんから(ネットには出ている)。
世尊~釈迦の尊称。

(注3)懇願~こんがん~願いを聞き届けてもらいたいとひたすら願い頼むこと。
(用例)援助を懇願する。

(注4)上根~じょうこん~仏教語で、仏道を修行する能力のすぐれた者。また、その能力や素質。
下根~げこん~仏道を修行する能力の劣った者。また、その卑(いや)しい根性。

(注5)高閣~たかどの~これは手元の辞書には出ていません。
おそらく、高殿~高く造った御殿と同義なのではないか、と思われます。

(注6)写本~しゃほん~手書きで写した本。
(用例)江戸時代の写本。

(注7)利根~りこん~すぐれた資質。生まれつき利口なこと。
鈍根~どんこん~才知がにぶい性質。また、その人。
才知~さいち~すぐれた頭のはたらき。才能と智恵。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

執著の意味を追記します。私の不注意で、大変失礼致しました。申し訳ございません。お詫びとともに訂正させて頂きます。

執著~しゅうじゃく~仏教語~執着のこと。深く思い込む。物事に強く心がひかれる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2020/11/08 17:00 〜訂正内容〜(注7)を追加しました。すみません。

②追記: 2020/12/03 01:17 〜訂正内容〜
不適切な文章を削除して、執著の意味を追記しました。

161_お断り

ちょっとまた、お断りしておきたいことがあるので、以前書いたことも含めると重複する部分もありますが、ここに書かせて頂きます。

内容については、あくまでも、私の個人的な独断と偏見にもとづくことは、あらかじめご了承下さい。

お願い致します。


1.霊的な存在の扱いについて

今、原始仏教の経典、原始仏典を取り扱わさせて頂いていますが、この中村さんの著書に限らず、仏教では、霊的にとらないと理解しにくい、もしくは、そうしないと理解にかなり無理がある、不自然さがあるところが含まれていると思います。

原始仏教にしても、これまで少し見てきただけでも、仙人、神々、悪魔、(擬人化された存在と中村さんはお書きになっていますが)悪魔の娘と出てくる訳です(このあとは梵天ですし)。

擬人化やたとえとしての、話の進め方もアリなのでしょうが、神々(如来さんや菩薩さんや諸天さんも含めます)のあまりにも経典の中に出てくる頻度が多く、仮に、たとえだとしても、その頭の中での翻訳変換作業が面倒なことまでをも踏まえれば、やはり、現界、この世での肉体を持たない、何らかの意志のある霊的な存在としたほうが、理解もスムーズですし、自然です。

原始仏教の時代の、初期のお経や釈迦の教え、弟子の教えだけからしても、もう、こうした、神々や悪魔などが、登場してくる訳です。

しかも、中村さんは、釈迦が悪魔の誘惑や脅しを、退け続けたことに、大いに意義があるとさえ言っているのです。

原始仏教の経典にも多数出てきていて、しかも、重要な意義さえある。

大乗仏教に至っては、言わずもがなでしょう。

これを、いくら現実世界にある道具立て(概念や理論や実験)で、証明できないからといって、無記として片付けてしまうのは、やはり、どう考えても、まずいとしか思えない。

高潔な人間の態度を、いくら哲学的に誉めそやして、立派だ、立派だといっても、その道具立てに、あまたの霊的な存在が比喩の形であれ、何であれ、多数使われているんです。

演出に一役も二役も買っているんですよ。

霊的な存在を、現代の科学で証明はできなくても(実際は人知れず既に証明されていて、公表されないだけなのかもしれません。その可能性は否定できないと思います)、とりあえずは、肯定しておく方がいいと思うんですけどね。


2.文中の表記について

こうして、ブログを書かせて頂いて、また、中村さんの著書を扱い、仏教の経典の引用を多数書いていて、気づいたことなんですが。

出典が異なるからなのかもしれませんが、同じ読みの言葉を漢字にしたり、ひらがなにしたり、かなり不規則で、引用だけでも、書いていて、正直、本当にイライラしました。

自分がわかりやすいと思う書き方で、全部統一して書いてしまいたいのですが、やはり、中村さんの著書をはじめとする元々の出典、特に引用箇所は尊重すべきだ、と考えて、同じ読みの言葉でも、漢字で書いたり、平仮名で書いたりと、引用そのままの状態で、書き写すことにしたので、かなりバラツキのある状態になっています。

