おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

279_原仏18ー8

278_原仏18ー7 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 仏教における「無我」  ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ところで、先の対談にあるような考え方によって「無我説」を理解することは、私達の先祖の間でも行われており、昔の歌にもあります。

引き寄せて結べば柴の庵となり解くればもとの野原なりけり。

色々な木片や草などを集めてきて結ぶと柴の庵となる。そこに我々は住んでいる。我々の身体もそのようなものである。ところが解けてしまうとまたもとの野原である。われわれの身体も命がなくなると、また、もとにかえる訳です。すなわち、ここに「無我説」の根拠を認めているのです。

~~~~~

春雨サラダ様すみませんね。

実は、私はこの縁起や無我には、めちゃくちゃ否定的な考えを持っていまして、それをまともに書くと、相当ボロクソな罵詈雑言みたいなものになる可能性があります。
既存の権威ある学説の否定みたいなものですから、かなり気が引けるんですよね。
なので、どこまで書いたらいいのか、回を改めて、まとめたものとして書くべきか、いまだに迷って決められずにいます。
そこで、書くところを (B) としてとりあえず空欄にしておき、中村さんの話だけを、読みにくくまどろっこしい表現(すみませんね。私のような下の者からみると大学者さんの文体はなじみにくいんです。特に平易を旨としたい私には)を、改竄、大幅に省略、あるいは大意のみとして、書き換えたりしています。
あまり書きたくないんですが、申し訳ありませんので、本の続きをやっていきます。
失礼致しました。
特に、下記の無我の部分は嫌なんですよね。
でも、個人的な好き嫌いで省いてしまうのは、やはり不適切なので、とりあえず、書きます。

~~~~~

(A)「無我説」というのは、「実体としての我が無い」という意味で、自己を否定したのではありません。自己とは言葉で捉えることができず、5つの構成要素の外にあるものです。ただ、我々が人間の理法、理(ことわり)に従って実践をするその中に、本当の自己が現れることをこれまで見てきたように、原始仏典では説いていますし、さらに大乗仏教になると、この点を強調するのです。だから、仏教は単なる虚無論ではなく、実体としての「我」がない(これはいつかは消えてなくなるものですから)、その奥にある真実の自己というものは、人間の理、法を実現するものとして不滅の意義を持つ。これが仏教の教えです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2021/02/21 16:11 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

278_原仏18ー7

277_原仏18ー6 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 実体の否定 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)前回(277_原仏18ー6)取り上げた車のたとえは、この本(ミリンダ王の問いのこと)の中では非常に有名なものです。ナーガセーナ長老とミリンダ王の対談の最初にあるので、余計に重要な意味を持っていると思いますが、同時に仏教思想の理解のためにも重要なものです。先のような説き方をのちの教義の学問では析空観(しゃっくうがん)といいますが、つまり分析によって空なることを知るというのです。我々の個人存在はここにあり、これに色々な部分があると考えられる。その部分部分に分けてみて、そしてどこにも個人としての実体はない、あるいは霊魂というものはないということから、個人存在の空を説く訳です。
そこで、世の人々は、我と呼ばれる実体にとらわれている。けれども、そうしたものがある訳ではないといって、客観的に見える我々の存在の一部分にとらわれることをなくさせる。つまり、我執をなくさせるというのがその趣旨なのです。そして、我執をなくすためのたとえですから、自己がないとは言わず、本来の自己はそうした(身体の)部分部分には認められない。けれども、人間が人間としての理(ことわり)、理法に従って実践する(生きていく)ことに本当の自己がある。これは、他の方面の教えとして説かれています。だから、その自己は霊魂のようなフワフワしているものでもなく、実体もないというのです。そうではなくて、人間が人間として(理法に従って)生きるところに本当の自己が存在する。それは決して物体みたいなものではないというのです。それが背後に秘められている趣旨なのです。そこに導くために、まず非常に印象的な(??)このたとえを述べている訳です。ただ、この説明だけで、問題が十分に解決できたとは言えないようです(そりゃそうでしょうよ)。
もしも、輪廻(転生)の主体を何か実体のように考えると、無我の輪廻は説明しにくくなるでしょう(そらそうでしょうよ)。そこで何か霊魂の代用品になるものを教義学者は色々と考え、後には非常に複雑な論争がなされるようになるのです(さもありなん、ですな)。そこで、後代には仏教哲学が展開されさることになりました(仕方ありませんね)。
ただ、霊魂に関する論議が仏教にとって必要となる本質的なものであったのかというと、私(中村さんのこと)としては、そうは思いません。むしろ、実践的な要請(何ですかね?これ)が先にあったと思うのです。人間はなぜ迷っているのか、これはやはり、我執があるからです。なぜ我執にとらわれるかというと、何ものかが絶対のものと言いますか、あるいは不変ななもので、恒久的なものだと思っているから、それを大事にして争いも起きる訳です。その我執を離れさせる、そしてもっと高いところ(何のことですか?これ?)へ目を向けさせる、そこが出発点(何の出発点ですか?)だと思うのです。
若い人は、合理的に考えますから(若い人に限りませんよ、これは)、実体を想定しなければ説明がつかないという議論もあるようで(もっともな話じゃないですか?)、それも確かに一つの問題だと思いますが(大問題ですよ)、しかし、一体実体という概念は何かというと、それは常に変化する作用とか、現象とか、運動とか、そういうものに対立した概念なのです(?)。従って、それは感覚の世界においてのみ成立するものです。ところが、感覚を超えた世界にそれを導き入れることに論理的な誤解がある(?)。つまり、適用範囲を逸脱している訳です(??)。ところが、世にいわゆる合理主義者というのは、その合理主義の限界というものを知らないということが言えるのではないでしょうか(???)。

