おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

362_法話50-46-2

今回は、前々回(360_法話50-45)と前回(361_法話50-46-1)をまとめた形で話をします。

なお、以下の話は、私の独断と偏見による、あくまでも個人的な考えですので、この点をあらかじめご了承願います。

前々回(以下、A とする)と前回(以下、B とする)の法句経の経文は以下の通り。

ーAー
無知な人には精神の安定統一はありえない。
精神を安定統一しなければ、
智慧はあらわれない。
精神の安定統一と智慧の備わっている人は、
涅槃に近づく。

(三七二) (第25章 出家修行者(比丘) より)

ーBー
賢者は、順次に少しずつ、
そのつど、みずから汚れを除く。
鍛冶(かじ)職人が銀の汚れを除くように。

(二三九) (第18章 汚れ より)

以上を霊性を踏まえた、他力信仰の面から見ていきたいと思います。

S さんは、精神的に安定すると、智慧(仏教での、煩悩を消滅させ、真理を悟る精神の働きのことで、旧来は習わしとしてこう書いてきた。しかし、今は知恵の表記が多いし、漢字変換もきわめて煩わしい(超面倒くさい)ので、以下、私の文内に限り知恵で統一表記する)と知識(概念を理解して頭に入れることだそうだ)が備わってくると言った。

入ってくるものは受け入れ、ただし、執着しないことが、知恵があることだそうだ。

しかも、無条件にすべての生命を愛すると常に心の中にとどめておけば、知識も素晴らしく役立ち、それが智慧とともに、知識を得る方法だと言う。

すべては無常なことがわかれば、自由になり、それが智慧の完成であるともしている。

これらは、そう簡単にできるとは思えません。

ある程度の自力の修行をして、精神を安定させる(もちろん、良い)癖ができている人ならいざ知らず、ごく普通の在家の人間が、そう簡単に精神を安定させることなど、できるとは思えないからです。

精神を安定させることは、今流に解釈すれば、想いを整える、ととらえることができる。

この想いを整えること自体が、とても難しいこと。なぜならば、修行をして悟りを得たい人でさえ、想いを整えるのは、困難をきわめ、座禅観法を何十年として、ようやく悟れる場合があるかどうかの難行苦行だから。

自力にしろ、他力にしろ、想いを整える修行をして、ようやくいくらか、想いが乱れ難くなってくるのが、せいぜいではないでしょうか。

悟りを得ていない一般的な私達が抱きがちになる神様のみ心から外れた間違った想いの業想念、人様より抜きん出たい、いい思いをしたい、憎い、欲しい、妬ましい、などなどを抑え、整えるには、どうしても、それなりの修行、最低でも修養が必要になる。

過去世からたまっている様々な業想念が、この世を生きていく時に、縁に触れ、機に触れて、わき上がるようにあらわれてくる。

ちょっと精神統一をしよう、想いを無にしよう、と試みればわかるけど、私達の頭の中には常に何らかの想い、しかも、良き想いよりも、乱れた想いの方が多く行き交い、整えるのは容易でないことがわかります。

従って、精神を安定させて知恵を得ること自体が、生易しいことではないのですよ。

それゆえに、世の中のあらゆるものを、良き想い、良き行いのために、正しく取捨選択し、正しく活用できる知識として蓄えていくことそのものが、それなりの努力を要することになります。

だから、私なんかは拙い知識ながら、祈りと感謝行をおすすめしてきた訳です。

そして、無条件にすべての生命を愛するとは、どういうことなのか。

これは、すべてのものが、ありがたい、と心から感謝できるようになることです。

S さんはどうお考えなのかはわかりませんが、これは動植物に限りません。

あらゆるものとは、あらゆる物事です。

つまり、自分にとって、快いもの、都合のいいもののみならず、自分にとって、快よくないもの、都合の悪いものまでも、すべて含めて、無条件で受け入れることです。

しかし、こんなことはできませんね。

悟りを得た人以外は。

以前に、縁起の話のところで、自分のものは何一つない、という話がありました。

あれは、そのまま普通の解釈で考えれば、行き着くところは、虚無主義です。

一般的には縁起がすべてを関連づけている特別な存在であるかのようにしてありますが、あのように、縁起への投入と産出、今流に言えば、インプットとアウトプットをない、ない、ないの虚無にするならば、媒体たる縁起だってない、虚無ですよ。

