おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

204_原仏12ー17

前回 ( 203_原仏12ー16 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
一 真理について
二 慈悲について
三 解脱について
四 幸福について

四 幸福について の続きになります。

なお、便宜上、
本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。
また、私の文を (B) と記します。
あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。

施与(せよ)と、理法にかなった行いと、親族を愛し護(まも)ることと、非難を受けない行為、
ー これがこよなき幸せである。

(二六三)

(A) 施与というのは、贈与といってもいいのですが、人に何かを与えることです。

(B) 人様にものを与える。

中村さんのいうところの贈与が何を示しているかわかりませんが、贈与とは、国語辞典によると、
①金銭や品物などを贈り与えること。
②(法律用語)自分の財産を無償で相手に与える契約。
とあります。
ここでは、①の意味合いでしょうね。

今は、お歳暮の季節ですよね。

ものが、こうした贈り物なのか、それとも、目に見えない気持ちといったものなのががはっきりとはわかりませんが、とりあえず、贈り物とします。

贈り物をするためには、当然に、ものを選び、決めて、購入する資金を用意して、なおかつ、支払い、配送するならば、それなりの手続きを踏まなければなりませんよね。

これは、現代のようなネットショッピングが盛んなご時世でもかわりません。

まずは、先立つものがなければならない。

お金ですね。

当然、お金を用意できる環境が必要です。

そして、直(じか)にでも、ネットでも、手続きができること自体が、また、条件を必要とします。

デパートまでいく、すなわち、電車でも、自動車でも、身体をデパートまで運べること、さらに、見ること、聞くこと、話すこと、書くこと、判断すること、そして、ネットならば、パソコンやスマートフォンそれ自体を持つこと、また、これらを使いこなす身体と能力を備えていなければなりません。

そして、贈り物をするのですから、それなりの相手も必要です。

それには、あらかじめ、何らかの人間関係も築かれていなければなりません。

与えることが幸せ=贈り物ができることが幸せ。

これを考えただけでも、かなりの環境が整っていないと、そもそも、贈り物さえもできないのです。

与えることが幸せであることは、すなわち、与える環境が整っていて、まずは、ありがたいのですね。

次に、贈り物をして、相手方から喜ばれる感謝の気持ちをもらえれば、または、はっきりと目に見える形の返礼がなくとも、相手方が喜んでさえくれれば、それだけでも、贈り物をした甲斐がありますよね。

従って、贈り物ができること一つをとってみても、ありがたいことが、たくさんある。

だから、幸せだ、と言えますね。

これは、このスッタニパータの書かれた古(いにしえ)の昔でも、基本は変わらないと思います。

理法にかなった行い、とは、おそらくお釈迦さんの時代ならば、ダルマ(法)に沿った行い、ということでしょうね。

現代的にいえば、少し範囲が広がるかもしれませんが、真善美に悖らない、真善美にかなっている、神様のみ心にかなっている行い、と言えるでしょうね。

親族を守ること。

家族を大切にして、親類縁者もよきに接していく。彼(彼女)らに困ったことがあれば、無条件に助けて支援を惜しまない。

また、このようにできる境涯があること自体がありがたい。

だから、幸せなんですね。

非難を受けない行為。

これが何を意味しているのか、今一つわかりませんが、例えば、人様を傷つけたり、困らせたりすることによってしか、生きていけない人がいたならば。

こうしたことをしなくても、平穏に生きていける。それだけでもありがたい。

だから、幸せ。

これらをみてくると、そもそも、幸せを感じるための前提条件として、それなりの環境が整っていることが必須であることがわかります。

この環境は、ありとあらゆる人が無条件に備えているものではないから、ありがたい、そうそうあるものではない、有り難い、ものであるのですね。

このありがたい環境の上に、幸せが成り立っているのですね。

しかも、このありがたい環境に関しては、慣れっこになってしまって、まったく意識にのぼらない、半ば当然のものになってしまっていると、ありがたさを忘れがちになります。

この当たり前のことが、不意に、何らかの理由で失われる、それも半ば恒久的に、となると、ああ、あれはなんてありがたいことだったんだ、と涙する場面すらも出てくるかもしれません。

まあ、必ずしも、苦労すること、つらい思いをすることが、人様に対する暖かい思いやりや配慮につながるとは限らない場合もあり得ます。

俺は、散々、蔑(さげす)まれ、辛酸を嘗(な)めて、人の裏の裏まで見尽くして来たんだ、絶対にあんな境遇には戻りたくないし、もっと這(は)い上がってやるんだ、と思っている方も世の中にはおられるかもしれません。

しかし、こうした人にも、ふとした折に、神様の光を感じて、心が洗われる、暖かくなる、ともに涙することもあるものと、個人的には信じています。

私達肉体人間は、神様の分霊(わけみたま)を頂いて生きているのだから。

生かされているのだから。

どんなに業想念が厚くても、深くても。

神様の一筋の光、かすかな光はきっと通ることがある、と思っています。

五井先生(昭和の宗教家、五井昌久さん)は、確か、あらゆることに感謝できれば、かなりのものとお書きになっていたと思いますが、感謝は大事な行為なんですね。

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・必須~ひっす~必ず要(い)ること。なくてはならないこと。

・辛酸~しんさん~つらく苦しいこと。苦い思い。

・辛酸を嘗める~つらく苦しい経験をする。

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①追記: 2020/12/11 12:50
②追記: 2020/12/14 06:51
③追記: 2024/04/15 04:38
④追記: 2024/04/15 04:59
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。