まあ、ごちゃごちゃと書いたけど、残念なことに、俺もご多分に漏れず、唯物論では絶望的な展望しか出てこなかったんですね。
もう、かなり前から。
希望を持ちたいのはわかるけど、理詰めで感情を排して、冷静に考えたら、どう考えても、詰んでしまっている。
もし、いろんな巷の陰謀論が、ある程度的を射ていると仮定すれば・・・。
日本人というか、ここに土着に近い形で長く住んできた一般的な人達は、やられっぱなしできたのかもしれない。
いいように、蹂躙されてきた。
悲しい。
何かと体裁こそ取り繕っているが、いろんな連中に乗り込まれ、実体を乗っ取られ、支配されてきた。
かなり前から、抵抗できずに、やられっぱなしのように感じます。
希には、反抗する人もいたみたいだけど、ほとんど潰されてしまったのではないのかな。
特に近代は。
心優しいのか、臆病なのか、霊性が高いのか、よくわかんないんだけどね。
こうした国民性?からしても、やはり神様にすがるしか救われる方法がない、と思わざるを得ないのよ。
それに、向いているとも。
もし、因果律と輪廻転生が、不公平なく、差別なく、正しく機能しているとすれば、守護の神霊様の運命修正のご加護に頼るしかないですからね。
なので、怒ったり、批判したりしたいのも、やまやまなんだろうけど、これはやめてほしいわけ。
実際のところ、どうですか?
批判や闘争で、世の中が後腐れなく、きれいに、よくなったことがありましたか?
今まで、さんざん同じやり方を繰り返してきて、また、同じ方法論で何とかしようとしても、無理なんじゃないですか?
そもそも、圧倒的な多勢に無勢で、力弱いもんね(泣)。
強欲者や、声の大きい者や、悪魔的存在の力は、きわめて強い。
強大です。
これらに、馳せ参じる行列も果てしなく長いし、網目の裾野も広大です。
しかも、周囲を海に囲まれた島国であったためなのか、同調圧力のきわめて強い、伝統的な村社会の気質も育まれてきた側面もあるかもしれないですからね。
裏を返せば、いかに真善美に悖る業想念が、積もりに積もっているか、ということです。
堆積している、この業想念を片付けて、きれいにしなければ、状況は変わらないんじゃないですか?
なので、地味だし、目立たないし、ガッツポーズをとるような醍醐味はないかもしれないけれど、少しずつ、少しずつ、業想念を丁寧に浄めて、漸次努力していくしかない、と思うんですよ。
道は遠く険しいかもしれないけれど、捨て鉢になったら、すべてが、元の木阿弥ですからね。
嘆きたい、怒りたい、悲しみたい、・・・とにかく、すべての業想念を、世界平和の祈り一念の生活で、できる限り、浄め去るように努める。
そうして、もらいたいんですね。
もう、唯物論は卒業して頂きたいのです。
そもそも、マトモに対抗しようとしたら、どうやったって、勝ち目がないんだから(まあ、勝ち負けと言っても、向こうとは、その後の目指す世界の形がまったく違います。天と地ほどに、ね)。
そうですよね。
奇跡にしたって、百万回くらい続かなきゃ、どうにもならないんじゃないの?
淡い期待に、水をぶっかけるようで、悪いんだけどさ。
広大で権力のある組織に立ち向かい、そのあり方を、根底から変えて浄化するには、条件は極度に限定されるんです。
前に、元祖魔人ブウの可能性を挙げたように。
悲しくても、悔しくても、怒りに震えても、とにかく、神様に思いを馳せ、祈る。
俺は、これしかないと思うよ。
すべては、神様の命を生きている、これを宣(の)り出す、祈りの中から生まれてくるものと信じて。(*1)
これで、徹底的に祈り倒しても、力及ばず、救われ切れなかったら、仕方ない、と。
残念ながら、肉体人間として、輪廻転生を通して生きてきた中で、積み上げてしまった、真善美に悖る業想念があまりにも大量過ぎて、浄め切れなかった、と。
地球さん、もっと言えば、神様なのかもしれないけれど、こんなにはかりしれない恵みを頂いているのに、私達人類が、今までに、どれほど汚して、破壊してきたかを考えると・・・。
仮に、天罰なるものがあるとすれば、神様にどんな仕打ちをされても、文句は言えないのかもしれない。
その意味では、世界を牛耳って支配する人間の責任は、果てしなく重い。
ああ、それなのに、それなのに、この今の有り様は・・・。
かずかずの恵みを頂いている素晴らしい地球さんではあるけれど、明らかに、魂の厳しい修練所になってしまっていますね。
他の開発途上の惑星も、こうなのかな?