そうでなきゃ、おかしいじゃないですか。

明らかに、理解の仕方が不自然です。

すべてのものは、神様があらわしたものである。

この自分の肉体を動かしている、魂要素の有機的な生命体、組織として機能させている命も、神様から分け与えられたもの、魄(ぱく)要素の肉体も神様から与えられたもの、身の回りの物から何から、そして、あらゆる生命から、何から何までみんな神様があらわしたもの、お与えになったもの。

そう考えてくると、自分のものは何一つない。

すべては神様があらわしたもの。

すべては神様のものということになる。

永遠絶対なるものは神様だけ。

あとはみんなあらわれては消えてゆく、万物流転の姿。

だから、この世も無常になる。

このように考える場合には、すべてのものは神様のあらわしたもの、すべては神様のもの、みんな神様なんだ、とただ、ありがたい、と感謝一念となる。

まあ、実際は、悟りを得たような人でなければ、こうした心境にはなれないと思うので、難しいことですけどね。

そうして、業想念のような間違った想いや行いがなくなれば、神様の光そのままの正しい神様の行いや、そのための知恵もそのまま何の差し障りもなく、この世にまで降りてくる。

つまり、A はこのように解釈してくると、悟りを得ると、神様の光そのままの正しい知恵をあらわすことができる、と読み替えることができます。

涅槃に近づくとありますが、涅槃は悟りを得た境地のことなので、悟りを得る境地に近くなれば、こうした神様の知恵を出す可能性が増えてくる、という意味合いに理解できると思います。

なので、順序としては、むしろ逆で、想いが浄められて、精神が安定してきて、悟りを得る状態に近づく、涅槃に近づいていくからこそ、神様(仏様)の智慧がそのままあらわれてくる、とした方がわかりやすいと思います。

次に、B ですが、お釈迦さんも、試行錯誤の後に、さらに 6 年もの苦行をして、その末に、悟りを得た訳です。

だから、お釈迦さんの高弟(弟子のうちで特に優れた者)も含め、悟るには一足飛びにはいかないのはわかりますよね(以前、中村さんの原始仏典で、お釈迦さんのお弟子さん達、しかも、高弟ではない人達が、割と簡単に悟れたような事例がいくつかありました。私がこれらの事例に対する疑問を呈したのは、この理由によります。お釈迦さんでさえ、紆余曲折を経たのだから、いかにお釈迦さんという優れた指導者を得て、それなりの指導を受ける好適な環境が整っていたとしても、そんな数日とか、簡単に悟りを得たのはおかしいのではないか、と)。

従って、この B は、どんなに厳しい自力修行をしても(浄土門や世界平和の祈りの他力でも)、やはり、それなりの段階を踏んで、少しずつ確実に精進していかないと、悟りにはなかなかたどり着けない、という意味をあらわしていると思います。