(B)

277_原仏18ー6

276_原仏18ー5 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 車のたとえ ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ここで車に関する部分の一つ一つを取り上げています。

(B)

続きです。

「大王よ、もしもあなたが車でやってきたのであるなら、(何が)車であるかをわたくしに告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「軸が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「輪が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車体が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車棒が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「軛(くびき)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「輻(や)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「鞭(むち)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭(の合したもの)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。大王よ、車とは言葉にすぎないのでしょうか?しからば、そこに存する車は何ものなのですか?大王よ、あなたは「車は存在しない」といって、真実ならざる虚言を語ったのです。」
(中間略)

続きです。

(A)こう言って、ナーガセーナはミリンダ王をやり込めた訳です。

(B)

続きです。

そこで、ミリンダ王は尊者ナーガセーナにこう言った、
「尊者ナーガセーナよ、わたくしは虚言を語っているのではありません。轅に縁(よ)って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って、車棒に縁って、「車」という名称・呼称・仮名・通称・名前が起こるのです。」

続きです。

(A)つまり、部分部分がバラバラであったり、ただ積み重なっているだけでは車にはならないのです。それぞれ適当な位置を占めて相互に連結することにより、そこで仮に車という名前が出来上がるのです。縁って起こるということです。これを仏教では「縁起」といいます。すなわち、色々なものが寄り集まって個物ができるという訳なのです。
そこで、ナーガセーナがいいます。

(B)

続きです。

「大王よ、あなたは車を正しく理解されました。大王よ、それと同様に、わたくしにとっても、髪に縁って、身毛に縁って・・・乃至(ないし)・・・脳に縁って、かたちに縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、「ナーガセーナ」という名称・呼称・仮名・通称・単なる名が起こるのであります。
しかしながら勝義においては、ここに人格的個体は存在しないのです。大王よ、ヴァジラー比丘尼(びくに)が、尊き師(ブッダ)の面前でこの(詩句)をとなえました。」

