おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

170_原仏10ー2

前回 ( 169_原仏10ー1 - おぶなより ) で、この経典は、お釈迦さんの死に直面した場面やその直近の経緯からでなく、違う話から始まっていると書きました。

実は、これは私の個人的な勝手な想像なのですが、お釈迦さんの 80 才、寿命をまっとうした年齢ですね、その前なのは確かだ、とはわかるのですが、できれば時間差を知りたかったのです。

前回の内容からでは、数日なのか、数週間なのか、数ヶ月なのか、はたまた、数年前(さらには数十年前?)なのか、わからないのです。

アーナンダを従えた、マガダ国王の遣いの大臣ヴァッサカーラとの会見でも、これをうかがわせる描写は出てきません。

例えば、お釈迦さんが 80 才直前で、大臣から見て、どのような風貌に感じられたか、といった描写がまったくありません。

普通なら、ほんの少しでもありそうなはずなんですけどね。

何せ、お墨付きという、権威付けをもらうための大事な山場の場面ですから。

これまでの、様々な華美な経典描写から類推すると、それにふさわしい、何らかの描写がありそうに思うんですけどね。(*1)

まあ、私の独断と偏見ですが。

疑り深すぎるんですかね、へそ曲がりなもので。

私は、先入観なしにあれを読んだ時に、まだ、少なくとも、50 代か 60 代のバリバリ?のお釈迦さんが答えたように感じたからです。

前置きが長くなりました。

第三章 最後の旅 ー 「大パリニッバーナ経」

二 最後の旅路
です。

マガダ国王から遣わされた使者、ヴァッサカーラ大臣との会見で、強引で自分勝手な征服戦争をやめ、ヴァッジ族を自国繁栄のための模範とせよ、と暗に諭したお釈迦さんは、そののち、鷲の峰を下りて、生まれ故郷のネパールの中部地方に向かいます。

齢(よわい)八十にして、わずかの弟子を連れて歩きで、故郷に旅立つ心境は、いかばかりか、と中村さんはお考えのようです。(*2)

文面からすると、生まれ故郷で生涯を閉じたい、という、お釈迦さんの人間味のある選択なのではないか、とお考えのようです。

いくら歴訪した、その土地、その土地に執着を持たないように、遊歴と教化を旨とされる修行者でも、やはり、死を目前に控えて故郷に帰りたいという気持ちのことと思われます。

中村さんは、後の大乗経典で神格化され、巨大化しすぎた?ものではなく、歴史的人物としてのお釈迦さんの姿が、非常に生々しく、そして親しく、暖かい気持ちをもって迫ってくる、そのために、この経典に心惹かれる旨をお書きになっています。

徒歩である、といってもほとんどの現代人のように履き物を履(は)いていません。当時の修行者の常で、道端の虫もできる限り踏み潰して殺さないように裸足(はだし)だったようなのです。

しかも、何とその距離 350 kmです。鷲の峰を出発して、ナーランダー、パータリプトラ、ヴェーサーリーなどを経て、クシナーラーで終わるところ旅路での。

舗装の行き届いた道を、車で移動するだけでも大変そうな距離です。

まったく、想像もできません。想像を絶しています。(*)

しかも、お釈迦さんは、その旅の合間合間に、機会あるたびに教えを説いたとされています。

王舎城を出発した(この記述からすると鷲の峰から一旦、王舎城に戻ったんですかね?それとも通過点なのか?ちょっとわかりません)お釈迦さんが、最初に立ち寄ったのがナーランダーです。

長くなりましたので、今回は、ここで区切ります。

~~~~~

(*1)・華美~かび~はなやかで美しいさま。また、派手でぜいたくなさま。
(用例)華美を極める。華美な服装。

(*2)齢~よわい~年齢。年。また、年配・年頃。
(用例)齢を重ねる。

~~~~~

(*)これは、私の勝手な判断で、故意に省いたことなのですが・・・。

あまりにも、宗教が遠いものに思えてしまうかもしれない、と思いましたので。

しかし、やはり中村さんが取り上げている以上、書いておくべきなのでしょうね。

350 kmの話の直前に、こうあります。

経典によれば、釈尊は「眼を下に向けて気をつけている」と書かれていますが、こうした記述から路上の虫さえも踏み殺さないように裸足で旅を続けた様子が窺(うかが)われます。

つまり。

歩くだけでも、これだけの気遣いをするのが、修行者のあり方であった、わざわざ、虫たちのため(虫たちを踏み潰して殺さないため)に下を向きながら歩く、と。

今では、考えられませんよね。

現代人は、下を向いて歩くこと自体が、危険なものになってしまっているからです。

往来はある、自転車はある、自動車はある、他に気をつけていないと、自分の身が危なくなるからです。

これとは、ちょっと違うかもしれませんが、五井先生(昭和の宗教家の五井昌久さん。世界平和の祈りの提唱者)の書かれていたことを、うろ覚えですが書いてみます。

自分勝手な想像の付け足しも、かなりまじるかもしれませんが、あらかじめご了承下さい。

私達肉体人間は、植物、動物をはじめとする、あらゆるものの犠牲の上に生きている。

当然、各種の資源もそうなります。

外を歩けば、虫を踏み潰して殺しているかもしれない(今回の話がこれですね)し、食べものに関しては、植物も動物もその生きていた命を頂く訳です。

肉体人間が生きていくために、栄養分となるものは同化してくれる、そうして生きていく訳です。

いわば、命を頂いた訳だから、感謝とともに頂かなければならない。

それを、こんなものはまずい、あんなものはいやだ、のように、贅沢三昧ばかりやっていると、あらゆることが悪いことになってしまう。

肉体人間、すなわち、人類が万物の霊長としての存在を許されているのは、その神様のみ心を地球世界、この肉体世界、現界にあらわすためにこそである。

従って、文明の進化などをも含めて、いろんなことをある程度犠牲にしながらやっていくのは仕方ない側面があるにしても、感謝とそのご恩返しとなる祈りを欠かさないようにしていくことは、必須である。

そこに、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行があるから、これをやっていきましょう、と。

だいたい、こんな感じだったと思うのですが、もし間違っていたら、ごめんなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2020/11/19 23:10
②追記: 2024/04/13 11:17
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。