前回 ( 180_原仏11ー2 - おぶなより ) の続きです。
前回取り上げた、以下についての中村さんの解説は、たった二文しかありません。
「婦女の身であることは苦しみである」と、丈夫をも御する御者(ブッダ)はお説きになりました。
(他の婦人と)夫をともにすることもまた、苦しみである。
また、ひとたび、子を産んだ人々も(そのとおり)であります。
か弱い身で、みずから首をはねた者もあり、毒を仰いだ者もいます。
死児が胎内にあれば両者(母子)ともに滅びます。
(二一六 ー 二一七)
キサー・ゴータミーさんの話を紹介した直後には、「その告白は人生の悲惨を物語っていて痛烈です」としか、書いていない。
そして、上記の一連の部分を取り上げて、これに対して、中村さんのつけた解説は、わずか二文だけなのです。
以下です。
インドでは、ことに武人が自決するときは自ら首をはねることが多いのです。ときには日本の武士のように切腹した人もいます。
たったこれだけ。
これだけです。
いくら概論的な本だからといっても、あれだけ問題をはらむ内容を含み、注釈を書くべき部分を取り上げながら、これっぽっちだけはないでしょう。
丈夫をも御(ぎょ)する御者(ぎょしゃ)(ブッダ))~また、ひとたび、子を産んだ人々も(そのとおり)であります、までを調べて書こうとすると、かなり面倒なことになるし、脱線するので、勝手ながら、ここは割愛させて頂きます。
中村さんが、どのような意図で、これを引いたのかわからない。
ただ、お釈迦さんは、女性に関して、いろいろとかなり厳しいことを言っているので、悪意にとる人も出ないとは限らない。
お釈迦さんは、明らかに女性を差別している云々、と。
なので、とりあえず、人を差別しない彼のあり方から、あの言い回しは、こうした意味を踏まえてのものではないか、と考え、前回の内容(あがなうべき因縁に深く重いものがたまったので、女性として生まれてくる)を書いた次第です。
お釈迦さんが、アーナンダに説得されるまで、女性の出家を認めなかったのも、男性にとって、女性には性的な魅力をはじめ、抗(あらが)うことのできない、どうしようもない吸引力と誘惑があるので、男性達を惑わせないために禁じていた、と考えられるからです。
つまり、お釈迦さんは女性に精通していて、その魅力も知り尽くしていた。
家庭を持ったこともあるし、世間一般~悟りを得られない修行者までの男性の霊性の程度も十分に熟知していた。
彼は、神通力もそなえていただろうし、人間観察力も桁外れだっただろうからです。
もちろん、人間が女性として生まれてくれば、男性よりもはるかに図太くて、たくましくて、したたかな者として生まれてくることも、十分にわかっていたでしょうし。
神様の分霊(わけみたま)の入れ物、器としては男性も女性も変わらなくても、あまりにも女性には魅力がありすぎるので、接近させるべきではない、と考えていたからではないでしょうか。
男性もその魅力には逆らえないから、惑わせてしまう、と。
次です。
わたくしは分娩の時が近づいたので、歩いて行く途中で、わたくしの夫が路上に死んでいるのを見つけました。
わたくしは、子どもを産んだので、わが家に達することができませんでした。
貧苦なる女(わたくし)にとっては二人の子どもは死に、夫もまた路上に死に、母も父も兄弟も火葬の薪(たきぎ)で焼かれました。
一族が滅びた憐れな女よ。
そなたは限り無い苦しみを受けた。
さらに、幾千(の苦しみの)生涯にわたって、そなたは涙を流した。
(二一八 ー 二二〇)
さらにまた、わたくしは、それを墓場のなかで見ました。
ー 子どもの肉が食われているのを。
わたくしは、一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々には嘲笑されながら、不死の(道を)体得しました。
(二二一)
墓場というのは、遺体をただ捨てておく場所のことを言っています。そこでは、鳥や獣が集まってきて、遺体の肉を食らう、その恐ろしさが描かれています。
わたくしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る(道)を実修しました。
(二二二)
八つの実践法とは、八正道(はっしょうどう)のことです。
以下の八つです。
正しい見解
正しい思い
正しいことば
正しい行為
正しい生活
正しい努力
正しい念想
正しい精神統一
次です。
わたくしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました。
すでに、わたくしは、(煩悩の)矢を折り、重い荷をおろし、なすべきことをなしおえました。と、キサー・ゴータミー長老尼は、心がすっかり解脱して、この詩句を唱えた。
(二二三)
涅槃(ねはん)(ニルヴァーナ)の境地に達したことを意味しています。
煩悩は身に刺さるので、矢に例えられます。(*)
次は、チャンダーさんの告白です。
わたくしは、以前には、困窮していました。
夫を亡(うしな)い、子なく、朋友も親もなく、衣食も得られませんでした。
鉢と杖とを取って、わたくしは、家から家へと食物を乞いながら、寒暑に悩まされつつ七ヵ年の間、遍歴しました。
ときに、或る尼僧が飲食物を受けているのを見て、わたくしは近づいて言いました。
ー 「わたくしは家をすてて出家し遍歴しているのです」と。
かのパターチャーラー尼は、哀れんで、わたくしを(ブッダの教団において)出家させてくださいました。
それから、わたくしを教えさとして、最高の目的(の獲得)に向かって励ましてくださいました。
(一二二 ー 一二五)
ここには、中村さんの解説は一切ありません。最高の目的の獲得とは、悟りを得ること、輪廻転生から解脱することでしょうね。
また、長くなりましたので、ここで区切ります。
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(*)・涅槃~ねはん~①すべての煩悩を滅却した悟りの境地。
②死ぬこと。特に釈迦の死。入滅。入寂(にゅうじゃく)。
ここでは、①の意。
・煩悩~ぼんのう~心身を悩ます一切の妄念。
・妄念~もうねん~仏教語で迷いの心。迷妄の執念。妄執。
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①追記: 2020/11/26 12:55
②追記: 2024/04/13 18:22
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。