おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

086_引き寄せ

(お断り)
今回は、不適切ながら話の都合上、「バカ」という言葉を使わせて頂きます。

お見苦しくて申し訳ありませんが、お許し願います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

前々回 ( 084_独自性 - おぶなより ) の続きで、二つ目です。

霊的な話です。

この世(現界、時系列的には現世、ここでは以下、この世とする)であらわれてくる事象のことです。

実は、これまで書いて来た文章でも、それなりに意識的に書きわけてはいましたが、そこには触れずにいました。

で。

まず、この世で起きてくることには、法則があるか否か、がまず問題になりますね。

法則があるとすれば、その元を作った絶対者を考えざるを得ません。

それは、どう考えても神様しかない訳です。

少なくとも、こんな肉体人間観に縛られ、身の回りの利害得失の計算ばかりに明け暮れ、五感にまつわる欲望にまみれた私達は、運命に翻弄され、振り回されるされることはあっても、運命を自由自在に運んでいくことなど、まず、不可能だからです(これに関しては、下記で触れる)。

ましてや、その基本となる法則を作り出すことなどできる立場にはないのは、自明ですからね。

で、この世で起きてくることには、法則などない、ただ、そのまま、あるがままで、どんなにデタラメだろうが、不条理だろうが、しったあこっちゃあない、とするなら、もう後の話はいいですよね。

なので、これは省略します。

神様が絶対者であり、なおかつ、意地悪な悪魔的存在ではなく、この世を含めたすべての世界、すなわち、神界、霊界、幽界、現界を作り出して、法則をもたらした存在である場合を、以下の前提条件とします(それぞれの階層もさらに細かくわかれるが、とにかく、ここでは大きく 4 つに分ける)。

そこで、この世で起きてくることなのですが、おそらく大半( 8 割方以上でしょうか)が、前世、前々世、・・・といった過去世でなしたところの想念と行為であり、この世から見れば、過去世の因縁が反映されて、あらわれてくることになるらしいんですね。

つまり、この世での想念と行為は、良いものも悪いものも、そのほとんどが過去世の因縁を反映して、具現化してくるものである、と。

なので、私達がこの世で新たに肉体人間として作り出すものは、実は、そう多くはないらしいのですよ。

なんだか、夢のない、つまらない話?になってしまうかもしれませんが。

神様の分霊(わけみたま)、つまり、元々は神霊たる私達は、波動の粗い肉体にまで入り込んで、自己保存の本能や動物的な本能を付与されながら、この世に、元々の自らの世界である神界をあらわす、映し出すために、この肉体を通して、果てしない輪廻転生を繰り返しながら、惑星(私達の場合なら地球さん)を開発していくらしいんですね。

ただ、元が神様だったとは言うものの、わかれて肉体人間となり、自己保存の本能や動物的な本能に振り回される生き方に明け暮れるようになると、どうしても、元は一つ、同じ神様のわかれの同胞だということを忘れはじめて、本来なら神様としてはふさわしくない想念と行為、いつも書いている、真善美に悖る想念と行為、いわゆる、業想念をすることになってしまうんらしいんです。

で、この業想念は、神様の分霊、霊魂魄にとっては、汚れとなって、落とさなければならないものとなるらしいんですね。

本来はないもの、あってはならないものであるために。

そこで、神様としては、本来あるべきではない、過去世でなしてしまった真善美に悖る想念と行為を、直して正す=修正する、で、そのために、あがない=償いをするために、魂の汚れ落としのために、生を受ける、生まれてくる、と。

何だか、すったもんだか、揺り返しか、まぜっかえしのような、前進と後退を交えた、漸次(ぜんじ)進歩のように見えなくもないですが、このようになっている、と。

で、こうした、数限りない人生を経てさまざま経験を積むことでつくられてくるもの、輪廻転生を通して、培(つちか)われて出てくるものも、当然にある訳です。

天賦の才と思われたものが、実は、その人の過去世の生き方によってたくさん畑を耕してきたように醸成(じょうせい)されてきた結果の蓄積のあらわれ、いわば、努力の結晶が反映された、いわば、賜物(たまもの)である、となるんですね。