続きです。

(A)体の部分や、体の中で働いている色々な精神的作用によって、「ナーガセーナ」個人という仮の名前がつけられている。けれども、究極的な立場かみると、人格的な個体は存在しない、というのです。
ここで、ヴァジラーという尼さんの詠んだ詩の文句を引用しています。女性の尼さん(?)は、すでに仏教の最初期の時代から、男性に伍(ご)して重要な位置を占めていました。ここに見られるような哲学的な論議をする人もいたのです。
その詩の文句ですが、
「たとえば、部分の集まりによって
車という言葉があるように、
そのように(五つの)構成要素の存在とするとき、
生けるものという呼称がある」と。
色々な部分が集まって車というものができる。それと同様に、我々の存在を構成する五つの要素(五蘊)が集まって、生きている存在と名付けられるものがあります。これを漢訳仏典では「衆生(しゅじょう)」と呼ぶこともあります。あるいは、唐代以後の漢訳では「友情」と訳し、友情の情は、情ではなく、むしろ「心の働き」という意味で、「人の働きのあるもの」、ですから生きもののことをいう訳で、人間のみならず、高等な動物はそこに含めますが、そうしたものは、みな五つの働きが集まっているものだ、というのです。
それを聞いて、ミリンダ王がいいました。

(B)

続きです。

「すばらしい、尊者ナーガセーナよ。立派です。尊者ナーガセーナよ。(わたくしの)質問はいとも見事に解答されました。もしもブッダがご在世であるなら、賞賛のことばを与えられるでしょう。もっともです。もっともなことです。ナーガセーナよ、(わたくしの)質問はいとも見事に解答されました。」

(以上、第一篇 第一章・第一)

続きです。

(A)この対談を見ると、ギリシャ人の王は、いつもブッダと呼んでいます。ところが、長老の方は、世尊(尊き師)という言葉を使っています。ここに同じく釈尊に言及するにしても、若干の立場の違いがあるのです。

(B)

276_原仏18ー5

275_原仏18ー4 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 名前の問い ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)この仏典の「前世物語」のようなものが、はじめに含まれているのですが、実際の対談はミリンダ王がナーガセーナ長老を訪ねていって、議論を開始するところから始まります。

(B)

続きです。

ときに、ミリンダ王は尊者ナーガセーナのいる所に近づいて行った。近づいて、尊者ナーガセーナに会釈(えしゃく)し、親愛にみちた礼儀正しい言葉を交わして一方に坐(すわ)った。
尊者ナーガセーナもまた答礼して、ミリンダ王の心を喜ばせた。そこで、ミリンダ王は尊者ナーガセーナにこう言った。

続きです。

(A)インドやスリランカの古来の礼法としては、宗教者が非常に尊ばれているので、たとえ国王といえども宗教家を訪ねて行き、礼儀正しい挨拶をしてから会話を始めるのが通例でした。ミリンダ王はギリシャ人ですが、インドの礼法に従って、自ら出向いていって恭(うやうや)しく挨拶し対談を始めたという訳です。これに対して、出家修行者であるナーガセーナも同じように答礼をしたという次第です。

(B)

続きです。

「いかにして、あなたは尊師として(世に)知られているのですか? 尊者よ、あなたはなんという名なのですか? 」
「大王よ、わたくしはナーガセーナとして知られています。大王よ、同朋である修行者たちはわたくしをナーガセーナと呼んでいます。また父母はナーガセーナとか、スーラセーナとか、ヴィーラセーナとか、或いはシーハセーナとかいう名をつけています。しかしながら大王よ、この「ナーガセーナ」というのは、実は名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。そこに人格的個体は認められないのであります。」

続きです。

(A)一人の個人というものが、実体として永久に存在するものではないということ、個人存在というものは常に移り変わってゆくものである。日本人の表現なら「無常なるものである」、これが仏教説です。だから実体としての人格的個体は認められない、そうはっきりと断言したのです。
ギリシャ人であるミリンダ王はびっくりして、こう言いました。

(B)

続きです。

「五百人のヨーナカ人(ギリシャ人)諸君と八万の比丘(びく)はわが言を聞いてくれ。このナーガセーナはこう言ったぞ、「ここに人格的個体は認められない」と。それを信じ得るだろうか?」

