Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
一 真理について
二 慈悲について
三 解脱について
四 幸福について
前回までは、一 真理について で、今回から、二 慈悲について になります。
二 慈悲について
慈悲とは、手もとの国語辞典によると、
①あわれみ、深い愛の心を持つこと。
②仏教語~仏・菩薩(ぼさつ)が人々を慈しみ、楽を与え苦しみを取り去ること。
とあります。また、
あわれむ(哀れむ、憐れむ)、とは、
かわいそうだと思う。同情する。
(用例)同病相哀れむ。
とあります。
中村さんによると、釈迦の教えを一貫する精神は、人々に対する暖かい気持ち、人々の身になって考える気持ちで、これが世の中を明るく保ち、なだらかにするもので、これが仏教の慈悲だとされています。
国語辞典とちょっと違いますね。
それはともかく。
慈しみとは、パーリ語ではメッターといい、本当の、真実の友人関係で築かれる純粋な心構えといった意味合いだそうです。
悲は、同じくパーリ語でカルナーで、あわれむという意味で、悲しむとも読み、人様とともに悲しみ、心を一つにすることとされています。
慈も悲も本質は同じだから、一つの熟語として慈悲という、としています。
簡単に言うと、「愛の形の純粋なもの」だそうです。
これ、一言にすると、自他一体感じゃないですか?
人様の喜びも、悲しみも、ともにわがものとして、感じること。
心身ともに、人様の身になって、感じて、考え、行動すること。
その中の、悲しみを分かち合い、思いやりを持って、温かく接していくこと。
これが、慈悲と言えるんじゃないですかね?
私達肉体人間は、主としてあまたの過去世の真善美に悖る因縁を果たすために、あがない、清算をするためにこの世に来ている。
中には、過去世において、人々の大犠牲になったり、多大に尽くしたり、甚大な貢献をしたりして、ご褒美(ごほうび)のような人生を送る人もいるかもしれない。
しかし、基本は、あくまでも、霊魂魄磨き、汚れ落とし。
各々の置かれた立場や容姿や才能などの境遇は違っていても、神様の命のわかれとして、本来は兄弟姉妹の同胞だから、いとおしみ、愛し合い、尊重し合う。
肉体人間としてさまざまなあり方は違っていても、お互いがこの世に来ている修行者同士。
袖(そで)振り合うのは、過去世のかかわり、過去世の因縁。
元を遡(さかの)れば同胞なのだから、やさしく、いたわりあい、愛し合ってやって行きましょう。
どんなに、対立して、厳しく、つらい因縁が立ちはだかろうとも、といったところじゃないですかね?
ただし、そのためには、肉体人間としてわかれた形を超えた、自他一体感を感得していくための、霊性の開発それ自体が、どうしても必要になってくるけれど・・・。
で。
中村さんは、スッタニパータ第一章第八節の慈悲について書かれた部分を紹介しています。
なお、南アジアの人々はいつもこれをパーリ語で唱えているとしています(この中村さんの本の内容が書かれたのは、1987年)。
当時のスリランカでは、毎朝5:30から宗教放送がされ、この聖典を読んでいたそうです。
以下です。
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
能力あり、直(なお)く正しく言葉やさしく、柔和で思い上がることのないものであらねばならない。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が鎮(しず)まり、聡明で昂(たか)ぶることなく、諸々の人のうちで貪(むさぼ)ることがない。
(一四三ー一四四)
「直く」は、国語辞典には出ていなかった。
漢和辞典によると、まっすぐ。正しい。素直。
「直くする」は、同じく漢和辞典によると、まっすぐにする。のばす。正しくする、となっている。
多分、素直の意味でしょうね。
正しく、は突き詰めると、神様のみ心に沿っている、となるのでしょうね。
真善美に悖らない。
肉体人間としての他者をいたずらに痛めたり、損ねたりすることがない。
元は、本質は同胞として、愛を持って接する。
やさしく、穏やかに、いたわりあい、信じ合い、尊重し合う、といったところですかね。
そうするためには、きたない言葉は使えない。
言葉を発するには、その前提として、想いがあるから、まずは、この想いを乱さず、穏やかに平らなものにしておかなければなりませんね。
従って、柔和(性質や表情がやさしく穏やかなことやさま)で、思い上がる(実際よりも自分を偉いと思う。うぬぼれる)ことのない態度は、あるべき形になりますね。
なので、だいぶ前に何回も触れた、ゴブチ、傲慢、侮蔑、嘲笑は、当然に、忌避すべき、避けるべきもの、となります。
昂ぶる(国語辞典では、昂るとなっている。)は、
①気分が高まる。興奮する。
②偉そうにする。横柄に振る舞う。
なので、②の意味合いでしょうね。
で、大まかに言ってしまうと、こうした心持ちで暮らす、生きていくためには、贅沢三昧をしすぎないようにする、となるでしょうね(もちろん、因縁から様々なものを消費して、経済を回していく役目の人もいるのかもしれませんが・・・)。
そのためには、ものを不必要に、必要以上に求めず、持ちすぎず、必要十分に抑える、満ち足りることと、過度に貪らないこと、が必要になってくるんでしょうね。
次は、慈悲の精神ですが、長くなりましたので、ここで区切ります。
ご了承願います。
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今さらですが。
ウィキペディアより
・パーリ語
パーリ語(パーリご、Pāḷi、巴利語、略して巴語)は、南伝上座部仏教の経典(『パーリ語経典』)で主に使用される言語。
バーリ語とも。
なお日本における仏教関連の辞典や書物では pl などと略称される。
パーリ語 [Pāḷi]
話される国
スリランカ, ミャンマー, タイ, カンボジア, ラオス, ベトナム, インド, ネパール, バングラデシュ
地域
インドと南アジア・東南アジアの諸国
古代中西部インドにおけるアーリヤ系言語、プラークリット(俗語)を代表する言語である。
使用歴は長く、パーリ語で書かれた偈の歴史は紀元前3世紀頃まで遡る。
プラークリットの中でも最も古い言語の一つである。
パーリ語で書かれた上座部仏教経典の散文やその注釈は、5-6世紀以後にまで及び、その後も今日までスリランカ(セイロン島)を中心として、パーリ語を使用した新しい文献がある。
上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、巴: Theravāda、梵:Sthaviravāda、泰: เถรวาท, thěeráwâat、英: Theravada Buddhism)は仏教の分類のひとつで「長老派」を意味しており、現存する最古の仏教の宗派である。
上座仏教、テーラワーダ仏教(テーラヴァーダ仏教)。
上座部仏教は、南伝仏教とも呼ばれ、パーリ語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいう。