おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

174_原仏10ー5

前回 ( 173_原仏10ー4 - おぶなより ) の続きです。

お釈迦さんは、ヴェーサーリーにしばらくとどまり、雨期に入ります。

そこで、彼は病気にかかります。回復はしましたが、年齢は 80 才です。彼は、寿命のことを意識したのでしょう。

ところで。

当時の平均寿命がわからないので、何とも言えませんが、80 才というのは当時としては長生きだったのではないでしょうか?

浄土宗系で言えば、法然は 80 才、親鸞は 90 才ですよね。

それに、お釈迦さんほどの人なら、神通力を備えているので、自らの寿命のこと、そしてこの世を去るまでの経緯はわかっていたのではないですかね。

ただ、それらは、周囲には決して言わなかっただけで。

それはともかく。

中村さんは、回復したとはいえ、80 才という年齢で、お釈迦さんが病気にかかったことで、死の覚悟を固めたと断じています。

そして、これからお釈迦さんが様々に述べることを、感慨をもって受け止められたようです。

これは、私の勝手な解釈も含めて考えるのですが。

お釈迦さんは、宗教家、人生の道を求める求道者の先達としてのあり方を示しておきたかったのではないですかね。

もちろん、それまでの生きざまで、弟子達や帰依者達に、十分には伝わって来ているはずですが、それでも、なお、言い残しておこう、と。

まず、自分の教えは、いや、求めてきた法は、あらゆる人に明らかであり、あらゆる人を照らすものであること、そして、唯物論とは決定的に異なるということを。

以下です(段落分けなどの改変あり)。

「アーナンダよ。
修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?
わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。」

内外の隔てなしに、とは。

私達、肉体人間が、皆、神様の光の一筋、一筋の分かれの霊光、神様の分霊(わけみたま)を本体とする神の子であるから、過去世からの因縁によって、いかに、性別、性格、外見、身分などの置かれた境遇が異なろうとも、決して差別はしない、という意味に取れます。

そして、悟りを得た自分ではあるが、出し惜しみや秘伝のような真似は、決してしない。これらは、これすなわち、差別的な扱いをしないと同じだからです。

唯物論での、肉体人間=自己とする立場から、他人を出し抜き、少しでも自分だけが優位な立場に立つような、そんな真似はしない。

いかなる理由があっても。(*1)

そんな真似はしないし、そもそも自分の教えは、そうした出し抜きや隠しだてをするようなものとは違うのだ。

あらゆる肉体人間すべての人々に、等しく通じるところの、人としてのあり方を説いて来たのだ、と。

そして、ある程度、道を求めてきた修行者の心構えについて、そのあり方を示しています。

「わたくしは修行僧の仲間を導くであろうとか、あるいは修行僧の仲間はわたくしに頼っているとこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人はわたくしは修行僧のなかまを導くであろうとか、あるいは修行僧のなかまはわたくしを頼っているとか思うことがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。」

つまり、真の求道者たる者は、自分こそが修行の道から見て、下位の者を導けるとか、頼られるほどの偉い人間だと、思い上がることなどない、ということでしょう。

自分がある程度道をきわめつつあったと思っていても、あくまでも、自らを見つめ直しながらの精進に次ぐ精進しかないので、そうした、俗世間的な見栄などとは無縁なものなのだ、ということでしょう。

この世が、五感にまつわる誘惑の多いこの肉体世界が、真善美に悖る業想念に満ち満ちていて、ちょっとでも油断をすると、迷いやすい。

増長もするかもしれない。

だから、常に反省に次ぐ反省で自戒しながらやっていく必要があるから、気をつけましょう、と。

宗教の道は、人や仲間の数を頼んで、外圧をかけたり、どうこうするものではない、あくまでも、自分が神様のみ心に照らしてどうであるか、ふさわしいあり方をしているかを、常に自問自答しつつ、精進していく道なのだ、と。

さらに、こうも述べています。

「アーナンダよ。
わたくしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。
わが齢は八十となった。
譬(たと)えば古ぼけた車が革紐(かわひも)の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたくしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。」

(以上、二・二五)

中村さんは、釈尊の感慨が伝わって来るような気がします、と述べられています。

これも、また、勝手な解釈になりますが。

人々も、修行者も、その気根のいかんによって、悟りにたどり着けるかどうかは異なってくる。(*2)

各自のあまたの(=数多くの)過去世からの積み重ねの、精進の賜物、いわば、集大成であるところが大きいからだ。

しかし、今、この世に存在する肉体人間として神様の分霊の器としては同じだ。いかに過去世の因縁により性別などの現在の境遇が異なろうとも、道を求めることは、この世に生を受けた以上、誰にでもできる。

