前回 ( 190_原仏12ー4 - おぶなより ) の続きです。
今回は、チュンダには関係がなく、まつわる話でもありません。
ただ、中村さんの本 ( ③中村元著_原始仏典_ちくま学芸文庫 ) に関連して最近買った以下の2冊、
①露の団姫(つゆのまるこ)著_団姫流 お釈迦さま物語_春秋社
②ひろさちや著_釈迦_春秋社
の、② の、ひろさんの本で、気になったことが、いくつかあるので、書きます。
アングリマーラに関して書いてあることについてです。
アングリマーラとは、本名アヒンサカ、バラモンの子で、お釈迦さんの弟子になった人です。
ひろさんの本の書き方、内容には忠実にはなりませんが、以下、また私なりに勝手にまとめて書かせて頂きます。
ご了承下さい。
アヒンサカが師匠について学んでいる中、彼は師匠の妻(以下、妻と略)から夫の目を盗んで性的に誘惑される。しかし、彼は真面目な青年だったので、これを拒んだ(ひろさんは、この誘惑されたところから彼が美男子(=超イケメン)だったであろうと推定している)。
夫(アヒンサカの師匠)にこの誘惑の事実を報告され、自分の夫を裏切る、やましい行為が露見するのを恐れた妻は、アヒンサカが自分を無理矢理強姦(レイプ)しようとした、と夫に告げ、先手を打って身の保身をはかる。
それを真に受けた、アヒンサカの師匠は、怒り狂い、アヒンサカにとんでもない命令を下すのである。
お前は百人の人を殺して、その指を 1 本ずつ切り取り、それで首輪を作れ。その首飾りが出来上がれば、お前の修行は完成とする、と。
当然、アヒンサカは拒むが、師匠の命令は絶対だとされ、何と彼はそれを実行するのである。
妻の讒言と師匠の洞察力の欠如と非人間性から、アヒンサカは殺人鬼になってしまったのだ。
インドでは、花を連ねて作る首飾りを鬘(まん)といい、それを指で作ったので、漢訳では、指鬘(しまん)とされる。これが、アングリマーラである。
これで、アヒンサカは、アングリマーラと呼ばれるようになった。
アングリマーラは、99 人を殺し終え、あと一人、となったところで、お釈迦さんが 100 人目の犠牲者として、自ら出向き、説得して、弟子にさせた話となっている。
弟子となったアングリマーラは、托鉢に出ることになる。
当然、彼に供養する者はいない。ないどころか、非難の嵐が彼を襲うのだ。
身内を殺された多数の被害者の家族親類はいうに及ばず、托鉢する彼に礫(つぶて)が、どこからともなく、投げつけられるのだ。
これは仕方ないだろう。99 人もの人を自分勝手な都合で殺した、信じられない超重大罪を犯しているのだから。
当時のインドの法制度がどうなっているのかはわからないが、たとえ、すぐに殺した人間の残された家族や親類縁者になぶり殺しにされても文句は言えないはずだ。
彼はくる日もくる日も、血みどろになって、托鉢から帰ってきたそうだ。
よく殺されなかったと思う。
もちろん、鉢はずっと空のままだ。
はじめは、お釈迦さんは黙って様子を見ていたが、しばらくして、アングリマーラに、こう言ったそうだ。
「アングリマーラよ、耐えるのだよ。
じっと耐えなさい。
そなたがここで逃げるなら、そなたのつくった業の報いは来世にまで及ぶ。
そなたは、ここで、そなたのつくった業をしっかりと精算しておかねばならない」
これについて、ひろさんは、おおよそ、こう結論づけている。
私達はしっかりと学ばねばならない。
私達は逃げてはならない。過酷な現実からも、他人の非難からも。逃げて一時しのぎはできても、逃れることはできないからだ。
