前回 ( 164_原仏9ー5 - おぶなより ) のサンユッタ・ニカーヤにある 第七篇 第二章・第四節の、子のかたちをした悪鬼、の話について雑記します。
あそこに出てくる老いたバラモンの男性を、「老いた父親」とします。
あの話での、お釈迦さんのやり方についてです。
彼のあのやり方は、老いた父親の息子達の良心と体面維持(つまり保身)に働きかけ、老いた父親を大事にさせようとするやり方に見えます。
老いた父親の息子達は、それまで裕福な家庭で大事に育ててくれた父親の恩を仇(あだ)で返すように、世話になる時だけは機嫌をとっておいて、もう、世話にならなくても自立できるとなったとたんに、厄介者として、家から追い出したんですよね。(*1)
お釈迦さんがあのような詩句を公会堂で老いた父親に唱えさせた狙いは以下の 2 点でしょう。
その行為自体を自らの良心に照らし合わせて、気持ちを改めさせることが、まずは 1 点目ですね。
いわば、内発的な行動をさせるんですね。
神様の分霊(わけみたま)を本体とする肉体人間として、神様の子として、自らの行いを心から悔い改めるように、自然にもよおす行いに働きかける訳です。
これこそ、内もよおしという、仏の道という宗教的な。
2 点目は、公会堂で、その近隣を含めた公衆の面前で、自分たちのしたところの、人で無しの行為を曝(さら)されることで、まわりから、悪く見られることを避ける、つまり、悪評を立てられたり、社会的に制裁を受けたり、何かと人づきあいがしづらくなり、暮らしにくくなることを避けるための、保身のためですね。
どちらかというと、韓非的な利害打算をにらんでの唯物論的な。(*2)
何か、あの文面から見る限りは、この 2 点目の狙いがほとんどのように読めます。
なぜなら、よからぬしれ者、などと、近隣の人々をも含めた公衆の面前で、あのような非難の言葉を投げつけるということは、息子達の心に切々と訴えかけるとか、諄々と諭すには、程遠いとしか思えないからです。(*3)
公衆の面前でショックを与えられたために良心に目覚めるというのは、あまり、自然な成り行きには思えないんですよ(個人的な見方かもしれませんが)。
つまり、心から、ああ、自分たちは実の父親に対して、何て愚かなことをしたんだ、ひどいことをしたんだ、としみじみと反省する感じがあまりしないんです。
あくまでも、外発的な行動であるかのような。
衆目の監視の目さえなければ、本当に行動を改めるかどうか、きわめて疑わしいような。
まあ、私の独断と偏見かもしれませんが。
もし、彼らが、本当に、真にこのように反省するようになるのは、自らが同じ立場に置かれた時、すなわち、息子も生まれて自分たちもやがては親になり、そして長い時を経て、老いた父親になって、同じように捨てられた時だ、と思うんですよ。
その時にこそ、はじめて父親の気持ちが身に沁(し)みてわかる、というよように。
遠い将来、自分たちが父親と同じ境遇に置かれた時、すなわち、悔しく、つらく、悲しい思いを味わわされた時に、はじめて、心の芯から、年老いて捨てられた父親の気持ちがわかると考えられる訳です。
ああ、自分たちは、かつて、こんなにひどいことを父親に対してしてしまっていたのか、なんてひどいことをしたんだ、と。
仮に、1 点目の良心の呵責に訴える側面を内発的なものとすると、2 点目の側面は外発的なんですね。(*4)
そうしたくない(父親を引きとってこれまでの態度を改め反省して大事にすることはしたくない)としても、世間体があるから、仕方なしにやる形の。
これ、あれに似ていると思うんですよ。
霊性の開発における段階に。
例えば、よからぬ行為、真善美に悖る行為をする場合に照らし合わせてみると。
その行為をすると、他人から反撃を食らうとか、バチが当たる、その結果を恐れて、行為を思いとどまる、踏みとどまる、のは、消極的で外発的なんですね。
するよりは、しないほうがいいに決まっていますが、やや、いやいやというか、仕方なしにやめている感じがある訳です。
霊性の開発段階としては、かなり低いですよね。
自分達が社会的に不利な立場ににならないように、身の回りの利害得失だけを最優先して立ち回ることと同義だから、真善美に悖る業想念による典型的な行為が本質ですからね。
そうした業想念をすべて取っ払って、神様の分霊を本質とする者として、自然に行わない、老いた父親の息子達の例でいうなら、親を大事にするにまでは、全然至っていません。
つまり、神様の子として、本来あるべき形からは、遠くなっている訳です。
で。
中村さんとしては、おそらく、良心の呵責に訴える事例として、取り上げられたと思うんです。
中村さんも偉い学者さんで、素直で温厚そうな良い人に見えますし。
ただ、私のような、ひねくれた、へそ曲がりから見ると、韓非的に、保身に重きを置いて見てしまうんですよ。
しかも、こうした見方のほうが、霊性の開発の段階としてみても、納得しやすい気がするんです。
中村さんのお考えは、今となってはわかりませんが、この点をどのようにお考えなのか、もう少し詳しく書いて頂けたらありがたかったなあ、と思いました。
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(*1)・厄介~やっかい~①手数がかかりわずらわしいこと。また、そのさま。めんどう。
(用例)厄介な話。
②世話を受けること。
(用例)友達の家で、二、三日厄介になる。
ここでは、①の意。
・厄介払い~厄介者や厄介な物事を追い払うこと。
・厄介者~①他人の迷惑となりわずらわしい人。
(用例)厄介者扱い。
②他人の世話を受ける人。居候(いそうろう)。食客。
・食客~しょっかく~①他人の家に
客として待遇され、養われている人。
②居候。
なお、食客は、しょっきゃくとも読む。
(*2)・韓非~かんぴ~中国、戦国時代末期の思想家。韓非子は尊称。権力主義的な法治主義を唱える法家の思想を大成した。韓非子 20 巻はその論述・思想をまとめたもの。
(*3)・諄々~じゅんじゅん~理解しやすいように丁寧に繰り返して説くさま。
(用例)諄々と諭す。
(*4)・呵責~かしゃく~きびしくとがめせめること。責めさいなむこと。
(用例)良心の呵責に耐えられない。
・内発~外からの刺激によらず、内部からの欲求に促されて自然に行動を起こしたり、ある状態にいたったりすること。←→外発
・外発~外部からの力によって、やむなく行動を起こしたり、ある状態にいたったりすること。←→内発
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①追記: 2020/11/12 05:43
②追記: 2024/04/13 07:32
③追記: 2024/04/13 10:06
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。