おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

190_原仏12ー4

前回 ( 189_原仏12ー3 - おぶなより ) の続きです。

中村元著_原始仏典_ちくま学芸文庫

①露の団姫(つゆのまるこ)著_団姫流 お釈迦さま物語_春秋社

ひろさちや著_釈迦_春秋社

以下は、上記 3 つの本にかかわらせて書きます(という割には、大したことが書けないので申し訳ないですが、なにぶん、力不足なのでご容赦をお願い致します)。

まず、チュンダが出した食物についてです。

③ と ① は、経典、殊に漢訳経典によるのでしょう。
キノコとして、話をすすめています。

ところが、② は違うのです。

スーカラ・マッダヴァ を食して、

と経典にあるといい、スーカラは野豚で、マッダヴァは柔らかい意味だ、よって、それは柔らかい豚肉料理だとされるのです。

漢訳仏典が、厄介にも、栴壇耳(せんだんじ。栴壇樹に生えた茸(きのこ) )と訳した、とされているのです。

そのために、お釈迦さんの最後に食べた食物が、豚肉料理か茸料理かで議論されているというのです。

インド仏教では、出家者の肉食はいけないと言っても、日本や中国とは違い、見・聞・疑の三肉以外なら、食べるのはいいらしい。(*1)

なので、肉料理が出された可能性はあるので、これも含めてなのでしょう、議論されているらしいのです。

私は、こうした話を読むと、ますます、大部の経典は、かえって人を惑わすように思えてならないんですよ。

ちょっとしたことで、解釈がわかれ、いつまでたっても決着がつかない。

それこそ、毒矢のたとえ、を適用したらどうですか、と思わされてしまう。

しかも、そのために細部がまた、細かく話がわかれていたりする。

仮に、仏教が、唯一無二の絶対の素晴らしい教えであるとするなら、少しでも広まるべきでしょう?

こうした解釈で、いつまでも議論していたり、中観や唯識の理屈にこだわっていたら、広まるのは難しいのではないですか。

これまで中村さんの本を見てきた内容からだけでも、お釈迦さんは(肉体)人間を(神様の分霊を宿す器として)差別しないこと、そして、頼ってくる人の求めに応じて、尽くせるだけ尽くす、しかも 45 年間もの間、この世の命尽きるまで、という姿勢を見せているではないですか。(*2)

難しい理屈のお話をするよりも、現代では難しい、厳しい戒律や修行の実践をする(一般人には、ほぼ不可能なのではないでしょうか。座禅や瞑想ももちろんいいのでしょうが、かなり深くやり込む必要があるのでは?)よりも、お釈迦さんの生き方を参考に、そこから始めたほうがいいのではないですかね。

現代の霊性が開発されていない人が圧倒的多数を占めると思われる状況の私達では、まず、滅多に悟りを得ることができず、従って、あまたの過去世からたまっている業想念を浄め去り、超能力をそなえることができない以上、大部の経典は明らかにもて余してしまいますよ。

業想念を浄め去り、肉体を持ちながら、神体、霊体そのままの想いや行いができるようになる、こうした超能力がそなわれば、大部の経典も、結果として、同時に神様のみ心に沿った正しい見方ができるようになる(解釈がわかれたり、迷ったりすることがなくなるはず)し、取捨選択すべきところがあれば自然に淘汰もなされるだろうし、軽々と読めるようにもなると思うんですけどね。(*3)

経典が大好きで、好きで好きで、浴びるように読む人ならいいのでしょうが、大蔵経を見て下さい。

漢文形式で、しかもあのとてつもない分量ですよ。

これは、一度、大きな本屋さんで、お手にとってご覧になれば、わかります。

翻訳したとしても、解釈がわかれて、分量が膨大であることには変わりがない。

この後に、中村さんの本の、
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第一章 ブッダのことばー「スッタニパータ」 (2)
の、
一 真理について
に出てくるように、人間、特に悟りを開けず、霊性の高くない肉体人間は、自分の考えが正しいと言い張りがちであり、しかも、なかなか主張を引っ込めることはなく争いがちであり、論敵を非難して、蔑(さげす)みがちである、という習性(?)があるからです。