続きです。

(A)五百人というのは、ある程度人数が多いことをあらわす呼称です。また、八万というのは、非常に多い数をいうのです。ギリシャの哲学では、魂を大体認めます。それに基づいて個体があると考えているので、ナーガセーナの言うことはとんでもないことだという訳です。
インドでは、仏教以外にも色々な哲学学派、あるいは、宗教体系があり、それらはみな霊魂という実体があり、それがわれわれの中心にあり支配して行動を起こす、と説いていたのです。ところが、仏教では、そのような形而上学的な前提は取り除いて、現象に即して考える。そうすると、我々が生きて働いているのも、結局は色々な原因と副次的な条件、これを因縁といいますが、この因と縁が集まって、我々を生かし、活動させている。だから、何も万能で絶対的な霊魂とか神とか、そういうものを考える必要がないという立場なのです。それがこの対話の中にはっきり出ていると思うのです。
仏教では霊魂を、肯定も否定もしません。ただ、世間にそういう信仰があるとして、それを認めるという立場です。

(B)

続きです。

ミリンダ王は、それで尊者ナーガセーナにこう質問した。
(中間略)
「大王よ、「同朋である修行者たちはわたくしをナーガセーナと呼んでいます」とあなたはいいました。その場合、「ナーガセーナ」と呼ばれるところのものは、いったい何ものですか? 尊者ナーガセーナよ、髪がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「身毛がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「爪がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
(以下身体の各部分について同様の質問・返答が繰り返される。すなわち、)
「歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜(ろくまく)・脾臓(ひぞう)・肺臓・腸・腸間膜・胃・糞・胆汁・痰(たん)・膿・血・汗・脂肪・涙・膏・唾・はなじる・関節滑液・尿・頭脳など、(これらのいずれか一つ)がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」

続きです。

(A)当時、すでにインド医学はある程度進歩していて、解剖も行われていました。当時のインド医学では解剖を禁止してはいませんでしたから、死体を解剖してこういう臓器があることは知られていました。そのどれ(どの部分)も「ナーガセーナではない」というのです。
今度は少し哲学的な言葉を使っています。

(B)

続きです。

「尊者よ、(物質的な)かたちがナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「感受作用がナーガセーナなのですか?」
「表象作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「形成作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「識別作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」

続きです。

(A)ここの五つ、物質的なかたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用を、漢訳仏典では、五蘊(ごうん)といいます。つまり、我々の個人存在を構成している要素ですが、これを現代的にわかりやすく訳してみました。
「尊者よ、しからば、かたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用(の合したもの)がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「尊者よ、しからば、かたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用の外に、ナーガセーナがあるのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「尊者よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみたのに、ナーガセーナを見出だし得ない。
尊者よ、ナーガセーナとは実は言葉のことにすぎないのですか?
尊者よ、あなたは、「ナーガセーナは存在しない」といって、真実ならざる虚言を語ったのです。」
そこで、尊者ナーガセーナは、ミリンダ王にこう(反問して)言った、
「大王よ、あなたはクシャトリヤの華奢(きゃしゃ)な(生まれ)であり、はなはだ贅沢に育っておられる。大王よ、あなたが真昼どき暑い地面ややけた砂地の上を、そしてごろごろした砂礫(されき)を踏みつけて歩いて来たとすれば、足は痛むことでしょう。また、身体は疲労し心は乱れ、身体の苦痛感が生じるでしょう。いったいあなたは、歩いてやって来たのですか、それとも乗り物ですか?」
「尊者よ、わたくしは歩いてやって来たのではありません。わたくしは車やって来たのです。」
日本でも地面を裸足(はだし)で歩くと、歩きつけない人は痛みます。ましてインドでは、昼間は猛烈に太陽が照りつけるので、痛いだけでなく暑いのです。
暑さにも耐えられない。ところが、修行している修行者は、裸足で歩くのには慣れているので、足の裏が暑くなって、歩いてもそれほど響きません。ところが華奢な育てられ方をした人は、そうではなく、身体の苦痛感が生じるであろう、というのです。だから、修行者のように歩いて来た訳ではないでしょう、というのです。

(B)

275_原仏18ー4

274_原仏18ー3 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 霊魂観 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ミリンダ王とナーガセーナとの対話について見ていきましょう。
本題に入る前に、最初はいきなりミリンダ王が出てこないで、王に従ってきた廷臣、アナンタカーヤとナーガセーナが対話する場面が出てきます。これも考えようによっては、なかなか面白い対話だと思います。

