おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

205_原仏12ー18

204_原仏12ー17 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
一 真理について
二 慈悲について
三 解脱について
四 幸福について

四 幸福について の続きになります。

なお、便宜上、
本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。
また、私の文を(B)と記します。
あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。

悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、 ー これがこよなき幸せである。

(二六四)

(A)飲酒をつつしみということ、これは、インドは特に熱い国なので、飲酒は余計に体に響くことから言われたものです。

(B)悪をやめること、悪をはなれること、これは望ましいことなのでしょうし、好ましいことなのでしょう。

私達肉体人間は、神様の分霊を本体とする以上、真なるもの、善なるもの、美なるもの、が自ずと好ましいのだし、求めていくものですから。

これまで少し見てきた釈迦のあり方も、自力で悟りを開いていく、(法然さん以降の言い方ならば)聖道門のやり方ですよね。

そして、彼は、最後の方に、アーナンダに語ったように、自分と法(人間のなすべき理。実践すべき理法。ダルマ)をより所に精進していきなさい、としていました。

ただ。

肉体人間には、過去世からためてきた、神様の子としてはふさわしくない真善美に悖る想念とこれにもとづく行為(以下、業想念と略)があります。

このあがないが、償いが、原則として、この世(現世)なら、来世以降にあらわれてくる。

病気、争い、貧乏、苦労のような形をとって。

釈迦の時代には、たえ忍ぶか、厳しい戒律にもとづく生活や瞑想や奉仕などで、少しでも真善美に悖らない想念と行為をなすことによって、以降の悪い因縁を消滅させ、過去世からの真善美に悖る因縁の清算もできたのかもしれません(ここのところがよくわかりません。五井先生にお伺いできればいいのですが、かなり前(1980年)に逝去されておられるために、お答え頂くことは叶いませんので)。

個人的に考えているのは、悪をやめる、あるいは、悪を離れることは、この世の現時点での意志で、必ずしも可能になるとは思っていません。過去世からの因縁を果たす立場にある場合には、悪を行わざるを得なくなるからです。

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行で、お浄めを頂き、悪行為が出てくるのを消して頂かなければ、この世にあらわれてくると考えられるからです。

例えば、ごく簡単な事例で、二人の男性間の暴力を考えてみます。

今から何世か前の過去世において、AがBを身勝手に訳もなく殴ったとします。

すると、後世で、まったく別の名前で輪廻転生を経て再び巡りあったAとBは、まったく逆の形になるのです。

もちろん、特別に霊性の高い人や、人を導く使命を帯びて神通力を備えている場合を除き、二人にはお互いに何世か前の過去世であったことの記憶は消されているので、そんなことがあったなどとは、まったくわかりません。

この場合、現世で、この世で、AはBに何のいわれもなく、殴られるはめになるのです。

この世の現象的に見れば、ただ単にBが悪い男で、Aがかわいそうな被害者にしかなりません。

Aは、ただただ、Bがとんでもなく悪い人間で、自分は何でこんな目に遭わされるのか、と憤慨することになります。

こうしたことが、過去世の因縁、特に真善美に悖る想念と行為のあがない、償いとしてあらわれてくるのです。

肉体人間は神様の分霊を頂いている、神様の子です。従って、身勝手に人様を殴るなどの真善美に悖る行為はあってはならないもの、許されないものとして、消し去られなければならなくなるのです。

神様の子として、あるべき姿を違(たが)えてしまったら、神様の子としてふさわしい形に、直さなければならなくなるのです。

肉体をまとって、この物質世界を、やがては神様の世界にするために、自己保存の本能や生殖の本能などのやや排他的な本能を便宜的に追加付与されても、本体が本質が神様である以上、業想念は、その存在が許されず、消滅させられることになるのです。