それ以外の、内容から考えて、私の書き方で書いてしまっても支障がないと判断したものに限り、省略したり、短く書いたり、書き換えたり、としています。

まあ、私自身も、元々、漢字で書いていたものを、見やすさといった見た目や、誤解を生じさせないことと、内容のわかりやすさためと考えて、あえて平仮名にしたものが、かなりありますから、人様のことをとやかく言えないのかもしれませんが。

もし、お読み頂いている方で、何で同じ言葉を、漢字だったり、平仮名だったりと、煩わしいな、チグハグだな、とお感じになった場合、こうした事情によることをご理解下さい。


3.ブログの更新について

細かな訂正などで、些細と思えるものは、追記にはせずに、すぐに直して更新する場合があります。

本来なら、訂正は少ない方がいいのですが、書いた見直し直後に気づくことも多く、私の不徳の致すところで、申し訳ありませんが、ご容赦下さい。

以後、もっと推敲に努めるようにしますので、ご容赦をお願い致します。

以上、とりあえず、3点のご理解をよろしくお願い申し上げます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2020/11/10 08:10 〜訂正内容〜全般にわたって、舌足らずの表現部分を補い、その他にも、いくつかの加筆・削除・訂正をしました。すみません。

160_原仏9ー2

二 娘たちの誘惑

前回の 159_原仏9ー1 では、悪魔が大きな蛇の王様の形をとって、釈迦を恐怖で屈服させようとしたことを取り上げました。

いわば、脅しとすかしのうちの脅しですね。

次は、すかすというか、欲につけこむ形での誘惑で、釈迦を何とか陥落させようと試みてくることになります。(注1)

それが、愛執、不快、快楽という、悪魔の娘としてあらわされ、出てくることになります。(注2)

漢訳仏教経典では、なぜか魔女と訳してあるそうですが。

で、その悪魔の娘たちが、父である悪魔に語りかけるくだりが出てきます。

以下になります。

さて、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちが、悪魔・悪しき者に近づいた。

近づいてから、悪魔・悪しき者に詩を以(もっ)て語りかけた。 ー 
「お父さま!なぜ、あなたは憂えておられるのですか?
いかなる人のことを悲しんでおられるのですか?
わたしたちは、その人を愛欲の綱で縛って連れて来て、あなたの支配のもとに置きましょう。 ー 森の象を縛って連れてくるように。」

インドでは、このように象をつかまえるので、これになぞらえて、立派な修行者の釈迦を誘惑して、肉体人間の性欲をはじめとする、付与された動物的な本能に働きかけて、堕落させようということなのでしょう。

それに対して、父である悪魔は以下のように答えます。

(悪魔いわく、 ー )世に尊敬される人・幸せな人(ブッダ)を、愛欲で誘うのは容易ではない。
かれは、悪魔の領域を脱している(わたくしにはどうにもならない)。だから、わたしは大いに悲しんでいるのだ。
そこで、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のように言った。 ー 
「修行者さま。われらは、あなたさまの御足(みあし)に仕えましょう」と。

御足に仕えるとは、あなたに仕える、あなたのそばにいて、そのご用を果たしましょう、ということです。(注3)

しかし、釈迦は揺るぎません。

以下になります。

ところが、無上の(生存の素因の破壊)のうちにあって解脱されているとおりに、尊師(釈尊)は気にもとめなかった。(中間略)
そこで愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは尊師に近づいた。近づいてから、傍(かたわ)らに立った。
傍らに立った悪魔の娘の一人・(愛執)は、尊師に詩を以て話しかけた。 ー 

悪魔の娘たちは、まず百人の少女に、次に百人のいまだ子を産まない女に、次に百人の、一度子を産んだ女に、次に百人の熟年の女の姿を作り出して尊敬師匠に近づきましたが、まったくお話しにならなかったということです。

中村さんは、、釈迦が迷いの生存の元を滅ぼし尽くしていたから、これらの誘惑を気にもとめなかったことをお書きになっています。

ちょっと、下品な話になってしまいますが。

これは、あれですね。まさに現代(日本だけ?)のアダルトビデオのネタに通じるものがあるのではないですか?