続きです。

「尊者ナーガセーナよ。私が「ナーガセーナ」と言ったとき、そこにおける「ナーガセーナ」とは何なのですか。」
「では、そこにおける「ナーガセーナ」とは何なのだとあなたは考えますか。」
「身体の内部にあって、風(=呼吸)として出入りする霊魂を私はナーガセーナであると思います。」
「しからば、もしもこの風が外に出たまま入ってこないか、または内に入ったまま外に出て行かないならば、いったいその人は生きていることができるでしょうか。」
「生きていることはできません。」
「しからば、人が法螺貝(ほらがい)を吹く場合に、風が彼らのもとにふたたび入って来るでしょうか。」
「入って来ません。」
「また人が竹を吹く場合に、風が彼らのもとにふたたび入って来るでしょうか。」
「入っては来ません。」
「しからば、何ゆえに彼らは死なないのですか。」
「さあ、尊者よ、このわけを話してください。」
「風は霊魂ではありません。これらの出入りする風は、身体のなかにひそむ力なのです。」

(第一篇・第一章・第四)

続きです。

(A)ギリシャ人の霊魂観から見ると、霊魂は出入りする空気だが、インドの仏教者は、それを認めないのです。
ナーガセーナの対話の相手は、パーリ文ではアナンタカーヤという名前になっていますが、学者の推定によるとこれは、アンティオコスだったであろうと言います。彼はミリンダ王についてきた宮廷の地位の高い廷臣、官僚です。ですから、ギリシャ的な見解を持っています。
その議論は何か非常にギリシャ的なような気がするのです。それをナーガセーナ長老は衝(つ)いているのです。
ミリンダ王の問い」の中では、議論は総じて多岐にわたっていますが、大体、インド人なら当たり前だと思っていても、ギリシャ人の立場からは、どうも納得がいかないことを、片っ端から取り上げて質問をするのです。主な論点としては、ここに出てくる霊魂の問題、それから霊魂に付随する輪廻の観念です。つまり生まれ変わりです。ギリシャ人は、彼ら独特の霊魂観を持っており、その立場から質問するのです。仏教の無我説、それから、無我説の立場に立ちながら、しかも人間が迷って輪廻するというその理(ことわり)が、ギリシャ人にはどうもわかりにくかったらしい。それがまず出発点になっています。