仮に、2 段階、3 段階の長足の進歩があったような場合でも、それは目には見えない過去世での積み重ねがあったからこその賜物であって、原則としては、謙虚におごりたかぶらず、常に想いを整えるように努力しながら、一歩一歩、着実に歩んで行きなさい、と暗示している経文のように思います。

~~~~~

・一足飛び~①両足を揃えて翔(と)ぶこと。
②一定の順序を踏まないで、一気にとびこえること。
(用例)一足飛びに出世する。
ここでは、②の意。

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①追記: 2021/05/05 06:47
②追記: 2021/05/05 14:27
③追記: 2021/05/05 19:27
④追記: 2021/05/05 21:09
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、内容を加筆・訂正しました。

361_法話50-46-1

46 そのつど、そのつど、気づく

賢者は、順次に少しずつ、
そのつど、みずから汚れを除く。
鍛冶(かじ)職人が銀の汚れを除くように。

(二三九) (第18章 汚れ より)

また、以下、一通り S さんのお話を見ていきます(かなりの要約・追加・意訳・改変などあり。お釈迦様も敬称を省き釈迦とする。ご了承下さい)。

人間には、立派になりたい、清らかな心になりたいという気持ちがある。どのような宗教でも、理想的な人格の完成を目指す。しかし、大抵はうまくいかない。

ある者は、心を清らかにしようとして、極端な原理主義的な方向に走る。また、他の者は、そんなことはできない、と尻込みをする。いずれにしても、心を清らかにすることを知らないのだ。

釈迦は、「順次に少しずつ、そのつど、そのつど、磨くのだ」と言った。悟ろうとか、人を救おうとか、大胆なことを考えるのではなく、少しずつ、そのつど、そのつど、努力していくのだ。

物事には、順序がある。最初の一歩を踏み出していけば、やがて完成に至る(?)。

そして、その際には、そのつど、が大事なポイントになってくるのだ。

誰かに出会い、何かに触れて、怒りや悲しみがあらわれる。何かの縁に触れて、人を殺すなどということはないとは言い切れない(?)。つまり、そんな瞬間まで感情がたかぶるのを放っておけば、もう、リセットなんてできなくなる(?)のだ。

よいことをするにしても、悪いことをするにしても、それを「する瞬間」がある。怒る時も、嫉妬する時にも、その瞬間がある。

だから、大切なことは、そのつど、その瞬間に気づくことなのだ。怒りが起こりそうになったら、その瞬間に気づくこと。怒りが爆発しそうになったら、その瞬間に気づいて、そこに釘を打っておくのだ。そうすれば、悪というものは増殖しない。決して、人殺しや大きな悪事は起こさないのである。

面白いことに、瞬間の感情は、とても簡単に完了できる(?)のだ。気づいた瞬間に完了してしまうのだ。しかし、怒りの感情が入り込んだ瞬間、それを気づかずに放っておくと、ウィルスのように瞬時に増殖する。爆発するまで増殖するので、どうにもならないのだ。

だから、そのつどの瞬間に気をつければいい。それを続けていくことによって、やがて心は清らかになっていくのである。

鍛冶職人が汚れを落とすように、少しずつやればいい。それはどんな人でも、誰にでもできることだからだ。

とのこと。

なお、前回と今回の内容について、次回にまとめたいと思います。

~~~~~

・鍛冶~かじ~金属を熱し、打ち鍛えて、種々の機械・器具を作ること。また、その人。

360_法話50-45

45 智慧があるとは心になにもないこと

無知な人には精神の安定統一はありえない。
精神を安定統一しなければ、
智慧はあらわれない。
精神の安定統一と智慧の備わっている人は、
涅槃に近づく。

(三七二) (第25章 出家修行者(比丘) より)

また、以下、一通り S さんのお話を見ていきます(かなりの要約・追加・意訳・改変などあり。お釈迦様も敬称を省き釈迦とする。ご了承下さい)。

人はいつも混乱して感情にふりまわされている(そうだ)。好きだから飛び込み、嫌だから逃げ、怒れば攻撃するという生き方(だそうだ)。それは理性のない危険な状態だ(そうだ)。

子供は嫌だといって泣きわめき、欲しいといっては泣きわめいて、親の言うことを聞かない。では、大人になってそれを止めたかというと、そうではない。相変わらず、子供時代と同じように感情に支配されている。だから、総合的にみて、人生はうまくいっていないのだ。

何をするにしても大事なことは、精神的に落ち着くことだ。精神が安定すると、物事を明晰(めいせき)に見ることができる。感情に振り回されないから、正しく理性的な行動ができるようになるのだ。

若い人が、ゲームやギャンブルなどに熱中して、遊び呆(ほう)けていれば、お先真っ暗な人生を歩むことになるだろう(?)。しかし、理性にもとづき考えれば、きちんと仕事をすべきことがわかってくる。感情がたかぶっても、理性でこれを抑えれば、将来の見込みは立つ訳だ。

精神的に安定すると智慧と知識も備わってくる。知識とは概念を理解して頭に入れることだ(そうだ)。けれども、時には知識が危険をもたらす場合がある。知識が発達して、科学技術が進歩したのはいいが、核兵器が作られてしまった。ひとたび、核を使えば地球は終わりなのに、それでもまだまだ核兵器を作ろうとする。これは、明らかに愚かな行為なのだ。だから、知識だけでは、幸福の役に立たないのである。