なかなか、自らの健康にさえ、感謝できない、私達(の大半)ではありますが、このように、痛め付けて、損なってしまった地球さんにも、思いを馳せて、感謝をはじめとして、できることは何でもするに越したことはありません。
最低限、少しでも良い子でいること、すなわち、本来の神体を少しでもあらわした人間になることは、必要でしょうね。
そうしなきゃ、申し訳が立たないでしょ。
なので、また繰り返しとなりますが、世界平和の祈り一念の生活による、霊性の開発をお願いします。
付け加えると・・・。
なぜ、祈りをお願いするかについて、別の理由もあるんですよ。
それは・・・。
ある程度のことがわかってくると、家族でも、親類でも、友人でも、知人でも、その理解度の差に愕然とするんです。
ちょっとした、世間話すら、ままならない。
まともに何か話そうとすれば、どうしてもそれなりの説明が必要になり、場合によっては、説得が必要となる。
そうして、議論まがいの状態にでもなれば、面倒なことになり、かなりの軋轢が生じかねないんです。
巷の唯物論に終始する話でさえ、相当な周回遅れだから、無理もないのかもしれませんがね。
だから、俺の場合は、あえて説明したり、説得を試みたりはしません。
少なくとも、これは、ああなんだ、こうなんだ、と訳知り顔で話すことは、絶対にしません。
話の内容から、ああ、まだかなり調教されたままだな(すみません)、と思っても、ほとんど黙って適当に流すようにしています。
あまり、共感?しないようにしながら。
正直なところ、親しい人達と、もうあまり世間話などしたくないんです。
相手の調教具合(すみません)を見極めながら、場合によっては、わかっていることを小出しにすることが、たま~にある程度です。
これだけでも、かなり疲れてしまうんですよ。
本当に疲れる。
そして、参ってしまう。
だから、世間話自体、もうしたくなくなってしまうんですよ。
もう、それ以外の何気ない話をするのも、めんどくさくなるくらいに。
この調教具合(すみません)が、因縁因果の結果だとしたら、容易に変えることはできない。
というか、ほぼ不可能だからです。
唯物論の理屈だけで考えたら、普通の物事に対する理解力があって、おおむね、全容がつかめさえすれば、皆さんの調教の呪縛が解けて、必ず覚醒に到るはずだ、と考えるんでしょ?
が、ことはそう簡単には運びませんよ。
俺は、そう思う。
そんなに、スムーズに覚醒が伝播すれば、今のこの状況にはなっていないのではありませんか?
さらには、仮に覚醒ができたところで、それを何かしら行動に移そうとすれば、今度は(日本では特に強く作用する)同調圧力の壁が立ちはだかります。
これでは、自己保存の本能からも、変化に二の足を踏み、自らの行動を変えていくのは、きわめて難しいのではありませんか?
たとえ、どんなに些細なことでも、ね。
さっきも言ったけど、ご自分の周りだけでも考えてみて下さいよ。
おそらく、程度の差こそあれ、その大半が調教されたまま(すみません)じゃないですか?(*2)
それでも、どんなに、軋轢を生じようが、業想念を生じようが、強引に説き伏せるおつもりですか?
家族ですら、場合によっては、険悪な雰囲気になりかねないんですよ?
家族よりも関係が、離れれば離れるほど、喧嘩にさえなりかねない。
特に、議論が苦手で、個人の人格否定に直結しやすいこの日本では。
わかれば、簡単に覚醒が波及すると考えるのは、見方が楽観的に過ぎるのではありませんか?
仮に、全容を大まかに理解したところで、動かない。
動けないんです。
覚醒すれば、すぐ動く?
何もかも、うまくいく?
そんな、単純な話ではありませんよ。(*3)
それくらい、広く深くからめとられてしまっているのが、実状でしょ?
