おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

158_原仏8ー8

前回 ( 157_原仏8ー7 - おぶなより ) の補足です。

前回までで、一応、第一章 誕生と求道 ー 『スッタニパータ』(1) を終わりにはしました。

が、そこで書いた、輪廻転生などについて、ちょっと書き足した方がいいかな、と思うことが出てきたので。

私達肉体人間は、神様の分霊(わけみたま)を本体とした神様の子供であり、従って、その本質は神様であり、そのために、輪廻転生を通して、真善美に悖るところの、神様としてふさわしくない想念と行為の清算をされることになっている旨を、前回も含めて何度も書いて来ました。

で、その清算をするネタ元というか、元になっているのは、潜在意識と呼ばれる想いの世界の領域なんですね。

ここに、生まれてから今までの今回の人生、今生の想念と行為が、あますことなく、すべて、びっしりと記録されている。

普段の何気ない意識、表層意識、専門用語でいうと、顕在意識になるらしいんですが、この意識では忘れ果てているように思えても。

で、その潜在意識(五井先生的に言うと、各自の想いの世界である幽界)は、何回も何回も生まれ変わってきた、あまたの過去世のもの=前世、前々世、前々々世、・・・も、すべて含まれているんですね。

五井先生は、録音盤とお書きになっていました(多分、昔あったとされるアナログレコード盤にたとえられたのだと思います)が、現代風に言えば、メモリー、それもSDカードやUSBメモリーのような、時が立てば消えてしまう揮発性のあるものではない、絶対に劣化して故障しないハードディスク(普通のハードディスクは、モーター系のなどの機械の稼働部分があるので、必ず老朽化して故障しますが)のようなものらしいんです。

世の中には、たまに生後の記憶をすべて持っていたり、一瞬で見たものや読んだものを記憶する特殊な超人的な能力を持っている人もいるようですが、実は、肉体人間の本体、神様レベルでみれば特殊ではなく、誰もが備えている能力らしいんですね。

ただ、普通は、生活するのに、言い換えれば、肉体人間として修行する人生を送るのに、いろいろと支障が出るために、封印されているだけで。

だから、空海ではないですが、特殊な修行をつんで研鑽をして(さらには、守護の神霊さんの承諾とお力添えを得て)、それなりの能力を会得すれば、この封印が解かれる、と考えられる訳です。

まあ、ごく一部の特殊な因縁のある人以外は、これは解かれないまま生きていくのが普通だと考えられます。

で、この各自の潜在意識に記録された想念(と行為)を元に、現界、時系列でいうと現世となるこの世での人生に、様々なことが展開されていくらしいんです。

で、神様の想念と行為としてふさわしくないもの、真善美に悖るものは、それは神様の世界には、あってはならないもの、清算されなければならないものとなるので、あがないとしてのの病気、争い、貧乏、苦労の現象として、いろいろなことが起きてくる訳です。

ただ、何回か書いたように、すべて清算すると、大変なことになってしまいますから、守護の神霊さんの裁量の範囲内で、この潜在意識を、特に、真善美に悖る業想念を、そのこの世での具現化の前に、未然に浄めて消して頂いているらしいんです。

その一つが夢で、何かしらこの世にあらわれてあがないをすべき大変なことも、それとはわからない形に変えて、夢として見せることで、業想念を消して下さるそうなんです。

想いは、あらわれれば消えるという特性を持っているので。(*1)

そうすることで、この世でのあらわれを未然に防いで消して下さる、と。

なので。

想念と行為、まあ、行為の前には想念がありますから、想念=想いですね。

これが大事になってくるんです。

私が、これまで言葉の使い方も大事ですよ、と何回か触れてきたのも、こうした理由によります。

言葉を発する前には、想いがありますし、言霊として言葉自体にも生命が宿りますからね。

で、人間は肉体そのものだという肉体人間観、そして、人生は今この一回きりだという、輪廻転生を否定する考え方、まあ、言ってしまえば、唯物論ですね。

この唯物論では、元から霊性の高い人を除いては、どうしても五感にまつわる各種の欲望にこだわり、翻弄されてしまうので、想いも乱れがちになる。

私達肉体人間の本体が神様の分霊だといっても、その内部の神様の光を出すことができる人は、まずいない。

過去世からたまりにたまっている、真善美に悖る業想念で、その光が覆い尽くされてしまっていて、生命活動維持以外に、自ら輝きだすことができなくなってしまっている。

なので、一般的な唯物論に染まってしまっている人はもちろんのこと、ある程度、信仰をしている人でも、おそらく、この光を出せる人はいない。

いるとすれば、霊性がきわめて高く(従って、他人を批判したり、罵詈雑言を吐いたりすることなど絶対にしない、高潔な人格者しか該当し得ないことになる)、多くの人を救い、導く力のある霊的に指導的な立場にある人以外には、おそらくいない。

なので、何らかの開祖が神界との約束事をして、神様の光を降ろしてもらうより、方法がない訳です。(*2)

例えば、これこれの祈りをすれば、神様の光を降ろすというように。

守護霊さんと守護神さんに、はかりしれない、ご加護とお浄めも頂いているけれど、肉体人間自らもこの神様の光を頂けるお祈りをすることによって、過去世から積みに積んできてしまった、業想像念を少しでも浄めるように肉体人間各自が努めるしかないですね。

いわば、一種の歩み寄りと言えなくもないかもしれない。

そうしない限りは、浄めずに残っている業想念は、現世か来世以降に必ず、病気、争い、貧乏、苦労などのつらいあがないとして、この世にあらわれてきてしまう。

そこで、守護の神霊さんに、お浄めをお任せにするばかりではなくて、自らも世界平和の祈りをすることによって神様のお光を頂くとともに、より守護の神霊さんに守って頂きやすくすることと、普段からのご恩に感謝する(=守護霊さんありがとうございます、守護神さんありがとうございます、の感謝行をすることによって)。

これが望ましいことになると考えられます。

以上で、私が想いや言葉について、やかましく書いていたことも、ご理解頂けると思います。

次回からは、Ⅰ 釈尊の生涯 第二章 悪魔の誘惑 ー 『サンユッタ・ニカーヤ』 (1) を見ていこうと思います。

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(*1)こうは書きましたが、消える、の意味がわかれていると個人的には解釈しています。

消えるというのは、輪廻転生上、現界にあらわれる現象として具現化する元としての作用が無くなる、と解釈しています。

それが、五井先生がお書きになっていた、想いはあらわれれば消える、の意味だと考えます。

その想い、とある輪廻転生上での、想念は、記録としてはなくならない。

現界で発現する因果の原因としての因縁としての役割、というか機能はなくなっても、その想念があった事実だけは、記録として残る。

従って、漏尽通で、宿命通などの各種の神通力を持っている人には、ある時点で存在した、その想いの内容は読むことはできるし、また、わかる。

ただ、結果たる因果の元となる、原因としての因縁の作用だけがなくなった、と考えています。

(*2)・開祖~かいそ~仏教語で、宗派・寺院を開いた人。宗派の創立者。祖師。

・宗派~同じ宗教の中での分類。

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①追記: 2020/11/07 06:55
②追記: 2024/04/13 04:22
③追記: 2024/04/13 04:25
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。