二千年以上たっても、肉体人間の性欲、愛欲には、国籍も何も、肉体人間である以上は、さして変わりはない、ということでしょうか?

ただ、これは対象が釈迦のためかどうかわかりませんが、男性目線の内容になっているきらいは否めませんね。

仏教が、男性目線色がやや強い?というような。

それはともかく。

かの娘たちは、続けます。

「あなたは悲しみに沈んで、森の中で瞑想しているのですか(じっとしているのはなぜなのですか)? それとも、なくした財を取り戻そうとしているのですか?
あなたは村のなかで、なにか罪を犯したのですか?
何故に人々とつき合わないのですか?
あなたは、だれとも友にならないのですか?」と。

対して釈迦は、以下のように答えます。

(尊師いわく、 ー )
愛(いとお)しく快いすがたの軍勢に打ち勝って(悪魔の誘惑に打ち勝って)、
目的の達成と心の安らぎ、楽しいさとりを、わたしは独りで(心の中で)思っているのです(さとりの境地は楽しい、そこへゆきたい)。
それ故にわたしは人々とつき合わないのです。
わたしは、だれとも友にならない。

当時の修行者は、一人で修行するのが通例だったので、このようになっています。

そのときの悪魔の娘・(不快)は、尊師に詩を以て語りかけた。 ー 
「修行僧はこの世で、どのように身を処すること多くして、五つの激流をわたり、ここに第六の激流をもわたったのですか?
どのように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにしないのですか?」と。

五つの激流が、私達を惑わす元となる、いわば、五感のことですね。肉体にまつわる五感にもとづく、各種の欲望を指していると考えられます。
すなわち、眼→視覚、耳→聴覚、鼻→嗅覚、舌→味覚、身(皮膚感覚)→触覚、の五感、欲望を起こさせる五感のことですね。
般若心経の、無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)の、眼耳鼻舌身がこれにあたりますね。
第六の激流とは、心の中の迷いや悩みを生じさせる想いを指します。

(尊師いわく、 ー )
身は軽やかで、心がよく解脱し、
迷いの生存をつくり出すことなく、しっかりと気を落ち着けていて、執著することなく、真理を熟知して、思考することなく瞑想し、怒りもせず、悪を憶(おも)い出すこともなく、ものをいうこともない。(注4)
このように身を処することの多い修行僧は、この世で五つの激流をわたり、ここに第六の激流までも渡った。
このように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがなかった。

次いで、悪魔の娘・(快楽)は、尊師のもとで、この安らぎの詩をとなえた。 ー 
「妄執を断って、仲間の群とともに歩む。
実に多くの人々は歩むであろう。
執著なきこの人は、多くの人々を、(死王(悪魔)束縛から)断ち、死王の彼岸(かなたの岸)に導くであろう。
偉大な健き人である諸(もろもろ)の如来は、正しき理法によって導きたもう。
理法によって導かれている智者たちが、どうして嫉(ねた)まれるであろうか?」

そこで悪魔の娘たちである(愛執)と(不快)と(快楽)とは、悪魔・悪しき者のところにおもむいた。
悪魔・悪しき者は、悪魔の娘たちである(愛執)と(不快)と(快楽)とが遠くからやってくるのを見た。見てから、詩句を以て語りかけた。 ー (詩句略)