(B)なし。

~~~~~

・廷臣~ていしん~朝廷に仕え、官に任じられた役人。

・しからば~そうであるなら。それなら。
(用例)努力せよ。しからば道は開かれる。

(参考)

・しからずんば~そうでなければ。さもなければ。

・しかるに~それなのに。それにもかかわらず。
(用例)誠意を尽くした。しかるに聞き入れない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2021/02/16 02:07 〜訂正内容〜

本文を一部訂正して、注釈を追加しました。

274_原仏18ー3

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

一 「ミリンダ王の問い」の成立とその意義

ー 「ミリンダ王の問い」の成立 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ミリンダ王はシャーカラ(パーリ語ではサーガラ)で、仏教の長老であるナーガセーナと対談をしました。それがパーリ語で記録されて伝えられ、「ミリンダ王の問い」(ミリンダパンハー)という書物として、今日南アジアの国々に伝えられています。
そのはじめの三分の一ほどは、「那先比丘経(なせんびくきょう)」として漢訳でも伝えられています。那先というのは、ナーガセーナというお坊さんの名前の音写で、比丘(びく)は仏教の修行僧のことです。漢訳では経と名付けられていても、厳密には経典ではありません。釈尊(釈迦のこと。釈迦の尊称)が亡くなった以後につくられたからです。
ですから、スリランカなどに伝えられているパーリ語聖典(三蔵)においては、ミリンダ王の問いは、経のうちには含められていません。しかし、ビルマではクッダカ・ニカーヤの中に収められ、経典としての権威が付されています。
那先比丘経には、二巻本と三巻本とがあります。どちらも翻訳者名は不明ですが、東晋の時代、大体4世紀から5世紀のはじめ頃に訳されたと思いますが、原典はもっと早くて、その原型はおそらく紀元前2世紀後半にできたものでしょう。さらに、この那先比丘経の主要部分が、現存のパーリ文の「ミリンダ王の問い」の中に含まれていますが、そのパーリ文と漢訳との対応する部分が特に古くて、紀元前1世紀から後1世紀にかけてつくられたと思います。その後、パーリ語で付け足されて、430年頃までには、パーリ文の原型ができあがったと見られています。
次節では、この両者符号する部分を主題として取り上げます。
この書物には二人が対談した内容が、対話形式で述べられていますが、これが大変に面白いのです。それはインド人同士なら何の疑問も抱かないような当たり前のことが、ギリシャ人の目から見ると奇妙で信じられない、そういうところを衝(つ)いているからです。それに触発されて仏教の修行僧のナーガセーナが応じるという訳で、これは東西の思想交流を示した非常に重要な古典です。
ガンダーラ美術は、ギリシャ美術の影響が多分に見られますが、それと同様に思想面でも必ず何かしらの影響があったに違いありません。多くの書物は消えて無くなっていますが、この「ミリンダ王の問い」は、東西の思想交流や対決を示した貴重な文献なのです。

(B)なし。

273_修行

これからいよいよミリンダ王の問いに入るんですが、私にとっては、難関というか厄介だな、と元から仏教に感じているところにもかかわる問題を含みます。

なので、もう一回、息抜きをはさむことにします。

雑感9( 270_説教 と訂正しました)で、女性についてあれこれ私(わたくし)的な説教を書いたのですが、読み返してみたら、春雨サラダさんなら難なく意味を全部汲み取れると思いますが、女性が読んだ場合に、具体性に欠けて意味が読み取れない、わからないところがあるような気がしてきました。

なので、さらにやさしく(こっちの易しいの意味です)書いておこうと思います。

まあ、恋愛好きな女性が私の文章を読む可能性は、まずない(巷の恋愛記事とはまったく毛色が違う内容なので)のかもしれませんが、万が一ということもありますしね。

まずは、女性とやることしか考えていない男性のあり方です。

私は、男性は特別に素養を持って生まれついた人を除き、ほとんどの男性が、女性の好む表面的なやさしさや、エスコートの能力を備えていない、と考えています。

特に日本人は。

だから、女性の機嫌をとるために優位に働くこうした技量は、それなりの修練を持って身に付けなければならないのです。

そうした技量を備えている男性は、極論すれば、いわば不自然な存在です。

そんな普通の一般的な男性が本来持っていないような技量を、当たり前のように備えている。

これは、本人が意図的に習得したからこそ、持っている、備えた能力となるんです。

それは、そうすることで、女性にうまく取り入ることができて、より深い付き合いに入る突破口になることを彼らは熟知しているからです。

