おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

179_原仏11ー1

Ⅰ 釈尊の生涯 の
第四章 仏弟子の告白・尼僧の告白ー「テーラガーター」「テーリーガーター」 です。

一 仏弟子の告白

男性のお坊さん、それも長老の告白集です。

テーラは教団の長老(男性のお坊さん)を、テーリーは長老の尼僧(にそう)(女性のお坊さん)を、ガーターは詩をあらわします。

これらは、仏教が興(おこ)った時の釈迦の弟子の告白を詩の形でまとめたものです。

中村さんによると、テーラガーターには、弟子となった者達の精神的な煩悶、救いを得たいという熱烈な希望、努力の挫折、釈迦に会って教えに帰依し心の安住が得られた喜びまでの過程が、生き生きと描かれているとされます。(注1)

以下は、テーラガーターのスニータ長老の告白です。

わたくしは卑(いや)しい家に生まれ、貧しくて食物も乏しかったのです。(低いカーストに生まれました。)
わたくしは家業が卑しくて、萎(しぼ)んだ花を掃除する仕事をしていました。

(六二〇)

インド人は花を大切にはしますが、萎むと捨てるそうです。
彼はこれを掃除する人で、こうした掃除人夫は、当時は見下されていました。(注2)

人々には忌(い)み嫌われ、軽蔑され、ののしられました。
わたくしは心を低くして多くの人々に敬礼しました。

低いカーストの人間が来ると、身分の高いカーストバラモンは避けることが近年(この本が書かれたのは2020年の現在から33年前)まであったが、そのことです。

しかし、釈迦に会ってからは、心の眼(まなこ)が開かれたようです。

そのとき、全(まった)き悟りを開いた人(ブッダ)、大いなる健(たけ)き人が、修行僧の群にとりまかれて、マガダ国の首都に入って来られるのを、わたくしは見ました。

(六二二)

釈迦は、大いなる健き人、英雄とも呼ぶことがあるそうです。

わたくしは天秤棒を投げ捨てて、(師に)敬礼するために、近づきました。
わたくしを憐(あわ)れむがゆえに、最上の人(ブッダ)はそこに立ち止まっておられました。

(六二三)

そのとき、わたくしは、師の御足(みあし)に敬礼して、一方の側に立って、あらゆる生きもののうちの最上者(ブッダ)に、『出家させてください」と請(こ)いました。
そのとき慈悲深き師、全世界をいつくしむ人は、「来なさい。修行者よ」とわたくしに告げられました。
これがわたくしの受戒でありました。(注3)

(六二四ー六二五)

割合にすんなりと受け入れられた情景が感じられますね。

しかし。

低い身分で差別され、長くつらい思いを味わってきたスニータ長老には、いたく感動したための表現なのかもしれません。

しかし、こうした釈迦を祭り上げる権威付けのためであるかのような美辞麗句の連発、どういうものでしょうか。

私のようなひねくれ者には、神様のみ心にかなった行い(当然その前段階として想いがある)一つこそが、妙好人の宇右衛門さんのような、行い一つのほうが、まずは第一だ、と思うのですけれど。

また、勝手な話になりますが。

釈迦は確かに凄い人だ。

例えようもなく素晴らしい。

それは45年間、人に尽くしてきたことで証明されている。

しかし。

いい行いと見目麗しい形容。

どちらが大事か。

もちろん、お経だから、神様の光が宿っているのかもしれない。

しかし、私のような最低の者、ひねくれ者には、ご立派なご託宣をたくさん並べられても、しらけてしまい、あまりピンと来ないのだ。

そんなご立派なものは、俺には縁がねえよ、と。

宇右衛門さんのような行いは、心に染み入るようで、静かだが、本当に感動させられたのだ。

決して、身分も高くない、カッコ良くもない(見たこともないのに決めつけてごめんなさい。本当はカッコいいのかもしれない)、権威も何もない、しかし、人の、私のようなひねくれた者の、心さえも打つような、神様の光があったと思うのだ。

人のためを思う自然な愛の思い。

自分を無くした無我の境地から、自然になされる行い。

ここには、神様の光が宿っていると思うのだ。

だいぶ、脱線しました。

戻ります。

そこでわたくしは、独りで森に住んで、怠ることなく、勝者(ブッダ)が教え諭されたとおりに、師のことばを実行しました。

(六二六)

屋内に住む修行者もいましたが、スニータ長老は一人で森の中の静かな場所に住んでいました。怠ることなくとは、心が乱れないようよく気をつけることで、勝者はブッダの別名です。
戦場で多くの敵を倒すよりも、自らの煩悩に打ち克つことの方が難しいが、彼はこれを克服したので勝者と呼ばれます。