こうした執着も、結局は、人間=肉体である、の肉体人間観に起因してはじまっているように思うんですよ。

私達、肉体人間は、神様の霊光が本質なのだから、本来から言えば、みんな、兄弟姉妹、同胞です。

しかし、肉体に個別に入り、わかれた、肉体こそが人間であると、肉体を持つようになってしまったために、本来ならなかった付与された自己保存の本能が、輪廻転生を通して染み込んでしまい、各々が別個の存在であると固く思うようになってしまった。

そこに、起因している、と。

日本人と違って、外国人のように(?)、議論をたたかわせても、議論は議論として切り離し、個人の人格否定にまでは至らないにしても、やはり、理屈先行というきらいは否めない。

ちょっと忘れてしまって正確に思い出せないのですが、五井先生(昭和の宗教家の五井昌久さん)の本に、神様のみ心に沿った想いと行いは、いかなる深く広い知識をも凌駕する(超える)、とする内容がありました。

浄土門妙好人、例えば宇右衛門(うえもん)さんのような行いが、まさにこれで、祈りによって、想いの世界を浄めながら、紆余曲折を経ても、地道に少しずつ霊性を向上させていくやり方が、一番、無理がないように思えるんですけどね。

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(*1)見・聞・疑の三肉とは、以下のことをいうそうです。

出家者が食べてはいけない肉料理

・見る~その動物が殺される現場を見たとき

・聞く~「あなたのためにこの動物を殺しましたよ」と聞かされたとき

・疑う~周囲の状況から考えて自分のために動物が殺されたと疑われるとき

(*2)このように人を差別しないということは、人間は誰しも、その人の中に神様の分霊があること、神性をそなえていることを見いだしているからだ、とも言える。

肉体という器の中の本体を崇(あが)めている、尊重している、と。

だから、各々の神性を尊重するゆえに、差別なんかはもっての他、ということになる。

ただ、実際には、過去世からの因縁によってケンカや、深刻な対立といった、お互いを損ない合うような厳しい因縁が多々あるので、そう簡単にはいかない。

よほど霊性が開発された人でなければ、なかなか、あらゆる人、特に業想念にまみれた因縁の深い人に神性を見いだすことは難しいでしょうね。

中村さんの本をはじめ、お釈迦さんに関する本を読んでいても、肉体人間の本体は、神様の分霊(わけみたま)であること、だから、肉体人間おのおのには、老若男女の違いを問わず、すべての人に神性がそなわっていることを明言しているところはない(今まで個人的に読んできた範囲では)。

強いて言えば、仏性なのかもしれないが。

しかし、彼の人々に対するあり方を見ていると、こうとらえているとしか思えませんね。

山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)は、言い換えれば、すべてのものは、神様があらわしたものだ、だから、どんな個体でも、液体でも、気体でも、目に見えない電波でも、想いでも、あらゆるものは、神様の命があらわしたものだ、と解釈できる。

ただ、この目に見える肉体世界では、神様の命そのもののわかれを頂いている、肉体人間だけは、特別で、万物の霊長としての存在としての地位を与えられている、ということになるでしょうね。

ということは。

私達肉体人間は、いずれは過去世の因縁を清算をして、神様のみ心をあらわす肉体人間として磨きあげられるまで、修行(=輪廻転生による過去世の因縁、特に負の因縁の清算)をしていかなければならない、輪廻転生を巡らなければならないことになりますね。

(*3)仏教には、性経典(?)や終末経典(?)もあるみたいなので、本当によくわかりません。

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①追記: 2020/12/03 13:03
②追記: 2024/04/13 22:30
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。