おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

067_玄奘さん

はじめに(玄奘三蔵さん、お経)
( 066_般若心経続 - おぶなより ) で、般若経から始めるとしましたが、勝手ながら予定変更して、前置きをすることにします。

ご了承下さい。

まず、玄奘三蔵さん( 602 ー 664 )について。

中国の明(みん)時代に書かれた、西遊記(さいゆうき)という物語があり、この主人公が、斉天大聖孫悟空(せいてんたいせいそんごくう)という、お猿さんでした。

西遊記は、三蔵法師とそのお供をする、孫悟空猪八戒(ちょはっかい)、沙悟浄(さごじょう)の、あわせて 4 名が、インドに経典を求めて旅する、波乱万丈の冒険物語です。

特に、この孫悟空が、きんと雲、如意棒などを駆使して大暴れして、大活躍するのです。

この西遊記三蔵法師のモデルとなったのが、玄奘三蔵さんです。

その玄奘三蔵さんですが、大まかに言うと、母国(中国)での、戦乱、不幸、災難を救えない仏教に苦悩して、限界を感じた彼は、元となる教えを質(ただ)して学び直すために、インド行きを決意する。

彼は、この時点では、仏教を見切らず、まだ、人々の救いに役立つ可能性があると思ったか、もう他に選択肢がなかったか、のいずれかだったのでしょう。

既存の教えを立て直せば、仏教はまだまだ行ける、賭けてみよう、いや、賭けるしか道はない、と。

そして、一身を賭してでも、どうしても、人々を救う礎を築きたかったのでしょう。

当時の中国は鎖国政策がとられていたこともあり、インド行きは、かなりの恐怖や迷いがあったものと思われます(インド行きを迷って、砂漠で引き返した痕跡があるらしい)。

しかし、彼は、とうとう、万難を排して、協力者を何人か得て、この人達を失いながらも、基本はたった一人で、タクラマカン砂漠を越え、ヒマラヤを越え、艱難辛苦を経て、インドに渡り、経典を学んで研鑽を積み、多数これを持ち帰っています。

現代ですら、敢行しようとすればかなりの難事業なのに、移動手段は徒歩以外馬しかなく、徒手空拳に近い当時の様々な環境や事情を考えれば、奇跡のような話です。(*1)

やはり、神々のご守護があったのでしょう。

ただ、彼以前にも、お経の伝達者はいて、翻訳者も法華経で名高い鳩摩羅汁(くまらじゅう)や、真諦(しんだい)、不空(ふくう)などの方々がいました。

玄奘三蔵さんが、特に有名なのは、西遊記が日本でよく読まれたなどの関係、そして、般若心経も彼による訳が、多く用いられることなどによるのかもしれない。

さて、玄奘三蔵さんは、元々母国中国で、既に高僧の地位にありました。しかし、彼はこれをも捨て去り、26 才で鎖国の禁(捕まれば死刑)を破ってインドに向け出発、帰国時は 44 才になっており、実に 17 年もの歳月が過ぎ去っていました。

そして、さらに、亡くなるまで 20 年近く、弟子達と数十人の協力者とともに、日夜翻訳作業に明け暮れ、すべてを捧げ尽くした人です。

己の一生を、少しでも人々を救うために、全身全霊を込めて、捧げ切る。

まあ、今では、考え及びもつかない、とてつもない偉人です。(*2)

この翻訳した大量の経典の中に、大般若経 600 巻があり、その中に般若心経も含まれます。

この、大般若経をまとめ、内容を凝縮したものが、般若心経だと、一般によく言われているのです。

そして、この般若心経には、大乗仏教のエッセンスが詰まっているのだとも・・・。

次は、仏教です。

仏教は、今から約 2500 年前、紀元前 5 世紀頃、元インドの釈迦族の王子、(姓)ゴータマ (名)シッダールタ が説き始めた宗教です。

彼は、29 才で出家、自らに課した厳しい 6 年の修練を経て、35 才で菩提樹(ぼたいじゅ)の下で、いわゆる、悟りを得て、以後、80 才で亡くなるまで、実に 45 年間もの間、教えを説く旅を続けました。

