おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

143_原仏2ー1

前回 ( 142_原仏1 - おぶなより ) で六師についてのところで、放埒(ほうらつ)に乱れ、欲に支配されがちで、混乱した状況から出た、懐疑論者サンジャヤについて触れましたが、お釈迦さんが台頭してくる(のかな、よくわかりません)のに従って、そのもとに、サンジャヤの弟子が、250 人入門してきたそうです。

中村さんは、これを原始仏教の運動が懐疑論を乗り越えた証左だとしています。

では、お釈迦さんは何を指し示すことによって、迷っている人々を導いたのでしょうか?

それは、人間として生きていく時に拠(よ)り所とする、あるべき規範を、指し示すことのようです。

かれはこれを永遠の理法として、ダルマと呼んだそうです。

中国の漢訳仏典では、法と訳されます。

そして、このダルマは、時も、場所も、いかなる民族も、守らなければならない、永遠の理法であるとされ、これを体得した者をブッダというそうです。

目覚めた者、悟った者という意味です。

現代風に言えば、人間を神様の分霊(わけみたま)が本体である神様の子供だと、肉体を持ちながらも、悟れた修行者とでもなりましょうか。

かれ(中村さんは、このようにお書きになっていますが、以下、こうした表現も、私の判断で「彼」のように適宜変えていくことにします。ご了承下さい)は、実践的認識を明らかにすることを目的としていた(何言ってるのかわかりませんね、これも。前後関係から、六師のような形而上学の議論に浮き身をやつすよりも、まずは、実際の生活、暮らし方、生き方の中から、真実と悟りを目指す姿勢と解釈します)ために、人の苦しみをよく見極めるところから、考えはじめました。

そこで、苦しみが生じる原因は、すべてのものが無常で、移り行き、変遷してしまうものであることにあるとしました。

私達の経験する事柄が苦しみに帰着するのは、こうしたものが絶対ではない、永遠ではないものであるにもかかわらず、わがものとして執着すること、そしてそれを保持することか叶わないことから生じる、と。

いかなるものも、自己であるとか、自己に属するとはできないために、何物をもわがものとしてはならない。

わがものとしてしまっては、とらわれが生じ、しかも、これの保持が叶わないことから、苦しむ結果を招く、と。

何物をもわがものとしてはならないとする、いわゆる、無我説の元々の意味でした。

これは、現代風に言えば、すべてにおいての絶対者は神様しかなく、すべてのものは、神様があらわしたものである。

木も森の大自然から、地球さんから、宇宙から何もかも。

もちろん、肉体人間の命も、神様の分けられたお命、分霊(わけみたま)として、頂いている。

すべて、神様のものなのだから、もし、万が一、神様が返すように求めてきたら、返さなくてはならないものになる訳です。

だから、すべての環境も、神様が、作り出し、お与えになったもの。

わがものとみなすなかれ、との考えは、こうした意味に解釈すべきだと個人的に考えます。

さらには。

神様は、そのお姿をこの地球上に、あらわすために、肉体人間を作り出し、その有限な寿命のために、便宜的に必要なものとして、自己保存の本能や動物的な生殖をはじめとする本能を付与して、神の国をあらわす、地球の地上天国化を目指して、地球さんという惑星の開発をさせる。

そこでは、肉体にわかれて入り、その付与された本能のために、行ってしまう、神様の子供としてふさわしくない、数々の想念と行為、いわゆる、業想念を、これまた数えきれない輪廻転生を通して、清算していく訳です。

いいものはもちろん、神様のみ心に適うものとして、ありがたいものとなり、あらわれては消えてゆく、
悪いものは、病、争、貧、苦のあがないの形をとって、辛いものとして、あらわれては消えてゆく。

いいものも、悪いものも、その他、人間の五感で感じることができるものも、何もかも、全部、この世で時を経て消えてゆく(これが五井先生(日本の宗教家五井昌久さんのこと)の言う「(過去世の因縁の)消えてゆく姿」)。

あるのは、最終的に残るのは、神様としての命、み心だけ。

神様の命は、無限億万年と永遠なので、肉体人間の一生は、おそらく、その中のほんのわずかにしかならない。

だから、肉体人間としてのわが身を含めて身の回りのものに、こだわれば、こだわるほど、執着しても、保持できない・叶わないことが増えて、結果的に苦しむことになる、と。

で、お釈迦さんは、このうち、実践の主体としての人間は、認めていました。

彼が臨終に際して、自己を頼れ、法を頼れ、灯明とせよ、としているからです。

お釈迦さん以前のウパニシャッド哲学で形而上学的な実体とされてましたが、彼はこの自己(これをアートマンといいます)を、実践する主体として認識し直した訳です。

私の見る限り、中村さんはそのような発展的な功績がお釈迦さんにはあった、と書いているように読めます。

では、彼の目指した実践の理想は何か、原理は何か、となります。

それは、道徳的に悪いことをしないで、生活を浄(きよ)めることとされました。

諸の悪をなすことなく、衆の善を奉じ行い、自らその意(こころ)を浄くすること、これは諸のブッダの教なり。

諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教

(ダンマパダ 183)

お釈迦さんは、彼以外にも永遠の理法を悟った多くのブッダの存在を認め、人としての正しい法は、何も彼の専売特許で始めたものではなく、永遠の法として従来からあるとしています。