知識がありすぎると、判断ができなくなる(そうだ)。何のことはない、無知で行動できない人と変わらないのだ。だから、きわめて難しい道を歩んでも、結局は元のスタートラインに逆戻りだ。両者の違いは、疲れているかどうかくらいしかない。

一般的には、勉強すれば頭がよくなると思われている。しかし、現代人は知識や情報を詰め込むだけだから、かえって頭が悪くなっている(?)。何のために知識や情報を蓄えるのか、を考えずに詰め込むからだ。そうして、結局のところ、何もわかっていない。だからといって、何も知らないとも言えない。頭の中には何の役にも立たない知識(?)が雑然としているだけ(?)なのに、「知っている」と思っているのだ。余計な知識のために、物事を明晰に見ることができなくなっているのに・・・・・。

智慧があるということは、明晰であるということだ。だからといって、特別に何かがあるということではない。実は特別に何もないということである。心の中に何の価値判断もないことなのである。

ある価値判断や、特定の主義などを強く持っていると、それに当てはまるものしか見えなくなる。

あるいは、何かの知識にしがみついていると、それで頭が一杯になり、他のものが見えず、頭に入らなくなってくる。

入ってくるものは受け入れる、しかし、それには執着せずに、持ち運ぶことはしない。 ー それが智慧があるということなのである。

そういう人には、こだわりがなく、従って、争うことがない。役に立つ知識は宝になるが、何の役にも立たない知識はゴミ(ひどい)である。とても高価な衣装でも、まったく使わなければゴミ同然(やっぱりひどい)だ。

世の中では、テレビや週刊誌などのマスメディアによって、興味本意の情報が垂れ流されている。それらは、欲望を煽り、不安を掻き立てるだけの無用な残飯(ひどい)だ。

やみくもに知識を詰め込むと、あまりにも余計なことを考えすぎてしまうので、妄想もふくらんでくる。

そのために、今やるべきことがおろそかになって、いつも不安と焦りで追い立てられているような生き方になってしまうのだ。

仏教では、「自らの役に立つものだけを学び、そうでないものはやめよ」と教えている。

人間にとって、最も大切な勉強は、自分の心をきちんと育てることだ。そのためには、無条件にすべての生命を愛する、と常に心の中にとどめておくことだ(無理ですね。そんな簡単にはいかない。段階があるから)。すると、どんな知識も素晴らしく役に立つのである。