繰り返すけどね。
強引に、あるいは無理に納得させようとすれば、真善美に悖る業想念を大量に発生させて、たくさんの悪い因縁、負のカルマを積んでしまうんですよ。
おそらく、すんなりと理解してもらえる因縁のケースは、ごく少ないのではないか、と考えられるんですよ。
となると・・・。
できることは、消去法でいくと、祈りしか残らないんです。
私達は神様の分霊が本体なのだから、幽体や肉体などをまとっていても、本来なら祈ることは自然な行為だし、なすべきことですが、唯物論で考えても、これしか方法が残っていなかった、ってことです。
各自で祈ることしか、ね。
どうしても、対立や軋轢を避けられない状況に置かれた人なら、そのままでも、この際、祈りを根底にした生き方に切り替えることです。
タタカわない。
争わない。
にっちもさっちもいかない、どうしようもない場合以外は。
やむを得ず、タタカい続けていたとしても、争い続けていたとしても、祈り倒して、何とか徐々に、矛を収めるようにしていく。
そして、祈ることで、自分はもちろんのこと、周囲の対立するような人まで含めて、とにかく縁のある人の守護の神霊様方に、お浄めをお願いするんです。
世界平和の祈りとともに、あの人の守護霊さん、守護神さん、お願いします、あの人の天命が完(まっと)うされますように、と。
それと、守護の神霊様方への感謝行も忘れずに。
こうして頂けることを、切に願っています。
とにかく、祈りしかありません。
~~~~~
(*1)これは、俺の勝手な解釈なんですが・・・。
ありてあるものすべては神様のあらわしたものであり、神様がいなければ、存在がないのだ、と考えると・・・。
私達肉体人間だけでなく、固形物も、気体も、目に見えない各種の想いをはじめとするものも、すべては神様に命を与えられて存在して、その活動をしているものと、考えると・・・。
すべてのものは、神様の命を基本(ベース)に置きながら、固有の意識や感情を持っている。
そして、その現れ方は、神様の光の粒子の現れ方、波動が異なっているために、異なっているものである、と考えると・・・。
すべてのものに、通じ、語りかける共通の言語のような意思疎通の基底には、神様があることになる。
だから、神様の命をあらわす、宣言する、宣(の)り出すことは、微細?かもしれないけれど、その世界を作り上げるには、意味があると考えられるんですよ。
周波数?や振動?が違っても、大元の神様の分霊が、つまり神様がある意味、周辺に対して語りかけている訳です。
何らかの影響があるはずだ、と考えているんですけどね。
個人的に、勝手に考えた祈りの意味付けです。
(*2)たまに、調教されたままで、覚醒に至らない人などを、シープルと呼ぶ人がいるが、これは絶対にやめてほしい。
前にも、書きましたけどね。
この言い方は、明らかに蔑んだものの言い方です。
まさに、蔑称に他なりません。
何回も言いましたよね、傲慢、侮蔑、嘲笑などの想念と行為(ゴブチ)は、やめて下さい、と。
あるブログで、スピリチュアルと称して、霊的な内容を取り上げる人が、これを使っていたのを、読んだのだが、非常に理解に苦しむ。
もちろん、もどかしい気持ちや、批判したくなる気持ちは、わからないではないよ。
しかし、唯物論上でだって、ましてや、霊的には、絶対にやってはならないことじゃないですか。
これじゃあ、本当は、霊的な内容、輪廻転生もわかっていないと、言わざるを得ないじゃありませんか。
ブログをはじめたのは、世の中を少しでも良くしたいからでしょ?
その、豊富な人生経験と独自に研究した霊的な内容を用いて、人々を善きに導きたいんでしょ?
だったら、今すぐにでも、厳禁事項(語句)とすべきです。
アクセスがそれなりにかなりあり、読んだ人の霊的な理解の内容研究が、未熟ならば、転用される可能性は高いですよ。
その読んだ人が、新たにブログを書き、使ってしまったら、大変な悪い因縁を、タネを蒔いたことになるんです。
おわかりですよね?
以後、慎重を期して下さることを、強く希望します。
何度でも言います。
傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)(ゴブチ)は、絶対にやめて下さい。
お願いです。
(*3)なぜ、動けないか?
同調圧力以外の、基本的な理由は、ご自身でお考えになって下さい。
仮に、百歩譲って、調教の呪縛が解けて、覚醒して、動き始めることができたとしましょう。
さて、どうするんですか?
ただ覚醒しさえすれば、あとは全自動でうまくいく、何とかなる、それだけですか?
何の具体的で確実な青写真もなく、ですか?
今回は、ここまでとします。
書いていて、何だかひどく疲れてしまいました。
ちょっと、詰問調になったのが、まずかったのかもしれない。
やっぱり、業想念はよくないね。
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①追記: 2024/04/06 03:38
②追記: 2024/04/06 03:44
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。