おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

142_原仏1

中村元著_原始仏典_ちくま学芸文庫_を見ていきます。

なお、今回以降に書いていく内容の表題は、原始仏典を略して、原仏~という形にします。

あらかじめご了承願います。

では、内容に入ります。

よろしくお願い致します。


Ⅰ 釈尊の生涯

序章 原始仏典へのいとぐち

一 原始仏教の成立

原始仏教は、古代インドにおいて、紀元前六ないし五世紀に、ガンジス河の中流地域に都市が出現した時代に成立したそうです。

ヴェーダバラモンのことをいろいろ書くと面倒くさいので(すみません)、とにかく、農業、商工業、貨幣経済が発達して、都市国家が出現することにより、人々の生活は豊かになりつつあったようです。

今に通じるように思えますが、人々は物質的な豊かさを享受できるようになって、安楽や快楽にふけるようになり、従来のヴェーダの宗教は威信を失って、道徳の退廃も出てきたようです。

そんな時代背景を得て、思想とその発表の自由が認められていたこともあり、ここで輩出した自由思想家(「つとめる人」シマラナ、沙門(しゃもん)と呼ばれる)の中でも、異端を唱える代表的な思想家、いわゆる、六師が出現することになりました。

これは、現代から見てもかなりひどい、めちゃくちゃなものです。

内容もひどいし、個々の揚げ足とりをしても面倒くさいので書きません(すみません)が、マハーヴィーラが開祖のジャイナ教を除いては、要は快楽または享楽主義を肯定して、放埒三昧のものまでもがいくつか含まれていた、ということです。

なかには唯物論と称するものもありますが、唯物論と唯心論の折衷的なものまでありました。

とどのつまりは、判断や考えることをやめてしまえ、のサンジャヤをはじめとする懐疑論者まで出るというように。

こうした思想的な混乱を背景として、ちょうど時期的にあらわれてきたのが、釈迦族の聖者と呼ばれたゴータマ・ブッダで、いわゆる、お釈迦さんな訳です。

ただ、ここに書いてある中村さんの表記は抽象的すぎて、何言ってるのか、わからないんだなあ。

例えば、こんな文章です。

ゴータマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、真理を見失っているのだというのです。

(中略)

かれは種々の哲学説がいずれも特殊な執著に基づく偏見であると確かに知って、そのいずれにもとらわれることなく、みずから顧みて、真の人間の生きる道をめざしました。

といった感じです。

わかったような、わかんないような、訳わかんないですね。

要するに、人間として、神様の分霊(わけみたま)としての、真善美の判断能力、いわば、良心から見て、明らかに違和感を覚えておかしなものは退(しりぞ)けて、良かれと自然に思える人間の道を求めて立ち上がった人だ、ということでしょうね、お釈迦さんは。

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・退廃と書きましたが、中村さんは、頽のくずれるの字を当てています。頽廃と。
①荒れ果てること。衰えすたれること。荒廃。
②気風や道徳などが乱れ、不健全になること。
ここでは、②の意。

・沙門~しゃもん~仏教語では、出家して修行する人。僧。

・六師については、Wikipedia では、以下のようになっている。

六師外道
ろくしげどう

「六師外道」とは、ゴータマ・シッダッタとおよそ同時代のマガダ地方あたりで活躍した、釈迦に先行する 6 人の在野の思想家たちを、仏教の側から見て異端だと見なし、まとめて指すための呼称。

古代インドには様々な思想家、諸教派が存在したが、その中でも有数の教派を、仏教側から見て、まとめて指すための呼称、総称である。

・放埒~ほうらつ~(馬が埒(さく)を越えて飛び出す意から)勝手気ままにふるまうさま。だらしのないさま。放縱。

・折衷~せっちゅう~いろいろ異なるものや意見などから、それぞれよいところをとり、適当に合わせて一つにすること。

・形而上~けいじじょう~①形をもたないもの。抽象的なもの。
②(哲学で)感覚ではとらえられない無形のもの。時間・空間を超越した抽象的・哲学的・超経験的なもの。

形而上学~現象界の奥にある事物の本質や存在の根本原理を思惟や直観によって研究する学問。宇宙の本体や世界・神・霊魂などがその主要問題。

・思惟~しい~論理的に深く考えること。分析・判断・推理などの精神作用。思考。

・執著~しゅうじゃく~仏教語~深く思い込む。物事に強く心がひかれる。

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(追記)
今は、読書感想文も何かしら気難しい配慮が必要なのかもしれません。

元となった本には、著者の人間としての人となりが、何らかの形で反映されている、つまり、個性がにじみ出ていると考えられるのです(そうでない場合も多々あるのかもしれませんが)。

著書の息づかいというか、独特の表現方法や醸し出す雰囲気を知ってもらいたい、と考えた時に、どうしても原文をそのまま一部引用したい場合も出てくると思います。

それを、著作権を振りかざして、何でもかんでも、禁じられてしまったら、かなり苦しくなるのではないでしょうか。

今は様子を見ますが、原文ままの引用はなるべくなら避けて、勝手な意訳を施して要約しながら、進める形にしようと考えています。

これもあり、内容のモヤモヤも合わせて迷ってしまい、遅れた側面もありました。

言い訳になってしまいますが。

五井先生は、確か、言い訳はダメだと書いていたような気がしますが。

本当は、中村さんのご本を読んでいただければいいのかも知れませんが、そんなことは人様に強制できるものではありませんし、2020 年 10 月現在アマゾンなら、1,430 円もします。

文庫本全般もかなり高価な時代なので、気軽に購入しにくくなってきています。

自分は、缶コーヒーで濡らして、ぐしゃぐしゃ、シワシワにしてしまったので(また、さらに変形してきたため)、破らないように優しく扱って、何とか持たせようと思っています。

高いですから。

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①追記: 2020/10/16 12:55
②追記: 2020/10/21 10:08
③追記: 2020/12/03 00:40
④追記: 2024/04/07 23:10
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

( ③追記: 2020/12/03 00:40 の注記)
執著の意味がわかりましたので、それに伴い不適切な文章を削除し、意味を追記しました。大変失礼致しました。申し訳ございません。
中村さん、大変失礼なことを書いて申し訳ありませんでした。
謝罪とともに訂正させて頂きます。