おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

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植芝盛平先生(私は合気道もまったくやったことがなく、ご縁もなく、ただ、後世の人間としてその存在を書物で知っただけですが)は、比較的小柄な方だったようですよ。

おわかりになると思いますが、それでも何人もの大男がまったく問題にならない、というか、とにかく超人的な神通力を発揮された(もっとも、植芝先生の場合は、幾世もの過去世での研鑽に加え、現世での精進に次ぐ精進の末、あのような境地に到達されたのでしょうから、憧れて現世だけで追い付こうとしても、まず、無理でしょう)。

身長がソコソコに高く、ルックスもまあまあ?、体育会系外見でも、実は気弱で病弱、運動神経が貧弱で、鈍くさい人間はいるんですよ。

逆に、小柄でも運動神経がよく、性格も陰湿で、それはそれはもう凶悪なイジメッ子もいるんです。

それに、身長やルックスに恵まれたからといって、簡単にモテるほど人生は一筋縄ではいきません。

そのモテるのも、相手の質も問題だし、付き合って何を高め合えるのかも、その当人たち次第です。

KI さん、あなたは、あなたなりに、気高く人生の荒波に立ち向かって、懸命に生きてこられました。

しかし、そんな強い精神力を持てない意気地のない人間も、当然ながらいるんです(私はそうです。背の高さのいかんにかかわらず、同胞にはこうした方も少しはおられるのではないでしょうか)。

ある程度(否、かなりですかね)、霊性の開発が進めば、三高(死語?)などと違った価値観が見えてくるんですけどね。

そうすれば、欲望と恐怖に翻弄されにくくなってくると思います(悲しいことに、未だに欲で釣り刑罰で脅す、古典的様式が残っていますので)。

もう、モノ、カネの物欲、肉体にまつわる性欲を始めとする各種の私欲、それらを失うまいとする恐怖によって、相互不信により相争う時代は、そろそろ卒業してほしいと願っています。

ちなみに、私は小柄な方が控え目にすべきなどと思ったことは、一度もありません(あったのかもしれませんが、現時点で思い出せないのです)。

たとえ背が高めでも、物心ついた時から、頭の回転が鈍い、運動オンチ、女子にほとんど相手にされない等々の劣等感を身に染み込ませ、子供の頃から悲哀を味わいながら生きてくる(泣)と、そういう人様を見下す感情は抱きにくかったせいかもしれませんけどね(悪魔のような人間にイジメられると、逆に絶対にああはなるまいと、ささやかな反骨精神が育つような気がします。もちろん、危険極まりないので、経験しないに越したことはないですが)。

私は小柄とは言えませんが、自分より体格のいい背の高い若者に対すると、確かに最初はちょっと圧迫感を感じることはありますね(最近は、女性で 180 センチを優に超える人もチラホラいますね。170 センチ前後の女性でも、ハイヒールを履かれると 180 センチを優に超えてしまいます)。

私が感じたこの圧迫感を、小柄な方は感じることが多いのかもしれません。とはいえ、この自分より体格に勝る者に対して抱く劣等感というか、敵意(ちょっと言い過ぎですかね?)は、背の高さにかかわりなく、万人共通のもののようにも思えます。

まあ、あまりこういったことは、皆さんおおっぴらには口にはされないことでしょうけど、だからこそ、背が高い人や俗に言うハンサム(今ならイケメン)系の人は、よほど注意しないと思わぬところで、足元をすくわれかねないことを心すべきだと思います。ちょっとチヤホヤされて、イイ気になるなどもってのほかで、軽薄の謗りを免れません。

だから、背が高めだからといって、優越感に浸るどころか、逆に、様々な面で気を遣う人も、意外といるかもしれませんよ。

それに、考えてもみて下さい。

人間の容姿端麗?な若い時期なんて、残念ながらそんなに長くはないんです。

ましてや、体が利かなくなり、介護を受けざるを得なくなった将来のことを考えると、大柄なことは様々な意味で大変なことだとは思いませんか?