それが、上記のような清算の形をとってあらわれてくる。

これが今までに何回も書いてきた、過去世の因縁の、現世で時を経て消えてゆく姿です(五井先生は、消えてゆく姿、の一言で済ませています)。

これは、法則なので、どうしようもないのです。

ただ、何でもかんでも法則通りになってしまうと、肉体人間の積んできた果てしない業想念のために、この世は、不幸の嵐、災難の嵐、戦争の嵐、天変地異の嵐で、地球さんが滅んでしまう。

そこまではいかない場合でも、本来、神様の姿をこの世にあらわすために遣(つか)わされたはずの肉体人間全体が、人類そのものが、滅亡してしまう。

それを防ぐために、人類を法則に乗せる、軌道に乗せるべく、影に日向(ひなた)に、あるときは、支え、あるときは浄め、あるときは肉体人間に、この世的に、どれほどつらいものでも、どれほど苦しいものでも、因縁を受けさせる、果たさせる。

これが、救済の神様としての、守護霊さんと守護神さんのお役目になっている。

これが、おおよその輪廻転生にまつわる、因縁因果の展開の形だと考えられます。

もちろん、だからといって、悪い想念と行為をすすめているわけではありません。

因縁因果の法則があるからといっても、真善美に悖る好ましくない想念と行為を、一応理解したからには、自由放任されるはずもないからです。

ですから、自分が悪をなしたい、しそうになって、その自覚があるのならば、極力行わないで下さい。

ご自分の意志で食い止めることができるのであれば、食い止めて下さい。

ただ、この押し込めて抑圧した業想念は、幽界である潜在意識下に入っただけなので、いずれまた縁に触れれば、後々のいつの日にか、あらわれてきてしまうことになります。

ですから、これを未然に防ぎ、相手Aの過去世の悪因縁を消すためにも、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をして頂きたいんですよね。

もちろん、場合によっては、守護霊さんと守護神さんのご判断によっては、避けられず、受けなければならない、あがない、償いもあるかもしれません。

ですが、少しでも、この世にあらわれるあがない、償いを減らして、神様の世界をあらわすことを早める方が好ましいことには違いないですよね。

まあ、こうした次第で、自力でも、自分の現在の意志で、(可能な限り全力で)悪をやめて、悪を離れることは、必要だと思います。

飲酒も徳行も、これを応用して考えれば、いいのではないか、と考えます。

ちなみに、大酒飲みや、酒乱といった人達には、生前果たせなかった、あるいは、果たし尽くせなかった迷った霊魂の憑依現象とされることがありますが、やはり、これも憑依される側に誘因としての因縁や想念の著しい乱れがあるために起こされる現象だと考えられます。

やはり、こうしたことをなくして、神様の子としてふさわしい形に直していくためにも、世界平和の祈りと守護神さんと守護神さんへの感謝行をして、業想念を浄めて頂きたいと切に願います。

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・徳行~とっこう~①道徳にかなった正しい立派な行い。
②徳と行い。品性と行為。
ここでは、①の意。

・聖道門~しょうどうもん~聖道門(しょうどうもん)は、「浄土門(じょうどもん)」に対する語。

様々な修行を通して、自力によって成仏することを説く宗旨のこと。

法然(ほうねん)は、道綽(どうしゃく)の『安楽集』に「聖道」と「往生浄土」の2種の勝法が説かれたことを受け、『選択本願念仏集』(『選択集』)にて用いられた言葉である。

Wikipediaより

なお、聖道門を自力門あるいは難行道、浄土門を他力門あるいは易行道のようにいうこともある。

・成仏~じょうぶつ~①(仏教語)悟りを開いて仏陀ブッダ。覚者)になること。
②死んで仏になること。死ぬこと。
ここでは、①の意。

・ゆるがせ~忽せ~注意もはらわず、いい加減にしておくこと。おろそか。なおざり。
(用例)ゆるがせにできない問題。

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①追記: 200/12/12 06:10 〜訂正内容〜

ゆるがせの意味を追記しました。

②追記: 2020/12/14 06:54 〜訂正内容〜

本文中の文の書き分け表記を、旧来のものから、本の内容と解説を(A)、私の文を(B)に改めました。