本丸にたどり着くためには、何だってやるんですよ、彼らは。

彼らの考えていることを同じ男として想像してみると・・・。

彼らの意識(顕在意識)にあるのは、ただ、一人でも多くの新たな女性とセックスをすることか、もうすでにそれをなし終えてセフレ状態となった女性と好きな時にそれをやることだけでしょうね。

従って、彼らのやさしさは、あくまでも、セックスをするためだけの方便としてのものであり、女性に対する敬意や慈しみから生じたものではない、と言えるのではないでしょうか。

女性は大変ですよ。

これは私の独断と偏見ですが、女性は輪廻転生を通して償うべき想いや行為に深く重いものがある、業が深いから女性として生まれると思われます。

生理、妊娠、出産は大変ですよね。これは男には、到底、理解することはできません。

生理も重い人は本当につらくてしんどいらしいし、出産も、自然分娩でも場合によっては会陰切開、胎児の状態によっては帝王切開です。

出血多量ならば、重篤になり、命にかかわることになるかもしれない。

お釈迦さんも、どういう理由かはわかりませんが、母親を早くに亡くしている。

古来は産後の肥立ち(ひだち)が思わしくなくて、亡くなられる場合も多々あったようですし。

業が深くても、これだけの重責を担って生まれてくる。

大変だなあ、と。

それに、無条件にわが子を慈しむ母親の姿は美しいですよね。

なにものにも例えようがありません。

彼らが、女性のこうした特有の事情に深く想いを致して、そのわが子に対する無償の愛に、敬意や慈しみを抱いてやさしくしている、エスコートしているのではないことだけは確かだと思いますよ。

なので、考えてみて下さい。

セックスをすることだけが本当の目的で、その後は用なしのように離れたり、疎遠になったり、それまでの対応とはうって変わって雑な扱いをするような男性が、果たして、お相手の女性を人として、一個人として尊重していると言えますか?

それが、本当にお相手の女性を大切にしている、やさしい男性と言えるのでしょうか?

たとえ、こうした表面的なやさしさやエスコートの能力を備えていなくても、お相手の女性との将来や生活設計を真剣に考えている男性の方が、はるかに思いやりがあり、やさしい男性だとは思いませんか?

こうした男性の足りないところを教育(?)して、育て上げる方がはるかにいいのではありませんか?

私には、これがわからない女性が多いから、大抵の女性があの手の男性の対応に拒絶感を抱いていないと思うんですよ。

あのやり口に簡単にのせられてしまうんですよね。

また、女性によっては、私を楽しませてくれない男性なんてつまらないのよ、チャラい男性の方が性(しょう)に合うわ、という人もいますよね。

しかし、チャラいのが楽しくても、遊んでしまったらそれまで。その想いと行為は、想いの体である幽体にすべて記録されてしまいます。

そうして、それは過去世の因縁のあらわれでない限り、輪廻転生を通して、もれなく修復しなければならないものになってしまうんですよ。

なぜならば、私達肉体人間は、真善美に悖らない(反しない)神様の分霊(わけみたま)を本体とするものであるから。

神様の子供としてふさわしくない想いと行為は、すべてお直し頂くことになっているんですよ。

輪廻転生を通して。

厳しいですよね。

でも、仕方ないんです。

この世の中に病・争・貧・苦がなぜあるのか?

神様を良き存在と信じて、いろいろと突き詰めて考えていくと、こうしたことがわかってくるんですよ。

あるいは、納得できなくても、こう考えていかないと、辻褄が合わない、整合性がとれないんです。

まあ、あとは信じるか、信じないかは、女性次第なんですけどね。

まあ、今はいろいろなお付き合いの指南をする人がたくさんいて、かなり女性の機嫌をとることができる男性も増えて、女性のおもてなしの水準はかなり上昇したのでしょうが。

結論としては、表面的なやさしさやエスコートの能力を十二分に備えた人がいても、その男性当人の本質ではないことが多いので、女性の方は十分に警戒して注意した方が無難ですよ、ということです。

あともうひとつは、お付き合いや結婚に、苦楽を共にする相手(男性)を選ぶことと、結婚して子供を授かりたいなら産みたいと思える相手(男性)にすることですね。

女性は、高収入、高身長、高学歴の三高をはじめとする様々な(今は三平とか言ってますが実質は同じ)条件を求めるのはなぜですか?

ご自分にふさわしい高い人間水準(?)のお相手でないと満足できないから?

じゃあ、満足って、何を満足させるの?

本当は、快適で楽な生活を得ることと、見栄を張りたいだけなんじゃないの?

潤沢な生活資金で、余裕のある生活をして、ダンナ(配偶者)自慢、子供自慢、生活自慢がしたいだけなんじゃないの?

数々の難要求を満たした愛し合った男性と幸せな家庭を築き、良いことづくめしかないのを、当たり前のように考えているんじゃないの?

しかしさ。