彼は、この世の真理は何か、悟りを開いた時、これはとても深遠で、人々に理解させることはできないと考え、当初は教えを広めようとは思わなかったようです。

そこに、当時のインドのバラモン教の神である、梵天(ブラフマン)があらわれ、人々の救いに立つようにとの説得に折れて、ついに伝道を決意する。

仏教は、この世(現世)での、心の迷いを捨て、苦悩を超越し、悟りの境地に至ることを目指す教えです。

日本には、6 世紀半ばに伝わったとされます。

ただ、後世から見ると、困ったことに、仏教そのものが、進化発展(なのか、よくわかりません)して、多数に分派して、経典それ自体もそれに伴って多数追加され、膨大なものになってしまっているのです。(*3)

お釈迦さんの当時の教えを忠実に引き継ぐ、出家修行を悟りの必須項目とする小乗仏教と呼ばれる原始仏教、しかも、これだけで数百年の間に、上座部(じょうざぶ)と大衆部(だいしゅぶ)に、わかれてしまいました。

さらに、多くの人々を救うために、間口を広げた、出家修行を必須とせずとも、在家でも六波羅密(ろくはらみつ)という戒律を守れば、悟れるとする、大乗仏教まで現れるに至り、経典が多数追加されることになりました。

次は、お経です。

お経は、当初、お釈迦さんの教えを伝えるものでした。

当時の時代背景もあり、これは口伝(くでん)という、口伝えで行われました。

お経の始まりが、如是我聞(私は、お釈迦さん=後の悟りを開いた人、仏陀から、このように聞いた)となっているのは、このためです。

ただ、口伝ですから、文書を残すより、確実性は落ちます。人間の記憶力と暗誦能力に頼るからです。

お経が、詩文の形を取り入れて、韻を踏み、調子(リズム)よく読み上げやすいようにできているのは、このためだと思われます。

それかどうかわかりませんが、確認作業として、お弟子さん達による、結集(けつじゅう)という修行僧の集会が、定期的に開かれ、教え(お経)や、戒律(律)などを確認しあったようです。

この第 3 回目の仏典結集で、注釈となる論が、まとめられ、これと前後して、紀元前1世紀頃から、成文化が始まったとされています。

お釈迦さんの教えの直系の小乗仏教の経典には、

法句経(ほっくきょう)

大般涅槃経(だいはつねはんぎょう) (釈迦の入滅前後を記したもの)

などがあります。

その後に、大乗仏教の経典として作られたものには、

般若経

華厳経(けごんきょう)

そして、

無量寿経(むりょうじゅきょう)

観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)

仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)

の、浄土三部経

また、

法華経(ほけきょう)

があります。

これだけでも、気が重くなり、目が回りそうですが、さらに、大乗仏教から密教ができて、

大日経(だいにちきょう)

金剛頂経(こんごうちょうきょう)

まで、様々に生まれ、最終的に、釈迦の教えを発展させた仏教は、大蔵経(だいぞうきょう)という、大部の経典になっています。

ものすごく乱暴に言ってしまうと、大乗仏教以降は、霊感感得仏教と言えるかもしれません。

お釈迦さんならば、こうしたであろう、こういったであろう、とされているからです。

だから、わざわざ、仏説(ぶっせつ)を頭につける。

お釈迦さん、真理を悟った者=仏陀が説いた、という意味を持たせるために。

神様も、仏教の伝播が周辺各地を経た関係で、

大日如来

薬師如来

などの如来

観音菩薩

などの菩薩、

吉祥天

帝釈天

などの諸天、

鬼子母神

などの諸神、

不動明王

などの明王

と、仏陀としてのお釈迦さんとその派生形?として、習合した形で、各種の神々(仏もあるが、神仏としてここでは神様に含ませる)がおられます。

まあ、知識がないので、あまり大したことは書けないから、この程度で・・・。

興味がある方は、それこそ仏教書が山のように出ているので、各自研究なさって下さい。

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(*1)徒手空拳~としゅくうけん~(自分の力以外に頼るものがないことを強めて言った言葉で)手に何も持っていないこと。素手。事業などを始めるのに、地位や資本などを持っていないこと。

