おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

160_原仏9ー2

二 娘たちの誘惑

前回の 159_原仏9ー1 では、悪魔が大きな蛇の王様の形をとって、釈迦を恐怖で屈服させようとしたことを取り上げました。

いわば、脅しとすかしのうちの脅しですね。

次は、すかすというか、欲につけこむ形での誘惑で、釈迦を何とか陥落させようと試みてくることになります。(注1)

それが、愛執、不快、快楽という、悪魔の娘としてあらわされ、出てくることになります。(注2)

漢訳仏教経典では、なぜか魔女と訳してあるそうですが。

で、その悪魔の娘たちが、父である悪魔に語りかけるくだりが出てきます。

以下になります。

さて、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちが、悪魔・悪しき者に近づいた。

近づいてから、悪魔・悪しき者に詩を以(もっ)て語りかけた。 ー 
「お父さま!なぜ、あなたは憂えておられるのですか?
いかなる人のことを悲しんでおられるのですか?
わたしたちは、その人を愛欲の綱で縛って連れて来て、あなたの支配のもとに置きましょう。 ー 森の象を縛って連れてくるように。」

インドでは、このように象をつかまえるので、これになぞらえて、立派な修行者の釈迦を誘惑して、肉体人間の性欲をはじめとする、付与された動物的な本能に働きかけて、堕落させようということなのでしょう。

それに対して、父である悪魔は以下のように答えます。

(悪魔いわく、 ー )世に尊敬される人・幸せな人(ブッダ)を、愛欲で誘うのは容易ではない。
かれは、悪魔の領域を脱している(わたくしにはどうにもならない)。だから、わたしは大いに悲しんでいるのだ。
そこで、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のように言った。 ー 
「修行者さま。われらは、あなたさまの御足(みあし)に仕えましょう」と。

御足に仕えるとは、あなたに仕える、あなたのそばにいて、そのご用を果たしましょう、ということです。(注3)

しかし、釈迦は揺るぎません。

以下になります。

ところが、無上の(生存の素因の破壊)のうちにあって解脱されているとおりに、尊師(釈尊)は気にもとめなかった。(中間略)
そこで愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちは尊師に近づいた。近づいてから、傍(かたわ)らに立った。
傍らに立った悪魔の娘の一人・(愛執)は、尊師に詩を以て話しかけた。 ー 

悪魔の娘たちは、まず百人の少女に、次に百人のいまだ子を産まない女に、次に百人の、一度子を産んだ女に、次に百人の熟年の女の姿を作り出して尊敬師匠に近づきましたが、まったくお話しにならなかったということです。

中村さんは、、釈迦が迷いの生存の元を滅ぼし尽くしていたから、これらの誘惑を気にもとめなかったことをお書きになっています。

ちょっと、下品な話になってしまいますが。

これは、あれですね。まさに現代(日本だけ?)のアダルトビデオのネタに通じるものがあるのではないですか?

二千年以上たっても、肉体人間の性欲、愛欲には、国籍も何も、肉体人間である以上は、さして変わりはない、ということでしょうか?

ただ、これは対象が釈迦のためかどうかわかりませんが、男性目線の内容になっているきらいは否めませんね。

仏教が、男性目線色がやや強い?というような。

それはともかく。

かの娘たちは、続けます。

「あなたは悲しみに沈んで、森の中で瞑想しているのですか(じっとしているのはなぜなのですか)? それとも、なくした財を取り戻そうとしているのですか?
あなたは村のなかで、なにか罪を犯したのですか?
何故に人々とつき合わないのですか?
あなたは、だれとも友にならないのですか?」と。

対して釈迦は、以下のように答えます。

(尊師いわく、 ー )
愛(いとお)しく快いすがたの軍勢に打ち勝って(悪魔の誘惑に打ち勝って)、
目的の達成と心の安らぎ、楽しいさとりを、わたしは独りで(心の中で)思っているのです(さとりの境地は楽しい、そこへゆきたい)。
それ故にわたしは人々とつき合わないのです。
わたしは、だれとも友にならない。

当時の修行者は、一人で修行するのが通例だったので、このようになっています。

そのときの悪魔の娘・(不快)は、尊師に詩を以て語りかけた。 ー 
「修行僧はこの世で、どのように身を処すること多くして、五つの激流をわたり、ここに第六の激流をもわたったのですか?
どのように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにしないのですか?」と。

五つの激流が、私達を惑わす元となる、いわば、五感のことですね。肉体にまつわる五感にもとづく、各種の欲望を指していると考えられます。
すなわち、眼→視覚、耳→聴覚、鼻→嗅覚、舌→味覚、身(皮膚感覚)→触覚、の五感、欲望を起こさせる五感のことですね。
般若心経の、無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)の、眼耳鼻舌身がこれにあたりますね。
第六の激流とは、心の中の迷いや悩みを生じさせる想いを指します。

(尊師いわく、 ー )
身は軽やかで、心がよく解脱し、
迷いの生存をつくり出すことなく、しっかりと気を落ち着けていて、執著することなく、真理を熟知して、思考することなく瞑想し、怒りもせず、悪を憶(おも)い出すこともなく、ものをいうこともない。(注4)
このように身を処することの多い修行僧は、この世で五つの激流をわたり、ここに第六の激流までも渡った。
このように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがなかった。

次いで、悪魔の娘・(快楽)は、尊師のもとで、この安らぎの詩をとなえた。 ー 
「妄執を断って、仲間の群とともに歩む。
実に多くの人々は歩むであろう。
執著なきこの人は、多くの人々を、(死王(悪魔)束縛から)断ち、死王の彼岸(かなたの岸)に導くであろう。
偉大な健き人である諸(もろもろ)の如来は、正しき理法によって導きたもう。
理法によって導かれている智者たちが、どうして嫉(ねた)まれるであろうか?」

そこで悪魔の娘たちである(愛執)と(不快)と(快楽)とは、悪魔・悪しき者のところにおもむいた。
悪魔・悪しき者は、悪魔の娘たちである(愛執)と(不快)と(快楽)とが遠くからやってくるのを見た。見てから、詩句を以て語りかけた。 ー (詩句略)

(愛執)と(不快)と(快楽)とは、光り輝いてやってきたが、
風神が柔毛(にこげ)と落葉とを吹き払うように、師(釈迦)はそこで(このように)彼女らを追い払われた。

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(注1)すかす~①なだめる。機嫌をとる。
②言いくるめてだます。
ここでは、①の意。

(注2)愛執~あいしゅう~仏教語で、愛するものに、執着すること。愛着(あいじゃく)。

不快~ふかい~①おもしろくないさま。気持ちの悪いさま。不愉快。
②気分の悪いさま。病気。

快楽~かいらく~気持ちがよく楽しいこと。特に、欲望が満たされたときの心地よい楽しみ。
(参考)仏教では、「けらく」と読む。

(注3)仕える~つかえる~①(主君・主人・親など)目上の人のそばにいてその用をする。
②役所につとめる。
ここでは、①の意。

(注4)執著~しゅうじゃく~仏教語~執着のこと。深く思い込む。物事に強く心がひかれる。

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①追記: 2020/11/08 07:41 〜訂正内容〜文中において、五感に関して、少し補足をしました。

②追記: 2020/12/03 01:10 〜訂正内容〜
注釈を追加して、執著の意味を追記しました。

③追記: 2020/12/05 12:15 〜訂正内容〜
追記に番号を振り忘れていたので、追加しました。失礼しました。お詫びとともに訂正させて頂きます。