自分は悟りに達したけれども、あくまでも皆さんと同じ肉体人間なんだ。老いもするし、それもこうして肌で感じる。超人的な存在ではないのだ。

私はあくまでも肉体人間という、皆さんと同じ立場にいる。だから、道を求めていきましょう、と。

そのあと、お釈迦さんはさらに教えを説きます。

自己に頼れという教えです。

「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

しかし・・・。

私は頼ると普通に書きますが、さっきは「頼る」で今度は「たよる」ですか。こんな風に、同じ表現でも漢字混じりか、ひらがなか、本当に本での記載が首尾一貫していないんです(今回はあえてそのまま引用しました)。

以前お断りで書きましたけど、決して私が皆さんに意地悪をして、書き分けて、煩(わずら)わしい印象を与えるつもりではないので、この点は悪しからずご了承下さい。

すみません。話がそれました。

また、この自己に頼れ、に関しては、次のものもあります。

「アーナンダよ、今でも、またわたしの死後にでも、自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
ー 誰でも学ぼうと望む人々は。」

また、愚痴ですが。

さっきは、わたくし、今度はわたし、です。本当にこんな感じなんです、漢字混じりだけではなく、ひらがなだけでも。何でなのかわかりませんが。

すみません、戻ります。

中村さんは、自己に頼る=法(ダルマ)に頼るとか、百万人といえども我往(ゆ)かんとか、いろいろと書かれていますが、申し訳ありませんが、ここは私の独断と偏見で、書かせて頂きます。

上記に書いたことと重なりますが、自己に頼る=法に頼るとは、あくまでも、自分が神様のみ心に照らしてどうであるか、ふさわしいあり方をしているかを、常に自問自答しつつ、精進していく道なのだ、と解釈します。

なお、島とするの各表現は、インド固有の気象事情にもとづいたものです。

インドには、雨期明けに日本とは桁違いの大洪水になることがあり、大海原の中にいるようになって辺(あた)り一面水浸しになるそうです。

そんな時、頼りになるのは水面から出ている部分しかなくなります。これを島と呼んでいるのです。漢訳仏典では、洲(す)あるいは島と訳されています。

なお、中村さんによると、法を明らかにすることが釈迦の根本的な立場であることから、昔(いつ頃ですかね?)は仏教と言わずに、仏(お釈迦さんのことでしょう)が明らかにする法という意味で、仏法と言っていたそうです。

「・・・修行僧たちよ。
これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良くたもって、実践し、実修し、盛んにしなさい。
それは、清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすのであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々と人々の利益・幸せになるためである」と。

(三・五〇)

人間として法を実践することは、すべての人々の利益と幸福につながるとしているのでしょう。

この言葉からすると、お釈迦さんは自力的な精神が強かった、と中村さんは分析しています。

自分は指導はしたけれども、道を求めるのはあくまでも各々がすることだ。私(お釈迦さん)は機縁(奇縁?)は与えて、道しるべにはなっても、行いは自分でするのだよ、と。

そのやり方は、自己に頼る=法に頼る、というやり方で、と。

そうすれば、自己の進む道にも確信が出てくることにもなる旨を、中村さんはお書きになっています。

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(*1)万が一、出し惜しみをすべきものがあるとすれば、唯物論的に悪用が可能なもの、すなわち、自己の五感にまつわる勝手な欲望充足のために乱用できるもの、となるでしょうね。

もっとも、そもそも、お釈迦さんの言うような、人として求めていく道に、このようなものがあるのかどうかはわかりませんが。

(*2)・気根~きこん~①物事をやりとげる気力。根気。
②仏教語で、仏の教えにしたがい修行しうる衆生の能力・資質。
ここでは、②の意。

衆生~しゅじょう~仏教語~いっさいの生き物。特に人間。

(*3)・機縁~きえん~仏教語~仏の教えを受けることのできる縁。
②何かが起こるきっかけ。
(参考)・奇縁~きえん~思いもよらない不思議なめぐり合わせ。不思議な因縁。
(用例)合縁奇縁・合縁機縁~あいえんきえん~男女・夫婦・友人など、人と人との交わりで、たがいの気心が合うのも合わないのも、すべて不思議な縁によるということ。

つまり。

あまたの過去世からの因縁は、私達一般人にはわからないし、目にも見えないから、不思議であるとされる訳でしょうね。

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①追記: 2024/04/13 14:15
②追記: 2024/04/13 14:20
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。