良いことだけしかない生活、楽しいことだけしかない生活なんて、夢物語じゃないですか?

その夢物語、夢生活のための前提条件が欲しいんですよね。

だから、各種の高い条件を求める。

しかし、私達はこの世に楽しみに来ているんじゃなくて、修行に来ているんですよ。

だから、親子として生まれ合わせ、兄弟として生まれ合わせ、知己(ちき)として生まれ合わせ、夫婦として生まれ合わせる(巡り合い夫婦になる)ことで、様々な軋轢を生じながらも生きていかざるを得なくなっている。

万事みんな仲良く良いことばかりなら、楽しくていいですよね。

しかし、ほとんどの場合は違うんじゃないですか?

例えば、親子でこんな話があります。

男性一人で、あとは女性姉妹ばかりの兄弟姉妹の場合。

親は、唯一の男の子だからと幼少時からとても可愛がり大切に育ててきた。

ところが、その子は姉妹にもちっともよくしないし、親と同居したのはいいが、嫁さんの尻に敷かれて、親をまったく大事にしない。

あまりの状況に見かねた姉妹の一人が勝手に引きとって(しかも取り戻しに来なかったようです)最期まで面倒を見たなんて例があります。

期待して大切に育てた子供が、実質的に親孝行をしなかったんですよ。

皮肉な結末です。

ことほど左様に、ああしたい、こうしたい、うまくいくだろう、と目論んでもそうはいかないことがあるんですよ。

因縁がどうなって、どのように未来が展開していくのかは、普通の人にはわからないからです。

因縁を果たすために、家族のような形で生まれ合わせて、修行をしていかなければならない場合がたくさんあると思うんですよ。

だから、良いことばかりを期待して、夢ばかり見ても、この世は修行である以上、そんなに楽じゃないのが実際じゃないかと思うんです。

そこで、ある程度の修行が用意されているものと仮定したならば、この世に生まれて、限りある生命を生きていく時に、楽しいことはもちろん、苦労を共にしながら、それなりの信頼関係を築いた人と共に生きていくことは、幸せなんじゃないかな、と思うんですよ。

同時代を苦楽を共にしながら、生きていける。

それだけでも、たぐいまれな、奇跡的な巡り合わせであることに気づいて感謝していけるようになれば幸せだ、と。

だから、苦労をも共にできると思える惚れ抜いた男性を選びなさい、と書いたんです。

子供に関しても、器量のいい子を産みたいからと、イケメンの遺伝子が欲しいだの云々言ってる人もいますが、そんな簡単にいきますかね?

ある程度の傾向は反映される可能性はありますが、結局は因縁次第ですよ。

因縁がよくなければ、どうなるかは保証の限りではない。

人間の遺伝子情報は、数十億以上の膨大なものですよ。

あらゆる因縁に対応できるように、設計図の幅を持たせているように思うんですけどね。

仮に、器量が良さげな子供が首尾よく授かったとしても、その子の人生が順風満帆になる保証なんかどこにもないのではありませんか?

すべては因縁次第なのですから。

例えば、美人に生まれつけば、生涯年収云々だのと、学者さんの話(?)かなんかがありましたね。

あれは、美人が何のトラブルもなく、つつがない人生を送れた時にその可能性もあるという程度の話でしょう?

美人だから、何でもいいことばかりとは限らないんですよ。

例えば、こんな話がありました。

ある美人とされる女性がとある繁華街を歩いていた時のこと。

彼女はいきなり腕を捕まれて連れていかれそうになったそうです。

怖いですよね。

美人に生まれついたばかりに、よからぬ人間に目をつけられて、どんな目に遭わされるかわからない恐怖を味わったのですから。

彼女はそれ以来、その繁華街には絶対に行かないようにしているそうです。

前に超絶美人に生まれつきながらも、一切の恋愛が成就せずに、孤独に亡くなった女性の話を書きましたが、外見だけでその人の人生を断定するのが、いかに浅いかがわかろうというものではないですか?

だから、外見、外見と言ってばかりいないで、まずは、信頼関係を築いた大切な人生の伴侶の子供を授かって、さらに容姿が良ければ、なおのことありがたいぐらいでいいんじゃないですか?

だから、結婚はこの人の子供を産みたい、この人の子孫を私(女性)と共に、この世を一生懸命に生きた証として、命をつなぐ絆として残していくことができれば、これを幸せだと考えていいのではないですか?

それで、あのように書きました。

ちょっと長くなりましたが、(女性の方にとっては)いくぶん説明不足だったかなという点を補足してみました。

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①追記: 2021/02/15 08:52
②追記: 2021/02/15 12:58
③追記: 2021/07/09 12:23
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題および文章を加筆・訂正しました。