おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

175_原仏10ー6

中村さんは、釈迦がヴェーサーリーを去るにあたって、我々にとって胸に響く感懐を残した、この世を去り、皆と別れるとなると、今さらながらにこの世の美しさに打たれて、恩愛の情に引かれている、としています。(注1)

アーナンダよ。
ヴェーサーリーは楽しい。
ウデーナ霊樹の地は楽しい。
ゴータマカ霊樹の地は楽しい。
七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。
バフプッタの霊樹の地は楽しい。
サーランダダ霊樹の地は楽しい。
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

(三・二)

インドの土地はだいたい荒れていても、そこに大きな樹が茂り、葉が繁茂すると、その下は涼しくて気持ちがよくて、美しいそうです。(注2)

また、釈迦は、「この世界は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ」ともしています。

中村さんによると、甘美は訳しにくいそうですが、原語はマドゥラで、甘くて味わいがよい意味だそうです。味わえば味わうほど深みがある意だとされています。

さしずめ、噛(か)めば噛むほど味が出るスルメとでも、言えましょうか。ただし、塩味ではなくて、ほのかな甘さを漂わせる妙なる味わいの人間の。(注3)

なお、中村さんは、原始仏典では、この世は苦であると説かれていることと、こうした甘美の表現が矛盾するかもしれないことについて、その整合性を以下のようにつけています。

またですが、これも大体にまとめます。

以下です。

釈迦は、最初は人生が思うようにならないことを痛感して、道を求めた。その時点では、一切皆苦、すべては苦であると。

しかし、道を求めて修行を続けた過去を、今この齢である終末になって改めて振り返ってみると、人間の命は尊く味わいのあるものだ。

今、この人生の終末近くで感じたことに深い意味がある、と。

また、勝手に解釈させてもらいますと。

神様のあらわしたものは、すべて妙なるもので、神秘に満ちていて美しい(猛獣や毒蛇みたいな生き物もいるけれど。彼らにもやはりそれなりの意味があるのでしょう)。

大自然も、あまたの生物、植物も動物もすべてのものが美しい。

もちろん、神様の分霊を頂いて生きている人間は、霊妙きわまる摩訶不思議なる存在だ。

人生が思うようにならないのは、元々があがないのための修行だから。

完全な神体の世界、神様の世界から、波動でいうと粗い不完全なこの肉体世界、この世にまで霊界、幽界と通って降りてきて、しかも自分勝手な行為をするんです。

だから、神様の道から外れた分は軌道修正しなければならなくなる。

大元の神性に加えて、神様の世界をこの三次元の物質世界にあらわすことを、地球さんという惑星開発の形をとって行うために、自己保存や生殖といったやや排他的な本能を付与された(巷でDNA(遺伝子)を残す云々として皆さん話をしているのは、大体これじゃないですか)。

そのために、どうしても発展の段階として、自分本意な自分勝手な想念と行為で、真善美に悖る業想念を積んでしまい、霊魂魄(れいこんぱく)に汚れをつけてしまう。

これは、霊魂魄、神様の分霊、神様としては、本来あってはならないものだから、原則として、隔世を経て、順次清算して消し去らなければならなくなる。

消し去られる定めにあるんです。

これが、現世で、病気、争い、貧乏、苦労として、病、争、貧、苦のあがないとしてあらわれてくる。

だから、この世は、原則として楽しみに来ている訳ではない。

嬉しいことばかり、楽しいことばかりにならないほうが、ほとんどのはずなんです。

だから、一切皆苦だ、と。

ただ、やはり、釈迦のように達観した目でこの世を見ると、改めて神様の懐(ふところ)の深さ、偉大さ、作られたものの美しさ、はかなさ、などを感じないではいられない。

修行だとしても、このような素晴らしい環境をご用意して下さっている、と。

そういうことじゃないですかね。

実際、信仰者の端くれにもなれない、まったく問題にならないほど無限億万年の最下層の私でさえ、黄金に生え輝く何物にも例えようがないほど美しい夕陽、明けの明星の空、もちろん、自然は厳しいものがたくさんあるけれど、やはり、素晴らしいし、美しいと思います。

感嘆しますものね。

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(注1)感懐~かんかい~心に感じ思うこと。
(用例)感懐を述べる。

恩愛~おんあい~①いつくしみ。めぐみ。情け。
②親子・夫婦の深い情愛。
ここでは、①の意。

(注2)繁茂~はんも~草木が生い茂ること。

(注3)妙~たえ~不思議なまでにすぐれているさま。霊妙なさま。

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追記: 2020/11/27 06:26 〜訂正内容〜最下部で、一部不適切な例えがあったので訂正しました。
一部、字句を追加・訂正しました。