それが智慧とともに、知識を得る方法なのである。

すべてのものは無常で、変化しないものはない(あるんじゃないですか?証明されていないけど)。そこがわかれば、自由になります。それが智慧の完成である。

とのこと。

~~~~~

・明晰~めいせき~はっきりしていること。筋道が通っていること。また、そのさま。
(用例)頭脳明晰。明晰な論理。

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追記: 2021/05/04 10:35 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正し、注釈を追加しました。

359_法話50-44

44 法を念ずる

仏弟子は、
いつもよく覚醒していて、
昼も夜もつねに法を念じている。

(二九七) (第21章 さまざまなこと より)

以下、一通り S さんのお話を見ていく(かなりの要約・意訳・改変などあり。なお、お釈迦様も敬称を省き釈迦とする。ご了承下さい)。

私達は釈迦だけではなく、法も念じる。法とは教えである。

法を念じるとは、釈迦の教えを常に考えていることである。釈迦がこの世にいない以上、教えがその代わりとなるのだ。彼の遺言自体も「自分が死んだ後の指導者は、自分の教えだ」としていた。

法を念じると、どのような問題が生じても、対応の仕方やあるべき生き方がわかってくる。

世の中は誘惑だらけだ。私達が欲に駆られるまま、怒りの心(以下、想いとする)で生きているならば、修羅道や餓鬼道、畜生道に陥ってしまうだろう。

だが、法を念じていれば、こうした誘惑を避け、自らを戒めることができるのだ。

「悪は悪だ」と言い切る勇気が出てきて、自ずと明快な答えが出る。

釈迦は、人生に対してあらゆる実験をした。だから、その教えを念じていれば、暗闇にさまよい、失敗することはない。無駄がなくなるのだ。

人生は後戻りはできない。やってみなければわからない、では危険なのだ。仮に何かを 10 年間やって失敗したならば、再び10 年前には戻れない(転ばぬ先の杖か。うーん・・・)。

だから、何かを試す前に釈迦の教え(法)から学べばよい。

釈迦は、怒りと見栄と、高慢を持って物事を行うと、確実に悪い結果をもたらすと言った。優しい、人を助ける気持ちを持てば、結果は望み通りにはならなくても、決して悪い結果にはならない。最小でも、よい結果となるのだ。

釈迦は、人生は苦だ、と説いた。法を念じる時には、「これはどういう意味だ?なぜ、彼はそう説いたのか?」と考えるのだ。

この世には、客観的な苦というものはない(???)。楽しみばかりを追っていけば、すぐに苦しくなる。シーソーは、上に上がると気分は爽快だ。しかし、ずっとそのままでは面白くない。上下するから面白いのだ。人生はこのように苦楽が巡るものなのだ。

人生にいくら幸福を追い求めても、結局は不満足に終わる。釈迦は、この不満足こそが苦だ、と説いたのだ。

さらに、彼は、生老病死が苦だと説いている。

生苦は、生まれる苦しみだ。私達は生まれた時に苦しかったかどうかは覚えていない(???覚えている人もいる)が、母親にとってはあれほどの苦しみはないでしょう。

老苦は、老いる苦しみのこと。歳をとることは、喜びではない。体力は落ち、視力は落ち、腰が曲がる。膝が痛い、腰が痛いと言いながら、一歩一歩歩くのは大変だ。

病苦や死苦は言うまでもないだろう。

生老病死は、誰にとっても苦しみであり、例外はない。

こうして、釈迦の教えを一つ一つ考えていくこと。それが、法を念じることだ。

法を念じれば、私達の生き方は必ず変わる。「なるほど、彼の教えはすごい」と納得して、想いがしっかりと確立されていくからだ。

とのこと。

358_法話50-43

43 仏を念ずる

仏弟子は、
いつもよく覚醒していて、
昼も夜もつねに仏を念じている。

(二九六) (第21章 さまざまなこと より)

また、以下、一通り S さんのお話を見ていくと(かなりの要約・意訳・改変などあり)。

仏を念ずる。それはお釈迦様はいかなる人かを確認することだ。お釈迦様を具体的に念じていくと、人生のアドバイスがえられ、励みを得て自分を向上させることができる。

上座(部)仏教の国は、お釈迦様の像を礼拝する。お釈迦様は、私達の偉大なる指導者、師匠であり、慈愛をたたえた母親のような存在だ。彼は雲上人ではなく、人間として人格を完成した人なのだ。どんな悩み事に対しても見事に答えている(??じゃあ無記は?)。

ゆえに、私達はお釈迦様の人格を尊敬し、生き方を学び、教えを実践するために礼拝しているのだ。彼の歩んだ道は、私達の模範になっているのだ。

