お経のことについて書き足すことその他があるので、前回 ( 068_玄奘さん2 - おぶなより ) の続きです。
お経ですが、般若心経の本に、ポケット般若心経 大本山読経 CD 付き ひろさちや著 講談社 という本があります。
読経には、日本のお坊さんによるものが 3 つ、学者さんの古代インド語のサンスクリット語でのものが 1 つ入っていました。
聞いた印象は、とても同じお経、そして、内容を唱えているとは、思えないものでした。
日本のお坊さんのものでさえ、読む調子が3つそれぞれにかなり異なるのに、元のサンスクリット語のそれは、まったくの別物としか感じなかった。
お経の字句、文言には、功徳や力があると言っても、翻訳、そして、詠み方で、こんなにも変わってしまうのに、なぜ、同様の力を宿すのだろう?と不思議でなりませんでした。
また、仏教が、その経典が、肥大化してしまったのは、結局、社会環境の変遷に適応するためだったのかもしれません。
時代の流れも速いので、さすがにもう足し増しされることはないでしょうが、その後発の大乗仏教の教えでさえ、現代では実践が難しいものが、多々ある。
在家でなくても、写経その他でさえも、いろいろな形式を踏み、手間がかかる。
林立する宗派、膨大な経典、戒律に準じてたしなむためには様々な最低限の格式もある、さて、現代を踏まえると、どうすれば・・・と考えてくると、仏教を残すためには、ある程度、形が絞られてくるような気がするんですけどね。
まあ、最終的に地上天国が成るものならば、すべては神様が善きに計らって下さるから、杞憂なんでしょうけどね。
ただ、玄奘三蔵さんではないけれど、過去たくさんの人々が仏教に取り組み、場合によっては全身全霊、そして生涯までをも賭けた産物でもあるだけに、現在の混沌とした状態をどうしたらいいのか、仏教に関心を持った誰もが、潜在意識の中で、考えていると思うんです。
あるいは、このままでよい、が正解なのかもしれないし、これはわかりません。
ただ、現代人は、ほとんどすべての人が、霊性が未開発で、自己保存の本能と唯物論の思考に縛られている。
肉体人間=人間の、肉体人間観を脱していない。
こんな状態ですから、まだ、あの膨大な経典を軽々と使いこなせるような超能力を発揮できない、さらに言ってしまうと、程遠い状況です。
なので、どうしても気になって文句タラタラになってしまうんですよ。
いにしえには、悟りを得ようとして、生涯を賭け、それでも解脱できずに、寿命が尽きて締まった方々もおられたことでしょうから、あまり、ワガママは言えないのかもしれませんけど。
あと一つ不思議に思ったのは、上座部と大衆部のはじめての分裂の時からそうですが、あくまでも釈迦を基点として、これを外さなかったことです。
分裂するくらいなら、別の旗を立てて、新規に別の宗教を興せばよかったのに、そうはしなかったんですね。
分裂させて、ぐちゃぐゃ?にして、お家騒動をみたいなことをするくらいなら、いっそのこと、まっさらからやり直す、あるいはやめてしまう手もあったのではないか?
お釈迦さんは、自分の教えを授けたところで、まず、理解することはできないだろうと、当初は教えるつもりはなかったのだから。
それでも、梵天の説得にほだされて、あえて教えることにしたのだから、自分亡き後、教えが分裂、分派することを望んでいるとは思えないからです。
お釈迦さんがあまりにも並外れて偉大なので、代わって新たな宗祖として世にでようとしても、まったくかなわないから、亜流を作り、分派・発展させていこうと考えたのか。
はたまた、お釈迦さんには、心底敬服しているが、何らかの改変?などを施さないと、その基本理念や精神が残せないと考えて、発展形としての亜流を作ったのか。
あるいは、別の理由があるのか、わかりませんけれども、やっぱり、分裂しすぎじゃないですかね。
分派分裂させた人達は、何を考えていたのでしょう?