(愛執)と(不快)と(快楽)とは、光り輝いてやってきたが、
風神が柔毛(にこげ)と落葉とを吹き払うように、師(釈迦)はそこで(このように)彼女らを追い払われた。

~~~~~

(注1)すかす~①なだめる。機嫌をとる。
②言いくるめてだます。
ここでは、①の意。

(注2)愛執~あいしゅう~仏教語で、愛するものに、執着すること。愛着(あいじゃく)。

不快~ふかい~①おもしろくないさま。気持ちの悪いさま。不愉快。
②気分の悪いさま。病気。

快楽~かいらく~気持ちがよく楽しいこと。特に、欲望が満たされたときの心地よい楽しみ。
(参考)仏教では、「けらく」と読む。

(注3)仕える~つかえる~①(主君・主人・親など)目上の人のそばにいてその用をする。
②役所につとめる。
ここでは、①の意。

(注4)執著~しゅうじゃく~仏教語~執着のこと。深く思い込む。物事に強く心がひかれる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2020/11/08 07:41 〜訂正内容〜文中において、五感に関して、少し補足をしました。

②追記: 2020/12/03 01:10 〜訂正内容〜
注釈を追加して、執著の意味を追記しました。

③追記: 2020/12/05 12:15 〜訂正内容〜
追記に番号を振り忘れていたので、追加しました。失礼しました。お詫びとともに訂正させて頂きます。

159_原仏9ー1

釈尊の生涯 第二章 悪魔の誘惑 ー 『サンユッタ・ニカーヤ』(1)からです。

一 蛇の誘惑

前に、152_原仏8ー2 で、神々や悪魔などを、その存在を否定してしまう、あるいは架空な想像上の産物としての存在とする、もしくは単なるたとえ話での存在としてしまうのではなく、とりあえず、現界、この世では肉体を持たないけれども、何かしらの固有意志を持つ存在のように規定しました。

で、霊的な話では、霊感のある人ならば、目に見えたり、耳に聞こえたり、体に触れたりといった、各種の感触があります。

以前に取り上げた経文も、これから取り上げるものもそうですが、釈迦には神々や悪魔とのやり取りが、あたかも人として対話する形になっているところから、神々や悪魔などは、擬人化した霊的な存在であり、釈迦にはこれらを認識できる霊感があったものとして、見ていくことにします。

ですので、私としては、神々や悪魔などと釈迦の認識を上記の形で捉えていくことにします。

中村さんは、前述の通り、これについては、一切、何も断り書きはしていません。

しかし、中村さんは、釈迦の生涯では、悪魔の誘惑を退けて、悟りを開いたことが特に重要な事柄だと述べています。

しかも、釈迦が悟りを開いた後も、悪魔に様々な形で、誘惑されたり、脅されたりを繰り返しながらも、ずっとこれを退け続けたことが、つまり、釈迦のような悟った人でも、いかなる障りがあろうとも、その境涯を維持して進んで行ったことが、不安定な境遇におかれて、悟りには遠い今現在の私達からみても、意義深いし、参考になる旨をお書きになっています。

そうした姿勢が大事だし、未だ悟りを得られない私達でも、この釈迦の姿勢は大いに見習うべきだ、とおっしゃりたいのだ、と思います。

なお、霊的な存在は、その姿を様々に変えることがありますが、ここでの悪魔も同様に描かれています。

悪魔が恐ろしい蛇の形に姿を変えて、脅しにかかるが失敗に終わり、退散する話が出ています。

すなわち、以下の通りです。

わたくしはこのように聞いた。あるとき尊師(釈尊)は、王舎城の竹林園のうちの栗鼠(りす)飼育所に住しておられた。(中略)

さて悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつような恐怖を起こさせようとして、大きな蛇王のすがたを現し出して、尊師に近づいた。(中間略)

対して、釈迦は、自らの断固たる心境を、以下の詩の形で示したとされています。

そこで尊師は、・・・悪魔・悪しき者に詩を以(もっ)て語りかけた。 ー 
「空屋に住みつき(人の住んでいない家の中に住んで)、自らを制している(自分を修養している)かの聖者は、立派である。
かれはそこで(すべてを)捨て去って行え。
そのような人には、その生活(人のいないガラーンとした淋しい家の中での生活)はふさわしい。
さまよい歩く猛獣が多く、恐ろしいものが多く、また蚊や蛇が多いが、空屋にいる(住んでいる)偉大な聖者は、そこで一本の毛髪さえも動かさない。
風が天を裂き、大地を震わせ、一切の生きものがおののくことがあろうとも、たとい胸に向かって槍を投げつけるようなことがあっても。
生存の素因のうちにあるもののなす(自分の)救護を、諸(もろもろ)のブッダもなさない。」

つまり、断固たる決意をもって修養している人間は、槍を胸に投げつけられてもたじろがない。このような修行者は、身を守るために逃げ隠れはしないし、輪廻転生の元をつくる素因は、そもそも消し去っているからだ、という内容です。

輪廻転生は、主として肉体人間がこの世で行ってしまった、真善美に悖る想念と行為の清算になりますから、不安や恐怖もこれに該当します。

だから、仏教でいうところの五蘊を滅却している修行者、中でもブッダは、たじろいだり、逃げ隠れはしないことが書いてあります。(注)

ブッダは、今でこそ釈迦を指すことが一般的ですが、元々は、悟りを得た理想的な修行者を指します。当時にも様々な宗教があり、こうした人はいたので、このようになっているとされています。

それが、諸のブッダの意味するところです。

そこで悪魔・悪しき者は「尊師はわたしのことを知っておられる(見通していらっしゃる)」
「幸せな人はわたしのことを知っておられる」と考えて、その場で消え失せた。

なお、幸せな人とは、修養を積んで達する立派な境地が幸せとされるので、このように呼ばれます。

中村さんは、これらの趣意は、立派な覚悟を持っている人は、いかなる誘惑をもってしても、揺るがすことはできないことだ、とお書きになっています。