その原理を現実にあらわしていくには、中道になるとしました。

これは、
一方では、先の六師の道徳に反することをしても快楽をすすめるプーラナやアジタのような人々、
他方ではマハーヴィーラのように、身を苛(さいな)み痛めつけ、苦行に専心する人々がいました。

お釈迦さんは、これらを両極端な誤ったものとして、除(の)けた訳です。

そして、中道は正しいものとされ、八正道として、展開されました。

正しい見解、

正しい思い、

正しいことば、

正しい行為、

正しい生活、

正しい努力、

正しい念想、

正しい精神統一、

の八正道が、私達人間を理想の境地に導くものとしました。

一般的に向けた具体的な戒めとしては、

殺すなかれ(不殺生戒)、

盗むなかれ(不偸盗戒)、

邪淫を行うなかれ(不邪淫戒)、

いつわりを語るなかれ(不妄語戒)、

の4つが教えられました。

そして、さらなる人々の放逸(ほういつ)さを戒めるために、(*1)

酒を飲むなかれ(不飲酒戒)、

が追加されました。

これが五戒です。

これは、先のジャイナ教で説かれていた戒めを仏教が取り入れて形を整えたもの、とされます。

で、こうした行為の実践にあたっては、当然に人様とのかかわりが生じることになります。

そこでは、人様に対する思いやりを抱き、慈悲の精神をもってあたるべきとされました。

独り子に対する母の愛に例えられています。

あたかも、母が己が独り子をば、
身命を賭しても守護するように、
一切の生きとし生けるものに対しても
無量の慈しみのこころを起こすべし。 

(スッタニパータ 149)

そして、人々は思いやりの心をもって、助け合わなければならない、と強調されました。

日廣野旅の道づれのごとく、
とぼしきなかよりわかち与うる人々は、
死せるもののあいだにあっても滅びず。
これは永遠の法である。 

(サンユッタ・ニカーヤ 第 1 巻 18 ページ (*2) )

とするのです。

人々の間の対立感、違和感が取り去られて、
「われは万人の友なり。
万人の仲間なり」
という境地を理想としたそうです。

「傷つけるなかれ」の慈しみはジャイナ教でも強調されていましたが、
仏教はさらに一歩を進めて、積極的に人々を助ける方向に踏み出したところにその特徴がある、とされます。

中村さんは、こうした慈悲の理想が、現実に展開される第一歩を踏み出したと高く評価されているように読み取れます。

これは、あれですね。

すべてのものは、神様がおつくりになったもので、肉体人間ももちろん神様のおつくりになったもの。

赤ん坊だろうが、若者だろうが、お年寄りだろうが、男だろうが、女だろうが、つまり、老若男女すべては神様の分霊(わけみたま)を頂き、宿した尊きもの。

本質は神様の霊光の分かれ分かれの兄弟姉妹の仲間であるのだから、互いに、愛し合い、慈しみ合い、助け合うのは、当然の帰結となりますね。

神様は、愛なのだから。

実際には、過去世からの、一筋縄ではいかない様々な因縁が絡んでしまうために、修行としてのこの世では難しい。

例えば、どうしようもなく身勝手で、傲慢で嫌な人間とか、自分を妬む者、嫉(そね)む者、敵意を抱いてくる者、などなどを、同じ神様の分霊(わけみたま)を頂いている、兄弟姉妹なんだ、同胞なんだ、と上から教条主義的に言われても、とても納得なんかできません。

やはり、これを心から信じることができるようになる、あるいは、その境地に近づいていくには、過去世からの業想念(神様の真善美と愛に悖る肉体人間としての想いと行い)で積み上げてしまった因縁因果の壁が立ちふさがる以上、どうしたって、それなりの修行が必要になります。

お釈迦さんの場合には、この肉体人間の本質が神様の分霊(わけみたま)であること=同胞であること、を深く意識なさい、と結果的には同じことを説いているように見えます。

彼は、当時の時代状況をも含めて、上記のような理法を悟り、実践することによって、真のバラモン、真の修行者となることをすすめたとされます。

いわば、正しき思いと行いの実践を積み重ねることによって、自らを高めて、より良き人としてのあり方を目指していきなさい、とされていたと読めますね。

なお、彼は、いいとこ取り、というと言葉は悪くなるので、正しきどこ取り、とでもいうべき考えであったようです。

既存のもので、(肉体人間としての想いと行いを)正しくいさせるものがあれば、当たり前に取り入れることで、諸宗教に通じる普遍的な真理を活かす立場をとっていた、とされます。

従って、彼だけが独自の宗教をひらいたとすることもなければ、合理的でありさえすれば、つまり、他の宗教も人の道に反しないものであるならば、除(の)けることはしない訳です。

中村さんは、これがお釈迦さんの後世に呼びかける特徴的な思想の一つになっていると述べています。

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(*1)・放逸~ほういつ~勝手気ままでだらしないこと。また、そのさま。

(*2)・日廣は、漢字変換で字が出てこなかったので、このように表記しました。
中型の漢和辞典にも載っていません。
廣は広ですから、広野のことと思われます。

・広野~こうや~果てしなく広い野原。広野(ひろの)。

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①追記: 2020/10/30 19:10
②追記: 2024/04/08 03:59
③追記: 2024/04/08 04:11
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。