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(*2)天賦の才能や地位などに恵まれても、何ら使命を感じず、それどころか、苦しんでいる人々を救わず、顧みず、肉体人間としての我欲だけに耽(ふけ)り、恥じることすらないのが、肉体人間が陥りやすい罠ですからね。

そんな環境に生まれついた人が、玄奘三蔵さんを見習い、世のため人のために尽くせば、世の中は一体どれほどよくなることか・・・。

まあ、無い物ねだりをしても、仕方ないですね。

その点、玄奘三蔵さんは、持って生まれた才能と不断の努力、そして、ありとあらゆる持てるものすべてを、人救いに生かそうとした。

翻(ひるがえ)って、現代。

モノがあふれ、カネ、地位、権力さえあれば、好き勝手し放題。(*2ー1)

もちろん、贅沢三昧も、思いのまま。

欲を満たそうとすれば、(ほぼ)どうにでもなる世の中。

玄奘三蔵さんみたいな人、今、いないでしょ?(*2ー2)

ところで・・・。

狙った、オトした、のキリギリスさん。

いわゆる、高スペックのあなた方ですよ。

あなた方は万能だから、霊性はともかく、優秀な遺伝子を持っているだろう。早く、とびきりのカワイコチャンと結婚したいのだろうが、世の中には、こんな生き方をした人もいたんだぜ。

知ってても、忘却の彼方かい?

あなた方は、無茶苦茶、ワガママではあるけれど、本質的には、傲慢、尊大な人達ではない、と思うんだ。

もし、機会があれば、考えてごらんよ。

あらゆる時代環境の流れは早いし、あなた方の饗宴もいつまで続くか、わかりゃしないんだからさ。

まあ、魂に刻みつけられるような辛い思いを経験しないと、簡単には人の痛みや悲しみがわからない、残念なお人が多いご時世だから、難しいかもしれんがね。

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(*2ー1)その意味では、個人の霊性の高さが厳しく問われるとも言える。

本音がモロに出がちな逆境とは異なり、油断する分、要注意だからさ。

恵まれた環境で、享楽三昧に走るか、節度を保って地道に暮らすのか、さらには、霊性を下げるのか、上げるのか、と。

(*2ー2)カチンときた人もいるかな?

使命に燃えて、無心に生きている皆さん(男性、女性双方含む)。

使命といっても、真善美に悖り、人様を傷つけるのは不可ですよ。

無心に生きているなら、自負すらないはずです。

気にいらなかったら、世界平和の祈り一念の霊性の開発をして、もっともっと、霊性を上げて、世界平和に貢献して下さいな。

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(*3)日本でも、鎌倉時代だけでも、スーパーヒーローのような祖師が何人も現れている。

しかし、その結果、俺様の祖師が、信奉する教えが、経典が・・・と、我を張り、収拾のつかない事態の元を、作ってしまっている気がするんです。

地上天国が成った暁には、どのような意図をもって、このような脚色をされたのか、神様が種明かしをして下さればいいんですけどね。

まあ、特別な血筋の継承などの使命がない限り、格式の縛りの多いものは、社会状況が複雑多岐に発展して、信仰に手間と時間を割けないようになってきているので、それなりの淘汰がすすんでいるように思えます。

ですが、おそらく信奉している方は、何を言っても、まったく聞く耳をもってくれないだろうし、絶対に承服しないでしょうね。

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(追記)
三蔵法師~さんぞうほうし~仏教の教えの経、戒律の律、仏教経典研究の論を修(おさ)めた僧侶を指す総称。

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①追記: 2024/04/06 08:28
②追記: 2024/04/06 08:31
③追記: 2024/04/19 20:29
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。