夜の初更に、わたくしは過去世のことを想い起こしました。

まず。

中村さんに文句を言いたい(もう、だいぶ前にお亡くなりになっているが)。

無礼、失礼極まるのは、重々承知の上だ。

初更。しょこう。こういうものにこそ、ふりがなをつけてほしい。

これも読みは簡単にできるし、意味など、教養がある者なら軽くわかる、とお思いになったのかもしれないが、そうでない者もいるのです。

で、夜の初更です。これは、三つに分けた最初の時間で初夜ともいうそうです。過去世云々は、自分のあまたの過去世がわかるようになった、仏教の宿命通(しゅくみょうつう)が備わったということでしょうね。(注4)

夜の中更に、天眼(てんげん)(透視能力)が浄められました。夜の後更(ごこう。これはふりがながついていた)に、闇黒(無知)の塊(かたまり)が砕かれました。

(以上、六二七)

中村さんによると、もはや、彼は無明を打ち破り、漏盡通(ろじんつう)を得たということらしいです。

次いで、夜の明けがた、太陽の昇り出るころに、インドラと梵天が来て、わたくしに合掌し敬礼して、言いました、 ー

(六二八)

インドラは空の世界を支配する最高の神で、インドの最古の聖典「リグ・ヴェーダ」で最も重要な神です。仏教に取り入れられてから、帝釈天として拝まれます。また、以前にも出ましたが、梵天は世界の創造主とされます。

帝釈天梵天は、仏法(仏教)を守護する二大神だそうです。この神々がスニータ長老に合掌して礼拝するのです。それは修行者のほうが、立派な修養を積んで悟りを開いた人だからとされます。

これは、肉体人間として、肉身を持ちながら、神様の想いと行いをそのままあらわせた、釈迦、すなわち、ブッダと同じことでしょうね。

肉身を持たない、霊体、神体としての神様には、愚鈍な肉体をもったままで、神のみ心をあらわした肉体人間は、敬意をあらわす、と。

釈迦が神々にお釈迦様、と礼拝されるのと同様ですね、多分。

肉体人間、すなわち、罪悪深重の凡夫が、業想念を完全に浄め去って、悟りを開いたということですね。

「生まれ良き人、あなたに礼拝します。最上の人、あなたに敬礼します。あなたの汚れは消滅しました。あなたさまは、供養を請けるべきかたです。」

(六二九)

つまり、私が先に書いたことに重なるが、(良き想いそして)良き行い一つ、ということですね。

この最高神たる神々は、行いの素晴らしい人、清らかな人を、生まれ良き人と言っている。

血統じゃない、お祭りの形式じゃない、あくまでも神様のみ心にそった行い一つだ、と同じことですね。

供養云々というのは、当時バラモンが世間の人々から供養を受けて何らかの施しにあずかる習わしがあったので、神々は、スニータ長老、あなたこそ、こうした立場にあるべき立派な人だ、とはっきりと認めたと言えます。

次いでわたくしが神々の群に敬(うやま)われているのを、師は見たもうて、微笑みをたたえて次の道理を説かれました、 ー
「熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、 ー これらによって、ひとは、バラモンとなる。これが最上のバラモンたる境地である。」

(六三〇ー六三一)

中村さんは、生まれによってのバラモンではない、修養の生活を積んだ人(そうして悟りを開いた人)がバラモンだ、それを二大神が証明した、としています。

なお、この修養については、釈迦の一番弟子サーリプッタ舎利弗)も、厳しい態度を示していたそうです。

辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ、瞬時も空しく過ごすな。
時を空しく過ごした人々は、地獄に墜ちて、苦しみ悩む。

(一〇〇五)

インドは大陸なので、城壁が守備には重大な意味がありました。これを守ることは命懸けなので、それくらい真剣に修養に取り組め、といっている意味とのことです。

後世の禅の「生死事大、無常迅速」などかこの道理にあたるそうです。

また、最後に、真の自己を求めよ。真の自己を確立せよ。それにたよれと言われていて、これは、煩悩に包まれている自己とあるべき自己の二つの意味が含まれていて、それを受けて明確にしたのが大乗仏教であると言えるのではないか、と中村さんは述べられていますが、私には何のことか、意味がよくわかりません。

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(注1)煩悶~はんもん~心の中でもだえ苦しむこと。思いわずらうこと。

(注2)人夫~にんぷ~土木作業や荷物の運搬など力仕事にたずさわる労働者。

(注3)受戒~じゅかい~仏教語で、信者の弟子が戒律を受けること。また、戒律を受けて僧になること。

(注4)初更~しょこう~昔の時刻の名。一夜を五つに分けた。その第一。今の午後七時頃から九時頃。戌(いぬ)の刻。一更。
本文とは違いますが、よくわかりません。

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追記: 2020/12/03 01:30 〜訂正内容〜
一部、不適切な文章を削除しました。