外見の美しさに関して言えば、元々の美しさを輪廻転生を通して落としてしまった状態から、それなりのよき、美しき想念と行為によって、元の美しさを少しずつ取り戻してきた、いわば、過去世の中でのよき生き方の反映された結果、成果としてあらわれたものである訳です。

だから、賜物だ、と。

何であんな人が美しいんだ、という事例があったとしても、それは輪廻転生を通した永遠の命から見れば、偶然ではなくあくまでも必然であって、その人の輪廻転生を通した、間違いなくそれなりの想念と行為の裏付けがあった、となる訳なんですよ。

たとえ、どんなに信じたくないような、ひどい人がいたとしても。(*1)

そして、五感にまつわる各種の欲望にまみれた私達にとっては、真善美に悖る想念と行為への誘惑だらけの、この世では、よほどの過去世においての真善美に適(かな)った想念と行為の積み重ねや霊的な修行の経験がないと、霊性はいとも簡単に落ちてしまうんですよ。

前に、油断大敵だと書いたように。

美男美女で、外見、性格、各種才能が完璧に揃(そろ)って具(そな)わることが、実は、それほどまでに多くはないのも、まあまあ、ありがちなこと、となる訳です。

これらがすべて揃って具わるのは、その容姿水準が、飛び抜けて高い場合に限られがちだ、というように。

巷によくある(かもしれない)?想念と行為が頂けないような、未熟そのもの?の美男美女は、まだまだ霊性の開発が初心者に近いから、業想念にまみれたこの世に生を受けると、すぐにその恵まれた環境に溺(おぼ)れて堕落(だらく)してしまう。

まあ、速攻堕落とはいかないまでも、往々にして、このワナにはまりやすい。

これらに反して、簡単には堕落しない美男美女というのは、唯物論的な自らの体裁を維持したいといったセセコマシイ理由から堕落しないのではなく、霊性そのものが、それなりに高く、自然にそういった業想念には染まらないために堕落しない、と考えられる訳です。

だから、天(←神様のことですね)は二物を与えず、どころか、五物も、六物も、果ては七物?も与えられたような人が、稀には存在する、と。

といった次第で、私達の元から与えられた環境要因や運命は、守護霊さんや守護神さんの来世以降までを見据えた修行の見地からの、過去世のさまざま因縁によって、その大半が規定されてしまっている、定まってしまっている、ということなんですよ。

こんなのは、認めたくもない、と思う人も、さぞかしたくさんおられることと思います(俺もご多分にもれずそうです。全然修行ができていないので)。

何せ、巷には、こうした内実を認めたくもないような、ひどい現実がゴロゴロしていますからね。

何であんな人が、こんな恵まれた環境にいるんだ、と思えるような人が、わんさかといる。(*2)

しかも、こうした人に限って、謙虚とはほど遠く、図に乗ってやりたい放題というのがありますから。

本当に、端(はた)から見ると、厭世(えんせい)感を抱かされてしまうような・・・。

お仕置き?のような強烈な体験を経て、少しは変わるのかな?と思ったら、何のことはない、ほとぼりがさめた?ら、今まで通りだな、相変わらずだな、やっぱり、因縁因果だな、っていう人もいますからね。

バカは死ななきゃなおらない、っていう言い回しがあります。

が、俺に言わせてもらえば、こうなりますね。

バカは死んでもなおらない。

つまり、この世の肉体人間として寿命が尽きて死んでしまったとしても、輪廻転生を通した因縁に解消されないものが残っていると、変わることがない、変われないんですね。

死んだ当人の迷惑をこうむっていた周りの人や、その当人をバカと評価していた人にとっては、とりあえずかかわりが終わるから、バカはなおる、と言えるかもしれない。

しかし、その当人が肉体を離れても、つまり、想いや考え方がそのままで、肉体を離れて死んでしまったことがわからず(あるいは、肉体人間としての死を認めたがらず)、この世に執着して、近しい者にすがる=憑依(ひょうい)する、あるいは、下手をするとその想念を持ったまま=悪い因縁を引きずったまま、次の輪廻転生まで持ち越してしまう、などとなると、当人としては、変わらない。