インド人は、来世を視野に入れ、現世(今生)で逃げても、業の報いは避けられないと考えた。
われわれ現代日本人は、こんな考え方はできないが、業の報いは確実にくると考えるべきだろう。
自分で作った業は、しっかりと自分で精算する。それがお釈迦さんの教えであったのだ、と。
以上が、前置きになります。
かなり長くなってしまいましたが、今回はこのまま続けます。ご了承下さい。
(1) 美男・美女と業について
ひろさんは、美女であることは、業であるとする。
この場合には、アヒンサカが美男子であったために、妻の誘惑を引き出したのだから、美男であることが、悪く作用した。だから、この場合、美男は善業ではなく、悪業だと。
私はこれは違うと思う。
美男・美女といった、美しい容姿は、それなりの過去世からのよき裏付けがなければ、獲得できない、と考えている。
法則だからだ。
つまり、神様のみ心に沿った、真善美と愛に適う、過去世における、美しく、やさしい想いと行いという裏づけがなければ、今生にやさしく美しい顔や容姿に生まれつくことはできない、と。
個人的には、元々の神体を映した美しい容姿を、輪廻転生を通して落とし、また、よき行いによって取り返してきたと考えているが。
それはともかく。
ましてや、ひろさんの言われるように、一つの脚本、因縁の果たされ方のために、それだけのために、一足飛びに美男・美女となることは、あり得ないと考える。
美男・美女となっているのは、複雑多岐をきわめる因縁因果の脚本の中の組み合わせの一部になっているだけで、その元の因縁、獲得される理由は変わらない。
そう考えています。
だから、輪廻転生を通したほんの一部の因縁、いわば、脚本の中の周辺事情によって、善業だ、悪業だ、と変えるのは、相対きわまるものであり、単なる唯物論に見えるのですよ。
つまり、輪廻転生を通した因縁因果の大きな脚本のためには、因縁因果の法則、因果律を部分的に破ることを認めているように見えるのです。
(2) アヒンサカについて
彼は真面目な青年だとされるが、それにしても、あの殺人はひどすぎる。
逃げるなり、破門になるなり、他に手はなかったのか。
少なくとも、一人、二人と殺人を重ねるうちに、引き返す気持ちになったことは、いくらでもあったはずだ。
100 人という、いかにも説話に好まれそうなキリのよい人数ではなくても、一人だけでも重大罪である。
そんな理不尽で暴虐な命令を下す師匠なら見切りをつけて去る選択肢はなかったのか。
そこで、悩みに悩んで、すぐにお釈迦さんに救いを求めにい行く手もあったのではないか。
説話(作り話)とは言わない。
しかし、100 人だとか、ギリギリの100 人目にお釈迦さんがあらわれるとか、疑い深い立場からみると、脚色されているような話に思えて仕方がないのだ。
あまりにもひどくむごい話なので、教訓話として受け入れるには、拒否的な気持ちになってしまうからです。
はっきり言って、説話としても、納得できないし、嫌悪感を抱かざるを得ない。
恐怖支配の絶対服従の奴隷制度で、しかも命令を聞かなければ、自分が殺されるなら、殺人に走ることも起きるかもしれない。
しかし・・・。
考えられる可能性としては、アヒンサカが、その過去世において、今生殺した人達に殺されていた事実があることになるが、それにしても、99 回もの人生で(今生殺した人達から)殺されていなければならないことになる。
こんな滅茶苦茶でバカげたことが果たしてあり得るのか?
