おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

176_原仏10ー7

175_原仏10ー6 の続きです。

釈迦が、この世は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ、とした後の続きになります。

「さあ、修行僧たちよ。わたしは今お前たちに告げよう、 ー もろもろの事象は過ぎ去るものである(諸行無常)。
怠けることなく修行を完成なさい。
久しからずして修行完成者(=ゴータマ・ブッダ)は亡くなるだろう。
これから三ヶ月過ぎた後に、修行完成者は亡くなるだろう」と。

そして、彼は次のような感懐を洩らします。

「わが齢は熟した。
わが余命はいくばくもない。
汝(なんじ)らを捨てて、わたしは行くであろう。
わたしは自己に帰依することをなしとげた。
汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。
その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生れを繰りかえす輪廻をすてて(迷いの生存をすてて)、苦しみも終滅するであろう」と。

中村さんによると、これは別れの言葉とされます。

釈迦の心に感じて思うこと(感懐)のなかで、肉体人間としての現実を見つめ、弱さを認めているもので、自らを偉ぶらず、老人になったことをはっきり認めたものだ、それだけに胸を打つ、とされています。

この終わりの、輪廻転生から卒業すること、悟りを得て、解脱することが最終目標だと取れますね。

逆に言うと、肉体人間として、この世に生を受けるということは、やはり、苦しみだといっているようにも取れます。

従って、まだまだ、五感にまつわる、肉体にまつわるところの、各種の欲望に未練があったり、とらわれていては、すなわち、これらをむさぼりたくて仕方ないようでは、まだまだ、といったところでしょうか。

この終わりの部分からすると、肉体人間としての生まれ変わりを上(あ)がりになることが、苦しみに終止符を打つ、と読み替えることができますから。

次です。

病を押して、釈迦は再び故郷に向かって旅立ちます。そして、いくつかの町や村を経て、ハーヴァーの町に着きました。

ここで鍛冶屋(かじや)の息子チュンダの出してくれた食べ物で、また病気に、重い病気にかかります。激痛に耐えながら、最後の旅が始まるという伝説が経典にあります。

 ー 鍛冶工であるチュンダのささげた食物を食(め)して、しっかりと気をつけている人は、ついに死に至る激しい病に罹(かか)られた。
菌(きのこ)を食べられたので、師に激しい病が起こった。
下痢をしながらも尊師は言われた。
「クシナーラーの都市に行こう」と。

(四・二〇)

クシナーラーは、釈迦が亡くなった場所です。

釈迦はこの苦しみの後、激痛に悩まされながらも、禅定に入って苦しみに耐え、しきりに水が飲みたいと言ったことが、経典に出ています。

このような苦しみには遭いますが、釈迦はチュンダを恨まず、むしろ、気を配り心配しています。

「チュンダは〈自分が供養した食物で、釈尊は中毒に当たられた。すまなかった。〉と思うかもしれないが、しかしそうではない。かれが供養してくれた食物は、最も功徳のあるものであった」と。

中村さんは、釈迦がどこまでもチュンダのことを思いやり、彼の好意に感謝していたとしています。

いずれ遠くない将来、自分が亡くなることになった時に、チュンダが周辺をはじめ、あらゆる人から責め立てられることを危惧して、思いやり、先手を打ってかばっておいた、ということでしょうね。

自分が年老いたのも、病気になったのも、今回、食あたりにあったのも、すべて自然の成り行き、定めなのだ。決して、チュンダを責めてはならない、と。

なお、中村さんは、釈迦がバラモン教カースト制度にこだわらないことについても、ここでは触れています。

中村さんは、カースト身分制度によると、鍛冶工のような職業は一番下とされると言われていて、シュードラとされると書いています。

カースト身分制度にこだわらず、もてなしもありがたく受けるし、教えも説く、それが人間としての釈迦の態度、あり方である、と。

ハーヴァーからクシナーラーへの旅は、苦しく大変なものであったに違いない、と中村さんは述べています。

釈迦は、旅の途中、何度も休みます。

その描写が以下です。

尊師は路(みち)から退いて、一本の樹の根もとに近づかれた。
近づいてから若き人アーナンダに言った。
「さあ、アーナンダよ。お前はわたしのために外衣を四つ折りにして敷いてくれ。わたしは疲れた。わたしは坐りたい」
「かしこまりました」と、アーナンダは尊師に答えて、外衣を四重にして敷いた。
尊師は設けられた座に坐った。坐ってから、尊師は、若き人アーナンダに言った。
「さあ、アーナンダよ。わたしに水をもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」

(四・二一 ー 二二)

苦しい時には、素直に苦しいと言っている。肉体人間としては、ごく普通の人と何ら変わるところがない。人間的な暖かい彼のぬくもりが伝わって来るようだ、素晴らしい情景だ、といった評価を中村さんはしています。

なお、中村さんは、その時、異常な霊験があらわれた、ともされているのですが、申し訳ありませんが、調べていないので、割愛させて頂きます。

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①追記: 2020/11/21 21:05 〜訂正内容〜

以下のものを追記します。

鍛冶~かじ~金属を熱し、打ち鍛えて種々の機械・器具を作ること。また、その人。

鍛冶屋~①鍛冶を職業とする家。また、その人。
②一端がL字状に曲がり、釘(くぎ)を挟(はさ)む割れ目のついた鉄製の大工道具。釘を抜くのに用いる。
ここでは、①の意味。

禅定~ぜんじょう~①心のはたらきを静めて、精神を集中すること。また、その心の状態。瞑想。
②霊山に登って修行すること。
ここでは、①の意。

外衣~字引載っておらず。

②追記: 2020/11/30 08:03 〜訂正内容〜

チュンダの名前をチェンダと勘違いして、書き間違えていました。
大変申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。