神々の存在の位置付け以外に、一つ引っかかているものがあるので、これについて触れます。
それから、次に進みます。
お釈迦さんが、梵天の頼みを受けて、悟りを得た修行者、まあ、ブッダ(仏陀)の目で世の中を、特に、世の人々を見渡して、教化を決意し?(哀れみによってと書かれているからこれかな)立ち上がり、梵天が挨拶して立ち去るくだりがあります。
以下です(段落分けなどの改変あり)。
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
(おのが)信仰を捨てよ。
梵天よ。
人々を害するであろうかと思って、
わたくしは微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」
まず、前回書き忘れた(すみません)点も含めて、いくつか触れていこうと思います。
耳ある者とは、教化の可能性のある、利根の人などに代表されるような人々のことでしょうね。
まあ、聞きわけと分別のある人、といったところでしょうか。
ども、とは・・・。
こういっちゃなんですが、ずいぶんと上から目線ですね。
まあ、原語がどうなっているのか、翻訳の関係か知りませんが、もし万が一、お釈迦さんを崇(あが)めたいばかりの勇み足なら、ちょっと頂けないのではありませんか?
なぜなら、お釈迦さんは、遊女をはじめとする、いかなる人をも相手に、待機説法をした訳です。(*1)
現代風に言い換えれば、どんな境遇に置かれた人にも、肉体人間として、その神様の分霊(わけみたま)を頂く、本体とする人間として、言い換えれば、相手各自の神性を認めて、尊重して対処した、と考えられるからです。
日本語の「ども」の用法には、相手を、多くは相手を見下す意味合いで使うことがありますからね。
上から見下す、これはすなわち、差別です。
こうした行為は、唯物論の典型的な悪癖がもたらすもの以外の何ものでもない。
こうした雰囲気を感じるから、私みたいなひねくれ者は、疑いの目で見てしまうところがあるんですよ。
まあ、確かに、当時にも、信仰には程遠い人々はいたでしょう。
しかし、差別や段付けは、最もしてはいけない、戒めなければならない事柄なのではないのですか?
私はそう思うんですけど。
で。
不死の門とありますが、これを仮に、永遠の生命、輪廻転生を通した、神様の分霊(神様の命は永遠)としての生き方、あり方を獲得する(近づくように精進していく)道だとすると、これは、現代の霊性の開発と同じですね。
私が、引っかかっているのは、わからないのは、ここでお釈迦さんが、人々を害するであろうか、としているところなんです。
人々を害する、とはどういう意味なのか。
お釈迦さんほどの人です。自らや弟子達には、いかなる艱難辛苦があろうとも、教化に取り組む、いそしむでしょう。(*2)
教えても徒労に帰する点についても、含み置きをした上で教化を決意しているはずです。
教化側は、まずは大丈夫、ということですね。
実際に、お釈迦さんはその生きざまを通して証明していますよね。
悟りを開いてからの、35 才から亡くなる 80 才までの 45 年間の歳月で。
もっとも、彼にとっては、証明だの何だのと、そんなことはどうでもよかったのでしょう。
ただ、人とともにありたい、自然とともにありたい、いってしまえば、神様のあらわしたすべてのものとともにありたい、そして、そのために少しでも役立つなら、身を捧げ尽くしたい、と。
問題は、被教化側となりますが、害するとなると、何を意味しているのでしょうか?
教化される、現代風に言い換えれば、霊性を開発されていくことが、程度の差こそあれ、ものすごい苦痛を伴う、という意味なのでしょうか?
まあ、いろいろ、考えられますが、一応、この本を終えたあとに、また、見返したいと思います。
考えが変わらないかもしれませんが、とりあえず、このようにさせて頂きます。
ご了承下さい。
お願い致します。
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(*1)・遊女~ゆうじょ~①中世、宴席で歌舞・音楽を演じたり、身を売ったりした女。遊び女。
②江戸時代、遊郭で身を売っていた女。女郎。
なお、身を売るとは、自分を求めてくる相手の男性に、なにがしかの対価と引き換えに、セックスをさせる、セックスされることを許す、という意味ですね。
現代風に、はっきり言い切ると、こうなるはずです。
(*2)・艱難辛苦~かんなんしんく~困難にあって苦しみ悩むこと。
・艱難~かんなん~艱も難もつらい・苦しいの意~困難にあい苦しみ悩むこと。つらいこと。難儀。
(用例)艱難汝を玉にす~かんなんなんじをたまにす~人は多くの困難や苦労を経験することによって、立派な人物になる。
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①追記: 2024/04/13 10:30
②追記: 2024/04/13 10:32
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。