~~~~~

(注)五蘊~ごうん~人間の心身、もしくは現象存在を構成する五つの要素。
色ーしき(=肉体や物質)
受(=感覚)
想(=想像)
行ーぎょう(=意志)
識(=判断)
の五つ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2020/11/06 08:30 〜訂正内容〜表題の、一 蛇の誘惑を入れ忘れたので、表記しました。
すみません。

158_原仏8ー8

前回の 157_原仏8ー7 の補足です。

前回までで、一応、第一章 誕生と求道 ー 『スッタニパータ』(1)を終わりにはしました。

が、そこで書いた、輪廻転生などについて、ちょっと書き足した方がいいかな、と思うことが出てきたので。

私達肉体人間は、神様の分霊を本体とした神様の子供であり、従って、その本質は神様であり、そのために、輪廻転生を通して、真善美に悖るところの、神様としてふさわしくない想念と行為の清算をされることになっている旨を、前回も含めて何回も書いて来ました。

で、その清算をするネタ元というか、元になっているのは、潜在意識と呼ばれる領域なんですね。

ここに、生まれてから今までの今回の人生、今生の想念と行為が、あますことなく、すべて、びっしりと記録されている。

普段の何気ない意識、表層意識、専門用語でいうと、顕在意識になるらしいんですが、この意識では忘れ果てているように思えても。

で、その潜在意識(五井先生的に言うと、各自の想いの世界である幽界)は、何回も何回も生まれ変わってきた、あまたの過去世のものも、すべて含まれているんですね。

五井先生は、録音盤とお書きになっていました(多分、アナログレコード盤にたとえられたのだと思います)が、現代風に言えば、メモリー、それもSDカードやUSBメモリーのような、時が立てば消えてしまう揮発性のあるものではない、絶対に劣化して故障しないハードディスク(普通のハードディスクは、モーター系のなどの機械の稼働部分があるので、必ず老朽化して故障しますが)のようなものらしいんです。

世の中には、たまに生後の記憶をすべて持っていたり、一瞬で見たものや読んだものを記憶する特殊な超人的な能力を持っている人もいるようですが、実は、肉体人間の本体、神様レベルでみれば特殊ではなく、誰もが備えている能力らしいんですね。

ただ、普通は、生活するのに、言い換えれば、肉体人間として修行する人生を送るのに、いろいろと支障が出るために、封印されているだけで。

だから、空海ではないですが、特殊な修行をつんで研鑽をして(さらには、守護の神霊さんの承諾とお力添えを得て)、それなりの能力を会得すれば、この封印が解かれる、と考えられる訳です。

まあ、ごく一部の特殊な因縁のある人以外は、これは解かれないまま生きていくのが普通だと考えられます。

で、この各自の潜在意識に記録された想念(と行為)を元に、現界、時系列でいうと現世となるこの世での人生に、様々なことが展開されていくらしいんです。

で、神様の想念と行為としてふさわしくないもの、真善美に悖るものは、それは神様の世界には、あってはならないもの、清算されなければならないものとなるので、あがないとしてのの病、争、貧、苦の現象として、いろいろなことが起きてくる訳です。

ただ、何回か書いたように、すべて清算すると、大変なことになってしまいますから、守護の神霊さんの裁量の範囲内で、この潜在意識を、特に、真善美に悖る業想念を、そのこの世での具現化の前に、未然に浄めて消して頂いているらしいんです。

