おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

148_原仏6

五 現代語訳の意義

ここには、仏典の伝えられた言語の経緯が書かれているのですが、また、細かくごちゃごちゃとわかりにくいので、大雑把にいきます。

まず、お釈迦さんはマガダ語で教えを説き、それがパーリ語に直され、さらに、サンスクリット語に書き換えられました。

マガダ語(でお釈迦さんが教えを説く)
パーリ語(変換)
サンスクリット語(変換)
→ほぼサンスクリット語を漢訳
→日本へ

ただ、散文の決まり文句と韻文の部分といったその言語固有の特色があり変えられない部分は、痕跡を残した形となっている、ということです。

で、ほぼサンスクリット語が翻訳されて漢訳のお経がつくられ、日本に伝わりました。

教団が固定されると、扱う言語も決まる訳ですが、当時の民衆の言葉が元だったようです。

中村さんは、パーリ語の詩の部分には難しい術語などない、とされています。端的に言ってしまえば、難しいのは、仏教学者がカッコつけるからだ、と。

中村さんは、当時のインドの言葉に通じている人が訳せばやさしくなるはずだ、そうすることが、お釈迦さんと教えをつくった人々の精神をそのまま伝える、と。

わざわざ難しくするのは、学者の臭気、ペダンティックなものが加わっているわけだと書かれています。(*1)

で、中村さんとしては、そうしたいにしえのお坊さんも行っていたカッコづけ(中村さんは、こけおどしと表現されています)も、時代背景からは、それなりに意味があって決して悪いことではないとされているように感じます。

人々に尊敬されるように仕向けることが、時代状況的に教化の方便だったから、ある意味仕方ない、と。

ただ、今はそうした時代状況ではなく、既存の権威がなくなっていくのだから、こうしたかざりごとは不適切だとお考えのようです。

ですので、自らを偽らず、納得のいく、わかりやすい仏教であることがふさわしい。

そのために、現代文に直すのは意味があるとされています。

ただ・・・。

個人的な感想を言わせてもらうと。

例えば、開経偈という、これからお経を読むにあたっての、短いご挨拶ですが、書き下し文に直しただけでも、ちょっとまどろっこしい。(*2)

ましてや、現代語訳をしてしまうと、かなり間延びしたものになってしまいます。

日本人は、言葉の省略が大好きですよね。

なんでもかんでも詰めて言葉をつくってしまう。

隠語にするときには、ショバ(場所)のようにひっくり返したりと。(*3)