すなわち、バカは死んでもなおらない、となる訳です。

そして、それ以降の輪廻転生を通して、最終的には、その悪い因縁を解消するための経験を積む羽目になる。

・・・と、ここまで書いてくると、一つ疑問に思う、あるいは、ひっかかる人が出てくるかもしれませんね。

それは、いわゆる、引き寄せ、のことです。

思うに任せない現実なんて、想いは実現する、の法則で、どうにでもねじ曲げ?好きな未来を作っていけばいいじゃないか、とのね。

ただし、その好きな未来は、あくまでも肉体人間としての利害得失計算から導き出した、極めて自分勝手なご都合主義の未来であり、五感にまつわる各種の欲望にまみれたものですがね。

よく巷(ちまた)にありますね。

願いを叶(かな)える、と。

俺の問いたいのは、その願いの質が何か?ということなんですよ。

もっと言ってしまえば、本当に大丈夫なの?こんなに簡単に願いごとばかりして? と。

かなり前に、昨今流行りの?引き寄せには、残念ながら肯定的な印象を持てずにいる、と書きました。

あまり書いてしまうと、批判的で詰問的な内容になるので、ここまでにとどめますが、俺が最も危惧(きぐ)するのは、みんながみんな、こうした五感にまつわる各種の欲望を踏まえた唯物論的な願いを叶えようとしたら、一体、どういうごとになるのか?ということなんですよ。

これまでに、何度も述べてきましたよね。

過去世から、現世=この世、そして、来世以降までも引き継いでいく、因縁因果の展開について。

この中で、こうした願いごとは、どのような意味をもってくるのか、をひとまずはとどまって、よく考えることを、お願いしたいのですよ。

果たして、本当にこれでいいのか?

霊的に何の問題もないのか?

と。

この答えについては、また、機会があれば書くことにしますが、とりあえず、気になった方には、お時間があれば、考えてみて頂きたいんですね。

まあ、かなりダラダラとではありますが、霊的なことを、くどいほど平易に書いてきたつもりではあります。

なので、内容をまとめて再構築して、考えることができる方ならば、答えは導き出せるとは思いますが、一応、問題提議として、出しておくことにします。

~~~~~

(*1)俺もこうは書きましたけどね。

そもそも、デタラメや不条理という言葉を使うこと自体、暗黙の前提として、この世は本来、よきもの、素晴らしきものであるべきだ、とした発想があります。

もう、無意識に真善美に適うものを、それこそ、神様にふさわしいものを、求める心があらわれてしまっている。

つまり、無意識に、この世を、神様の世界、神界に見立ててしまっている。

従って、よき者が苦しんだり、悲しんだりするような、デタラメな、不条理な世の中は、はじめから不適切であるとの認識がある。

暗黙のうちに、前提として、ごく自然に、反射的に、こういったものが、出てくる訳です。

つまり、私達は、自然にその本質があらわれる側面を持つんですね。

どんなにひねくれようが、いきがろうが、その本質の神様のあるべき姿があらわれる、と。

(*2)これも、神様が、私達の修行を見据えて、あえて用意、あるいは、予定した環境なのかもしれません。

しかし、修行ができていない立場の人間からすると、ちょっと厳し過ぎる感じがしなくでもないですけど。

なぜなら、世の中のこうした不条理や矛盾を目の当たりにして、挫折したり、捨て鉢になったりするのは簡単ですが、ちょっと気を取り直して、前向きに、善の道?を目指すのは、それなりの努力を要すると思われるからです。

まあ、こう感じるのは、俺だけなのかもしれませんけど。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2024/04/06 16:30
②追記: 2024/04/06 16:35
③追記: 2024/04/19 21:28
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。