その一つが夢で、何かしらこの世にあらわれてあがないをすべき大変なことも、それとはわからない形に変えて、夢として見せることで、業想念を消して下さるそうなんです。

想いは、あらわれれば消えるという特性を持っているので。(注1)

そうすることで、この世でのあらわれを未然に防いで消して下さる、と。

なので。

想念と行為、まあ、行為の前には想念がありますから、想念ですね。

これが大事になってくるんです。

私が、これまで言葉の使い方も大事ですよ、と何回か触れてきたのも、こうした理由によります。

言葉を発する前には、想いがありますし、言霊として言葉自体にも生命が宿りますからね。

で、人間は肉体そのものだという肉体人間観、そして、人生は今この一回きりだという、輪廻転生を否定する考え方、まあ、言ってしまえば、唯物論ですね。

この唯物論では、元から霊性の高い人を除いては、どうしても五感にまつわる各種の欲望にこだわり、翻弄されてしまうので、想いも乱れがちになる。

私達肉体人間の本体が神様の分霊だといっても、その内部の神様の光を出すことができる人は、まずいない。

過去世からたまりにたまっている、真善美に悖る業想念で、その光が覆い尽くされてしまっていて、生命活動維持以外に、自ら輝きだすことができなくなってしまっている。

なので、一般的な唯物論に染まってしまっている人はもちろんのこと、ある程度、信仰をしている人でも、おそらく、この光を出せる人はいない。

いるとすれば、霊性がきわめて高く(従って、他人を批判したり、罵詈雑言を吐いたりすることなど絶対にしない、高潔な人格者しか該当し得ないことになる)、多くの人を救い、導く力のある霊的に指導的な立場にある人以外には、おそらくいない。

なので、何らかの開祖が神界との約束事をして、神様の光を降ろしてもらうより、方法がない訳です。(注2)

例えば、これこれの祈りをすれば、神様の光を降ろすというように。

守護霊さんと守護神さんに、はかりしれない、ご加護とお浄めも頂いているけれど、肉体人間自らもこの神様の光を頂けるお祈りをすることによって、過去世から積みに積んできてしまった、業想像念を少しでも浄めるように肉体人間各自が努めるしかないですね。

いわば、一種の歩み寄りと言えなくもないかもしれない。

そうしない限りは、浄めずに残っている業想念は、現世か来世以降に必ず、病、争、貧、苦などのつらいあがないとして、この世にあらわれてきてしまう。

そこで、守護の神霊さんに、お浄めをお任せにするばかりではなくて、自らも世界平和の祈りをすることによって神様のお光を頂くとともに、より守護の神霊さんに守って頂きやすくすることと、普段からのご恩に感謝する(=守護霊さんありがとうございます、守護神さんありがとうございます、の感謝行をすることによって)。

これが望ましいことになると考えられます。

以上で、私が想いや言葉について、やかましく書いていたことも、ご理解頂けると思います。

次回からは、Ⅰ 釈尊の生涯 第二章 悪魔の誘惑 ー 『サンユッタ・ニカーヤ』(1)を見ていこうと思います。

~~~~~

(注1)こうは書きましたが、消える、の意味がわかれていると個人的には解釈しています。

消えるというのは、輪廻転生上、現界にあらわれる現象として具現化する元としての作用が無くなる、と解釈しています。

それが、五井先生がお書きになっていた、想いはあらわれれば消える、の意味だと考えます。

その想い、とある輪廻転生上での、想念は、記録としてはなくならない。

現界で発現する因果の原因としての因縁としての役割、というか機能はなくなっても、その想念があった事実だけは、記録として残る。

従って、漏尽通で、宿命通などの各種の神通力を持っている人には、ある時点で存在した、その想いの内容は読むことはできるし、また、わかる。

ただ、結果たる因果の元となる、原因としての因縁の作用だけがなくなった、と考えています。

(注2)開祖~かいそ~仏教語で、宗派・寺院を開いた人。宗派の創立者。祖師。

宗派~同じ宗教の中での分類。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2020/11/07 06:55 〜訂正内容〜全般にわたって、細かな訂正と追加をしました。