おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

166_原仏9ー7

釈尊の生涯 を、
序章 原始仏典へのいとぐち
第一章 誕生と求道ー「スッタニパータ」(1)
第二章 悪魔の誘惑ー「サンユッタ・ニカーヤ」(1)

今まで見てきた、上記の中で、神様や悪魔など、特に神様がどのような位置付けであるかを、一応、振り返っておこうと思います。

軽く通読をして、そして、今回ゆっくり目に見直してきたのですが、やはり、自分としては、今一つスッキリしないというか、モヤモヤしたままです。

残念ながら。

しかし、ともかく、形式にだけでもまとめてから、次に行きたいと思います。

まず、釈迦の誕生に関して、(アシタという)仙人とヴェーダ経典での三十三天とされる、三十三人の神々と帝釈天が出ていました。

そして、出家を経て、修行者となってからは、釈迦の悟りを妨げようと、悪魔や悪魔の娘達が出てきました。

で、中村さんによると、釈迦が悪魔の娘達を追い払い尽くしたのち、その覚悟(これこの文脈での意味がよくわからないのですが)のもとに、人々に教化活動をはじめられたとされています。

さらに、教化活動には、梵天という神様が懇請、つまり、懇願した形となっています。いわば、梵天が後押しをしたように書かれています。

で、161_お断り で書いたように、これらの存在は、何らかの固有の意志を持つ霊的な存在であり、釈迦や経典作者にとっては、対話ができる、明らかに認識可能な存在としました。

そうでないと、たとえであれ、空想であれ、何であれ、いちいち、頭の中での変換翻訳作業を強いられてしまい、めんどくさいことこの上ないし、不自然なこときわまりないからです。

釈迦の生涯の重要な節目(中村さんは、バッセージという、私のような教養がない者からすると、まったく知らなかったような言葉を使っている。あまり一般的とは思えないんですけど)とされる、誕生、出家、降魔(修行中、そして悟ってからも悪魔を退け続ける)の三つにも、これらの存在は出ている訳です。

これだけ、彩りとして花を添えるように、霊的な存在が出ている。しかも、中村さんからすると、釈迦の生涯で重要とされる節目が、これらの存在によって彩られている訳です。

これらが、釈迦や弟子の教えなどとしてお経の形で伝わって来ている。

これを、当時も現段階も、その文明水準で証明できないからと言って、不問とする、無記とするのは、いかがなものでしょうか。

逆に言えば、これらの存在をすべてなかったものとすると、どうなるか、ということです。

ただ・・・。

こうしたものを扱うには、それこそ聡明で、高潔で、まれに見る人格者でなければ、つとまりませんが、そうなると・・・。

あるいは、キツネだ、タヌキだ、ヘビだ、ガマだ、と幽界の生物を崇めて、憑依(ひょうい)されるはめになったり、霊的能力の見せ物扱いや、その自慢合戦などで、本来の霊性開発の道から遠く外れる弊害があることを、釈迦はすでに見越していたからかもしれませんが・・・。

まあ、何にしろ、無記扱いにしながら、それを多彩な彩りに用いるという、何ともいえない状況になっている、とは言えます。

残念ですが、教養のない私には、現段階では、この程度しか読み取れません。

残念ですけれど。