ほんの僅かな稀少な若い時期を、線香花火のようにモノ、カネ、オンナ(オトコ)と求めるのも、仕方のない一面があるのかもしれませんが、うーん、どうですかねえ。

霊性の開発がかなり進んでくると、こういった見てくれに振り回されることも徐々に少なくなってきますし、男女ともそれぞれの固有の性の特有の魅力が自然に滲み出てくるようですので、時間はかかるかもしれませんが、とにかく、霊性の開発に力を注いで頂きたいのです。

私は、調和を乱さない神性をあらわす各人固有に与えられた美、これこそ、皆さんに目指して頂きたい美しさだと考えています(なので、一人でも多くの女性が霊性を開発して美しくなってほしい願っています。女性のレベルが上がれば、男性も引っ張られて、自然に上がります。なぜなら、恋人、伴侶、母たる女性が霊性を上げて美しくなれば、周囲の男性も影響を受けずにはいられないと考えられるからです。これが、少しずつ浸透して影響力を持ってくれば、女は金についてくる、といった類いの考えも、改めざるを得なくなってくると思います。生身の女性は、極めて現実的かつ即物的で、打算的ですが、敢えてこう希望します)。

各人の置かれた物理的制約(それはそれとして置いといて)の中ではない、根本的に違う発想から始めないと、モノ、カネ、そしてある意味その延長とも言える肉体的美醜にこだわる唯物論(動物の生態や遺伝子云々を金科玉条にして、人間に援用するのもこの類いでしょう)を脱するのは、難しいと思いますので。

というのは、唯物論にこだわっている限り、いつまでたっても、自己保存の本能、つまり自らを中心とした利害得失のことばかりを考えることになり、調和の地平にはなかなか到達できないと考えられるためです。

例えば、男性はタネをばらまきたい、女性はよりよい個体を残したい、なんてこの典型じゃないですか。人間が肉体生活を送るために(修行のためにやむを得ず?)備わった動物的本能ばかりを強調して、これが人間の本質だ!とばかりにあらゆる物事を考えるのは、いかがなものなんでしょうか?人間の本質は、肉体をまとっていても、別にあると思うんですけど。

動物としての本質ばかり重視して強調するのは、基本的に自らの個体の維持繁殖のことばかり、従ってそのための競争と資源の確保ばかりに固執して、是認することですよね。

KI さんのご経験に絡めて女性で言えば、浮気を重ねて、より良い子供が産める可能性がある精子を探しながら、快楽をほしいままに選り取り見取り求めながら、選んで産みたい、これ礼賛?、もちろん精子バンク OK! 何が悪いの?みたいな話になっちゃいますよ。

あるいは、ゆとりのある経済的精神的に安定した生活は、一子あるいは二子までを設けた今の夫で、容姿その他の才能を得るための子作りは、快楽を兼ねて他の男性と夫に隠れて行う、といった行状は言わずもがな、になりますね。

こんなの、下の下ですよ。

要するに、現在のお相手の男性をいかに傷つけようがお構いなしの、真善美に悖らない魂の修行である霊性の開発をそっちのけにした、いわゆる身勝手きわまる自己チューですよね。

なぜ、自分が女性に生まれてきたのか、なぜ、生得的にこのような容姿と才能なのか、なぜ、今この男性に縁を得てきたのかなどを、ほとんど考えずに、今さえ、直近の将来さえ肉体的物質的によけりゃそれでいい、という発想の。

それじゃあ、その集合体である社会も、強い者が支配して、自己チューしても不思議はない、となってしまいかねませんよ。

そうじゃない、何かおかしい、と私達が自然に感じるものは、どこから来るのか?を考えてほしいんですよ。

KI さんの場合で言えば、二股をかけて乗り換えた相手の女性は、別れたあとも KI さんから悪く思われないように、従って自分の悪評を立てられないためにも、バレないように振る舞ったんですよね。

しかし、聡明で観察力が鋭い KI さんには結果として感づかれた。しかも、それだけじゃない。KIさん(そしてKIさんの魂)を多大に傷つけ、彼女自身の魂も傷つけているんです。紐付きの過去世の因縁(私が勝手に名付けました)でない限り、来世以降、彼女は自らの勝手で不当な相念と行為を絶対にあがなわなければならないことを知らないんですね。