お釈迦様は如来である。如来の徳の1つは、自ら実践したことのみを、人々に語っていることだ。自ら実践しないことを語ることはしない。彼に倣(なら)うならば、人にあれこれ言うよりも、まずは、自ら実践することが必要だ。もちろん、自分の子供に対してもこれは変わらない。誰に対しても、だ。

生きるのは大変苦しいことだ。逆境になれば悲しみにくれることにもなるかもしれない。しかし、お釈迦様を念じれば、自分に負けてはいけない、という気持ちになることができる。

お釈迦様は、6 年もの大変な苦行をした。これは、私達がどんな逆境に陥っても、それを乗り越えるのだ、負け犬になってはいけないのだ、というメッセージでもある。

だから、彼のことを念じれば、心が明るくなり、落ち着いてくる。困難があっても、それを克服しようとする気持ちになることができる。

また、私達は欲をかいて失敗することもある。そこで、お釈迦様を念じれば、欲から離れようという気持ちになれる。

お釈迦様には、諸々の国王をはじめ、さまざまな人々から布施があった。しかし、彼は、決してこれらにこだわり、しがみつくようなことはしなかった。

病気になった時にも、すべては移ろいゆくものである、と淡々としていた。

このように、お釈迦様の人生そのものが、生誕から死ぬまで、ずっと模範になるのだ。

彼を念じていれば、悩んだり、途方に暮れることは、決してない。熟睡して、爽やかに目覚めた時のような、あの爽快な生涯を生きることができるのだ。

だそうです。

357_法話50-42

42 実践するだけで問題は解消する

真理を喜ぶ人は、
澄んだ心で清らかに暮らす。
聖者の説いたしんる道を、 
賢者はつねに楽しむ。

(七九) (第6章 賢者 より)

以下、一通り S さんのお話を見ていくと(かなりの意訳・改変などあり)。

あらゆる宗教は、創造主や神様などの概念を持ち出し、浄土や天国など、形而上学的な理想の別世界を描く。人間には、それが確実に存在するかどうかもわかりはしないのに。それよりも、今自らが平和であることが問題だ。

その自分は、今この私だ。昨日の私でもなければ、明日の私でもない。明日はまだ来てもいないのだ。まずは、今の自分が心配事だ。

過去にこだわれば悩み苦しむし、未来も不確実で苦しむ。今の自分がここにはある。真理とともにあるのだ。だから、しっかりと観察すれば、心は見事なまでに清らかになり、安らぎを得られる。

真理は、時空を超えた別のところにはない。時空間でも、あるのは今、ここだけだ。だから、ここに真理を探せばよい。

宇宙の真理がどうの、仏とは何ぞや、などと延々と論じても意味がない。それは今この生き方とはまったく無関係である(?)し、これを明らかにしたからといって、心が清らかになるものではない。

多くの宗教は、宇宙の根本原理とか、創造主としての神といった、具体的・現実的にとらえることができない観念を信じるところから始まる。

仏教の「信」とは、何かをやみくもに信じる信仰ではない。事実の具体的な観察で得ることのできる深い理解なのだ。いわば、確信とも言うべきものだ。

お釈迦様は、真理は、誰もが実践できるものでなくてはならない、と説いた(中村さんにもこの話は出ていました)。

たとえ信じていなくても、自ら実践してみれば、実感としてわかってくるものであり、それによってあらゆる問題が解消していく(?)点が素晴らしいのだ。だから、自ら実践して確かめていけばよい。

ざっと、こんな感じです。

あとは、皆さんのご判断にお任せ致します。

356_法話50-41

41 自分を拠り所とする

自分こそ自分の救済者である。
他人がどうして自分の救済者であろうか。
自己をよくととのえることで、
得難い救済を得る。

(一六〇) (第12章 自己 より)

ちょっと思うところがあって、とりあえず、S さんのお話を一通り見た後、再度考え直す形をとります。

まず、S さんのお話(適宜、要約・改変・漢字化などあり)。

そもそもお釈迦様の教えには、誰かに救ってもらおうとする他力的なものはありません。だからといって、お釈迦様の他の宗教と対立することはせず、相手の考え方を否定することは基本的にしませんでした。

ですが、一つだけ、真っ向から否定した教えがあります。六師外道(ろくしげどう)と呼ばれた中の一人のマッカリ・ゴーサーラの教えです。

マッカリ・ゴーサーラは、すべては宿命だ、と説きました。一つの原因ですべては決まる。物事はどうせ決まっているから、何もする必要はない。

巻いた糸をほぐせば、ほぐれながら糸玉は小さくなり、ついには1本の糸となってなくなる。そのように、人間は何刧(なんこう)くらいで玉になる。何刧くらいで奴隷になる、修行者になる、と定められている。このように、すべては既定のものとして、輪廻転生を通して終わっていく、という教えなのです。つまり、そこでは、(結果として)人間の前向きな意志や努力を否定しているするのです。