たった 1 回の殺人でさえも大事(おおごと)のはずなのに、 99 回も殺された過去世を持つなんて、あまりにも常軌を逸していて、輪廻転生に存在する因縁因果としては荒唐無稽だと思わざるを得ない。
ましてや、現代の戦争のような大量殺戮兵器があるの時代とは違い、2500 年も昔の話である。
100 人を殺めていくとすれば、一人一人を順に殺めていくとしか考えられない。
どんな過去世があるにせよ、そんなとんでもない行為を継続していくこと自体を信じたくもないし、説話としても、創作話としても、どうしても受け入れられない。
唯一、かろうじて納得できるとすれば、アヒンサカが過去世で、今生殺した人達に 99 回殺されていた事実があった場合だけだ。
だから、私は、アヒンサカが今生どんな目に遭おうとも、残された被害者の親族になぶり殺しにされようとも、納得できない話で、この話には嫌悪感を抱いて仕方がないんですよ。
彼の犯した罪は、石の礫を投げつけられて、血まみれになるくらいでは、到底、あがなえる罪状ではないとしか思えないからです。
お釈迦さんなら、他人の過去世のすべてを見通すことができただろうから、アヒンサカの過去世の概要もすべてがわかってはいたのだろうが、それにしても、この話(はたまた説話か創作かはわからないが)嫌で嫌で仕方がない。
(3) アングリマーラの罪のあがないについて
お釈迦さんの言葉から判断する限り、アングリマーラの殺人は、彼の過去世の因縁の発現(つまり、現世で殺した被害者に、彼が過去世で殺されていた)ではない、とも読める。
現世(今生)で、新たに犯した超重大罪を、今の形であがなうのだ、と諭(さと)しているようにも読み取れるからだ。
しかし、繰り返しになるが、現世で新たに作った悪い因縁である殺人が、しかも 99 人もの大量殺人が、超重大罪が、あの程度であがなわれるものであろうか。
一部や部分的ならあるように思えるのだが。
ひろさんは、しっかりと精算するととらえているようだが、アングリマーラの場合は、あれだけでしっかりとなるのだろうか。
これが本当によくわからないし、納得できない。
(4) 韓非子の話と輪廻転生
ちょっと、本もどこかにしまい込んで、だいたいにしか覚えていないのだが、ご了承下さい。
ある国に王様と妃(きさき)と側室が何人もいました。
その側室達の話です。
ある深い寵愛を受けていた側室( A とします)に、さらに自分を間違いなく脅かす、若くて美しい女性( B とします)が加わりました。
A は、B を奸計に陥れ、排除することを画策します。
A は、普段から何かと親切に B に接しながら、王様の強い怒りを買う態度を、わざと正反対に王様が喜ぶ態度だからと教えます。
そのアドバイスを真に受けた B は、A の奸計にはまり、王様の不興と激しい怒りを買い、訳のわからないまま、殺されてしまうのです。
しかし、韓非は、A を非難することはしません。あくまでも、状況から自らの危機を嗅ぎ付け、身を守らなければならない考え方をとるからです。
これが唯物論です。
これが、唯物論のきわめつけであり、行きつく先なのです。
自分と周辺、切羽つまれば、自分だけの利害得失計算を最優先して立ち回ることに、行きつくのです。
現世の中だけで、どんなに道徳を説こうが、説教をしようが、人間はギリギリまで追い詰められれば、このケースのように、そんなものは消し飛んでしまうのではないだろうか。
ましてや、過去世からの因縁で定まる因果は、守護霊さんのお浄めやお救いがなければ、この世にあらわれてきてしまうのだ。
だから、業の報いは輪廻転生をめぐることもあるから、現世では受け止めよう、と曖昧にするのではなくて、あまたの過去世、現世、来世以降と、因縁因果は輪廻転生を通して巡るものである、とはっきりさせた方がいいのではないか、と思いますね。
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・讒言~ざんげん~人をおとしいれるために、事実を曲げて悪(あ)しざまに告げること。
・礫~つぶて~投げるための小石。また、投げつけられた小石。
・暴虐~ぼうぎゃく~むごたらしくひどいやり方で人を苦しめること。また、そのさま。
・説話~せつわ~語られた話。物語。特に、神話・伝説・民話など、人々の間に語り伝えられた話。
・奸計~かんけい~悪だくみ。
・不興~ふきょう~①おもしろくないこと。しらけること。また、そのさま。
(用例)不興をかこつ。
②目上の人の機嫌をそこねること。また、そのさま。
(用例)不興を買う。
ここでは、②の意。
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①追記: 2024/04/14 08:02
②追記: 2024/04/14 08:08
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。