だから、ほとんど唯物論の考え方しかできない彼女は、功利だけは享受し、しかも自ら傷つかないように(保身のために)小賢しく立ち回ることしか、頭の中にはない。

自己保存の本能と唯物論(の考え方)しか眼中にないと、身近な例でも、実は当事者同士を霊的に傷つけることしか招かないんですね。

この因縁が、もし消化されずに残り、更なる悪想念と行為を生めば、新たな悪い因縁として来世以降に持ち越し、輪廻してしまう訳ですよ。

一事が万事なので、これは直す必要があると思うんです。

数十億年後、私達の天の川銀河だって、アンドロメダ銀河と合体?するそうですから、いつまでも太陽系、なかんずく、かけがえのないこの地球に永遠はないかもしれないんです(スカスカだから大丈夫なんて公式見解がありますが、本当のところは、それこそ、万物の創造主たる神様しかわからないんじゃないですか)。

だから、争いばかりしか招かない理屈、つまり、束の間の平安ばかり求めて、支配と被支配の構造により必然として格差を生み出し、結果的にどう転んでも弱肉強食にしかならない唯物論は、もういい加減、考え直してもいいんじゃないかなあ、と思うんです。

王権絶対主義?も、資本主義も、社会主義も、共産主義も、自由主義も、それぞれに支配の幅の揺れはあっても、肉体や物質にとらわれることを基本的にやめない限り、本質はどれも同じで、資源を巡っての力ずくの争いに、終止符を打つことは難しいのではないでしょうか?

もっと手近なところでは、恒星も規模によって、それぞれの寿命がある(確か太陽の 8 倍が分岐点でしたかね?すいません。ちょっと忘れました)そうですし、太陽が赤色巨星になる前の惑星に住む人類系というか、宇宙人?としての生き方を、出来得る限り、神様のみ心に近づけていく生き方に、変えていくべきではないのかな、と。

蛇足ながら、霊性の開発が進んでくると、威張り、自慢、他者に対する見下しとは無縁の、自然な暖かさと謙虚さが備わってくるそうですよ。

これは、ある意味、想像というか考えなのですが、真善美の存在を悪魔とか思考停止とかいうのは、その境地を知らない(体感できない)から、言うんじゃないですかね。

例えば、先の植芝先生のように、真善美の境地に到達されて、神通力を発揮されたような方は、基本的にはもう現世に降りてきて修行する必要はないけれど、まだまだ修行の足りない私達には、輝く道標としての存在意義がある。

つまり、相応の境地に達した神人にしか、真善美の実感はわからないもので、未達の私達にはあくまでも目標で、幾世にもわたる(厳しいですよね)修行の最終到達点に至って初めて実感できるものである、と。

真善美は、あくまでも未達の私達の目標かつ目標到達への縁(よすが)である、と。

だから、私達のような未達の段階では、頭の中でどんなに理屈をこねくりまわしても、矛盾撞着しているようで、わからない。ために、悪魔とか、思考停止とか決めつけ、放り投げて終わりにしてしまう。

ただ、私達は真善美に悖るか否かの判断は自然にできます。この能力は、やはり私達が神様の分霊(わけみたま)を頂いているからこそ、備わっているのではないのかな、と思えるのです。

ごめんなさいね、話がだいぶ脱線して、霊性の開発オンリーに引っ張り過ぎました。

要するに、言いたかったのは、私達は未達なので、どうしても外見や三次元の能力の制約からは完全に逃れられないけれど、霊性の開発に視点を向け、修行を積んで行けば、別の(本来あるべき)価値観が開けてきますよ、ということです。

時間がかかる(場合によっては来世以降(泣) になるかもしれませんが、表面にとらわれない、各自に与えられた天賦の美(や才能)を発揮するよう、鋭意努力を重ねましょう、と。

霊性の開発とは何か、については、今回かなり長くなりましたので、別立てとして書きます。もしよかったら、ご覧になって下さい。 

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①追記: 2024/03/19 22:02
②追記: 2024/03/19 22:13
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。