この教えについて、お釈迦様は次のように述べています。

小さな小川があって、そこで網をかける。小魚だろうが、大きな魚だろうが、ヘビであろうが、カエルであろうが、みんな網にかかってしまう。網にかかればみんな死んでしまう。

そのように、彼の教えは人々の努力を否定して、みんなを悪い方向へ持っていってしまうー。

マッカリ・ゴーサーラの教えと同じように、他力的な考えには、人間の意志や努力を否定してしまうところがあります。ですから、お釈迦様の教えとは違うのです。

お釈迦様は、自分以外のものに頼ってはいけない、と説きました。スッタニパータという最古の経典には、「私は救済者ではない。指導者である」という言葉があります。

ある行者が、お釈迦様に対して「どんなに苦行をしてもたくさんの苦しみがあります。どうか、私を救って下さい」とお願いすると、「私は誰も救うことはしません。あなたが自分で真理を発見してみなさい」と言ったそうです。

お釈迦様の基本的な姿勢は、「私は道を説くけれども、それを実践するのは、あなた方一人一人の自由意志です。自ら実践して、それを体験してつかめばよい」です。

常に自らを拠り所とするのが、仏教の教えなのです。

ちょっと考えます。

以下は、個人的な独断と偏見ですので、いろいろと異論があるかとは思いますが、ご容赦願います。

まずは、すべては決まっていることについて。

これは、ある意味、大枠において決まっているのかもしれません。

ただし、ゴーサーラの言うように、輪廻転生の上がりの終着点が様々とはならず、それなりに霊性を開発した形でのものとなる、と考えます。

この世に生を受けるということは、主として、輪廻転生での各自のあまたの過去世で行ってきた、神様のみ心にそぐわない真善美に悖る想いや行いである業想念の償いを通して、神様の分け命(霊魂魄)についた汚れを落とすことで、肉体を持ちながら、神様のみ心に沿うような想いや行いができるような人間に近づいていくための修行となるのが基本です。

言ってみれば、基本的には、修行として、この世に生まれてくる訳です。

神様は、魂(霊魂魄)を、厳しいこの世で揉まれながら、磨きあげながら、立派にするために、わざわざこの世に送り出して下さる訳です。

人身得難しのように、生まれたくても、なかなかこの世に生まれることができずに苦しんでいる存在があることからすれば、修行の機会が与えられることは、やはりありがたいことになる。

この世に生まれて、悲喜こもごも、中でも、辛いことや苦しいことを通して、魂を鍛えて立派にしていく。

それと並行する形で、神様の世界をこの世に映し出すように、この三次元の地球世界を開発していく。

こうした過程が望まれている訳です。

どうせ終着点が一緒ならば、どんな過程でもぶっ飛ばして、何も必要ない、という訳にはいかない。

皆それぞれに、最終的に果たす役どころは異なっても、千差万別以上の数え切れない履修過程があるのだから。

以前、今のように動物や植物を犠牲にしながらやっていかざるを得ない形となっているのは、神様が暫定的にこのような状況を想定していると考えられると書きました。

このように考えると、これだけのたくさんの肉体人間を、神様がこの世にあらわしている、送り出している、ということは、それなりに意味がある、と考えざるを得ないんですよ。

つまり、私達には、それぞれに、意志や努力が期待されている、ということ。

ゴーサーラのような考え、意志や努力を否定して、修行で悟れないだの、としてしまうと、行き着くところは虚無主義ですよ。

どうせなるようにしかならないんだから、何したって構わねえだろう、と世の中が、各自のやりたい放題、メチャクチャのグチャグチャになることを肯定することにつながる。

あらゆるものの創造主が悪魔的なものならば、こうした考えもありなのかもしれない。

しかし、神様の存在、(時代背景もあって神様とはみなまに言わなかった)お釈迦さんのように自らの仏性=神性を信じるならば、こうした野放図なデタラメな考え方は否定せざるを得ない。

自らを拠り所とするというのは、すなわち、自らに仏性がある、神性があるということを暗黙の前提にしているととらえることができる。

そうでなければ、自らを正しく、仏性に向けて、神性に向けて、向上させていくことができないからね。

従って、私達は、自力(これは現代ではほぼ実践不可能と思われる)にしろ、他力にしろ、自らを拠り所としながら、精進していくしかない、となりますね。

普通の生活も修行の一環でしょうけど、やはり、それと並行して、守護の神霊さんが何らかの形で、信仰に導くと考えられます。

~~~~~

・刧~こう~①仏教語~きわめて長い時間・年月。
囲碁で、一目(もく)を双方で交互に取り返すことができるという形。ともに一手以上他に打ってからでないと取り返せないという決まりがある。
ここでは、①の意。