漢文形式でも、意味さえ大まかにつかめれば、いいのではないですかね。

お経は長いものが多いし、その点からしても短い方が、読経しやすいし、時間が省ける。

合理的だと思うんですけどね。

もちろん、教えを口語でするのは、いいのでしょうが、長いお経は短い方がいいような。

勝手な感想ですけど。

~~~~~

(*1)そうは言っても、中村さんご自身が、臭気、ペダンティックという言葉を使っている。

なんか、ちょっと自家撞着のような。

もしかしたら、わざとおやりになっているのでしょうか。

自戒の意味を込めて、大学者さんがあえて故意にやってのけることで。

真意はわかりませんが。

・臭気~しゅうき~くさいにおい。悪臭。

ペダンチック(ペダンティック)~学識をひけらかすさま。学者ぶるさま。衒学的。

・衒学~げんがく~学問や知識があるのを自慢して、ひけらかすこと。ペダントリー。

・衒学的~学問や知識があるのを自慢して、ひけらかすさま。

・ひけらかす~(知識などを)見せびらかす。誇示する。

・自家撞着~じかどうちゃく~同じ人の言動が前とあととで矛盾すること。

(*2)開経偈について

これは、元々は、瀬戸内寂聴さんの CD 付きの本で知りました。

( 106_教訓 - おぶなより ) に書いた本とCDです。

ちなみに、一般的なお経入門の類いの本は、意外にもこの開経偈は出ていないことが多いです。

なぜだかわかりませんが。

私の勉強不足のせいかもしれませんが。

なので、一応、ここに書いておくことにします。

なお、便宜上、ふりがなを直後につけます。

開経偈~かいきょうげ

無上甚深微妙法~むじょうじんじんみみょうほう

百千万劫難遭遇~ひゃくせんまんごうなんそうぐう

我今見聞得受持~がこんけんもんとくじゅじ

願解如来真実義~がんげにょらいしんじつぎ

以下は、書き下し(読み下し)文です。

書き下し文とは、漢文を日本語の語順に従って仮名交じりの表記にした文のことです。読み下し文も同じです。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇すること難し。~むじょうじんじんみみょうのほうは、ひゃくせんまんごうにもそうぐうすることかたし。

我今見聞し受持することを得たり。願わくは、如来の真実義を解さん。~われいまけんもんしじゅじすることをえたり。ねがわくは、にょらいのしんじつぎをげさん。

なんか、ずいぶんと間延びします。

意味は、いいですよね。

訳すと、さらに間延びするのは、必定だとおわかり頂けることと思います。

なお、以前にも書きましたが、偈(げ)とはサンスクリット語のガーターで、詩のことです。

これは、どうしようか迷ったんですが。

読経の終わりのご挨拶もあるのですが、宗派によって違ったり、しなかったりする場合があるので。

一応、ご参考までに瀬戸内さんの天台宗(と真言宗も同様)での終わりのご挨拶である、回向文も書いておきます。瀬戸内さんも、法話のあとの般若心経の読経のあとに CD でおやりになっていましたから。

回向文~えこうもん

願以此功徳~がんにしくどく

普及於一切~ふぎゅうおいっさい

我等與衆生~がとうよしゅじょう

皆共成佛道~かいぐじょうぶつどう

書き下し文

願くは此の功徳を以て普ねく一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを。~ねがわくはこのくどくをもってあまねくいっさいにおよぼし、われらとしゅじょうとみなともにぶつどうをじょうぜんことを。

(*2)中村さんのことを書いていて、もしかしたら自分も、と気になったので、念のために書いておきます。

私は、何の気なしに隠語と書いてしまいましたが、この文脈ならば、倒語の方が、当たっています。

・倒語~とうご~発音の順序を逆にした言葉。隠語に多い。
(凡例)
・たね(種)→ねた
・ばしょ(場所)→しょば
など。

・隠語~いんご~特定の社会や仲間内だけに通用する、特別の意味を持った語。隠し言葉。

(参考)
・やくざ仲間で使う、どや(宿屋)・ばくり(かっぱらい)、
・寺院の人が用いる般若湯~はんにゃとう~(酒)、
・やみ屋仲間が使う、だふ(切符・入場券)
など。

あと、これはネタ(ねた)として、何回も使わせてもらったので、恩を仇で返すことになるかもしれないから、悪いんだけど・・・。

非モテコミットは、あまり好きではないんだけどなあ。

わざわざあの言葉をつくる意味がありますか?

私には、わかりません。

元々、個人的に教養がなく、英語も苦手で、横文字の濫用が大嫌いなせいもあるのかもしれないけれど。

入れあげすぎたら、ポイされたんですよね?

せいぜい、あげポイ、くらいでいいんじゃないでしょうか?

何もあんなに仰々しく長々と、しかも横文字を使って・・・。

私の邪推なのかもしれないけれど。

なんか、いかにも、アドバルーンをぶちあげて、注目を集めようする意図が・・・。

まあ、邪推です。

大変失礼致しました。

皆さん、モテ談義や恋愛談義がお好きなんですね。

あの用語が使われているのが数年にもわたっているみたいだから、お好きな方が多いという証左なんでしょうね。

まあ、人様のことは言えません。

自分の場合は、皆さんとは違って、教養がなく、話のネタもないためもあり、モテ談義めいたこともかなり書いていますし。

やっぱり、肉体人間として生まれる時に、神性に付与して与えられた動物的な本能がいかに強いか、人間は肉体であるという肉体人間観が輪廻転生を通していかに強化されてしまうか、という側面も多少はあるかもしれないけれど。

ただ、だからと言って、フロイトのように、なんでもかんでも?性欲に帰着させるのは、唯物論そのもので、結果として、あらゆることが肉体身を中心とした利害特質計算に集約されぎみになるから、動物的な本能を本質とする学説や理論は・・・。

ご勘弁頂きたいんですけれど。

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①追記: 2020/10/30 15:39
②追記: 2024/04/09 04:03
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。