その心中がよくわからないんですよね。
だって、現にこんなに混沌として、収拾がついていないのだから。
まあ、これは、勝手な独断と偏見なんですが、仏教は他の宗教よりきれいだと思うんですよ。
もちろん、政治的に利用されたことも多々あるけれど、他のものほど露骨な大義名分に利用されたり、とまではひどくない。
ゾロアスター教の影響は受けていても、明らかな二元化には染まっていない。
だから、残すとすれば、今の状況はまずいし、もったいないような気がするんです。
あと、読経について少々。
読経の仕方についてです。
観音経や般若心経のお坊さんの読経された CD を聞いていて気づいたことです。
それは、数人のお坊さんが一緒に読経されている場合に限るのかどうかわかりませんが、読経が途切れてわずかな部分を明らかに飛ばし(=抜かし)てしまい、そのまま他のお坊さんの読経に合流する部分が、いくつか、あったことです。
経文に照らし合わせながら聞いていて、最初に聞いた時から気づきましたが、息継ぎの関係か、明らかに短い部分を飛ばしてしまっていることが、散見(散聞?)される。
聞き間違いや、勘違いの可能性を潰すために、何回聞いても同じです。
最初聞いた時に、アレッ?と気づいて、その時だけでも、2 回、3 回と注意深く聞き直しましたが、結果は同じです。
間違いなく、わずかな部分ながら、抜かして読経をしているお坊さんがいる。
息継ぎのせいか何か、わかりませんが、明らかに短い部分を飛ばして、そのまま、何事もなかったのかかのように、他のお坊さんの読経に合流して読経を続ける。
これは、一体、どういうことなのでしょう?
お経の文言には功徳かある云々などを読むと、抜かすのは、非常に具合が悪い、さらにいえば、本来なら許されないことになりはしないのか、と。
というのも、写経などでは、いろいろな決まり事や作法があるのに、お経の字句を抜かしたり、飛ばしたりしながらも、容認されるのは、理解しにくいからです。
たとえ、息継ぎができなくても、一呼吸といわず半呼吸かそれ以下の短い合間をおいても、すぐに流れに復帰して、すべてのお経の文言の読経を完遂するのがあるべき姿のように素人には思えたものですから。
あのように、複数人以上で一緒に読経をする場合には、流れを乱さないことが鉄則であり、少しくらいの脱落は認められるということなのか?
これが、わかりませんでした。
自分で練習をした時には、息継ぎが苦しくなり、多少流れが途絶えても、一字一句漏らさず、完遂させるようにはしていましたけれども。
まだ、ちょっとあるんですけれど、とりあえず、この辺で・・・。
以上、仏教について、グダグダと文句めいたことを言いましたが、それなりの浅薄な知識しかない者なので、どうかお許し下さい。
なお・・・。
般若心経を始めるにあたって、大般若経をどうするかで、無茶苦茶、迷いに迷ったのですが、実は、大乗仏教にすぐに入ることも、相当に迷っていました。
大蔵経があり、既存の権威と秩序が確立されてはいるものの、個人的には、大乗仏教は霊感感得仏教、一種の応用仏教だと考えているからです。
仮に、故人が生き返る、それこそ、遺骨なり、空中なり、あるいは、何もないところから、まごうかたなき本人が再生できて、お経を説いたのならば、本人ものだ、今回の話でいえば、釈迦ものだ、と言えますよね。
阿難以来の、正真正銘の如是我聞が実現する。
現代に、はるかな時空間を経てよみがえる。
これならば、誰にも文句のつけようがない。
本物の仏陀が復活したなら、いかなる質疑応答にも、当意即妙によどむことなく対処でき、時代に即した教えを授けることもできるだろう。
生まれ変わりを自称する偽物が出る余地さえも、まったくなくなる(そもそも、仏陀は解脱したのだから生まれ変わりはしないのだが)。
無意味で有害でしかない、各種の生まれ変わり自慢に終止符を打つきっかけにもなるだろう。
ただ、残念なことに、神様のご意志なのか、いまのところこれ(遺骨や無からの完全再生)が実現する見込みはない。
これを思うと、やはり、お釈迦さんの人となりを、それなりにたどり直してから、大乗仏教、今回なら大般若経に入る方が、効果のほどは不明ながら、より好ましいと考えました。
また、前言撤回で変節になってすみませんが、大乗仏教以前の、釈迦の人となりや考え方が偲ま(しの)ばれる、初期の教えから始めることに訂正させてもらいます。
大乗仏教の大般若経、そして、般若心経は、これが済んでから、と。
まあ、正直にいうと自信がないんです。
極論すれば、お釈迦さんは、ただ一人のとびきりの悟りを得た偉い人として、神格化して祭り上げ、あとは抽象的なたとえ話や物語で飛躍している大乗仏教から始めることに。
それに、抽象的な、あるいは、応用的なものに、わずかでも疑いの心を持ちながら、これを完全無欠の前提として、無理矢理取り組むのも、過ちをおかしそうで、怖いですからね。
といった訳で。
何冊かの本を参考に、極めて大まかにはなりますが、勝手な独断と偏見を交えて、釈迦の人となりを探っていきたいと思います。
2.ブッダのことば スッタニパータ 中村元著 岩波文庫 (青) 1984年05月刊
などなど、です。
まあ、課題が課題なので、取りかかるまで、時間がかかったり、寄り道を多々するかもしれませんが、あらかじめご了承下さい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追記: 2024/04/06 09:23
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。