Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第一章 ブッダのことば ー スッタニパータ (2)
の次、
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
一 「ダンマパダ」の成立とその意義
二 「ダンマパダ」のことば
の
二 「ダンマパダ」のことば からになります。
この部分は、約 40 ページほどと長いので、中村さんのつけた小見出しに従って、見ていく形にしたいと思います。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。
ー 最初のことば ー
(A) ダンマパダには、難しい仏教語というのはあまり出てこず、非常に優しい言葉が使われています。そして、色々の教えが述べられていますが、その一つ一つが、我々の心の琴線に響くものがあるのです。
第 一 章の最初のことばを 6 つほど詩の形でご紹介しましょう(段落分けなどの改変あり)。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚(けが)れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
ー 車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
ー 影がそのからだから離れないように。
(一 ー 二)
(A) つまり影はいつでも人の後についていきますが、そのようなものだというのです。
物理的に、外形的に見れば同じような行為でも、それを行った人の心が清らかであるか、汚れたものであったかということによって、その意義がまるで違ってくるというのです。
例えば、人に何かを諭(さと)す時に、諭すという行為は同じようなものでも、相手を怒ったような気持ちで言うのと、相手のためを思って言うのとでは、自ずから意義が違ってきます。そういうことを反省せよ、というのです。
(B) 私達肉体人間は、( 想念 → 行為 )の順で、物事を行います。
まずは、その想いが、真善美に悖らない(=神様のみ心に適(かな)う)か否かが問題になります。
悖るものならば、神様の光がこの世(現界)まで、素直にきれいに通らないよう妨げてしまった訳ですから、それは修正されなければなりません。
肉体人間は神様の分霊(わけみたま)を宿した神様の子です。神様の子として、ふさわしくない、あってはならない真善美に悖る想いと行為は、直して、たださなければなりません。
それが、病気、争い、貧乏、苦労のあがない、償いをすることで、清算する形で、なされていきます。
ただし、その大半が、現世で行った想念と行為のあがないならば、来世以降に持ちこす、という、隔世を隔てた、私達肉体人間には非常にわかりにくい形をとってなされます。
バチが当たるだの、ブーメランだの、といったわかりやすい形は(特定の場合を除き)ほとんどありません。
汚れた想いと行為は、真善美に悖るのですから、苦しみ、いわゆる、病、争、貧、苦の形をとったあがないをしなければならなくなる。つまり、苦しみがつき従うことになる訳です。
逆に、真善美に悖らないものは、神様のみ心に適うので、良い形でこの世にあらわれるので、何ら問題がない、好ましいものとなります。
要は、因縁因果の法則ですね。善因は善果を結び、悪因は悪果を結ぶ。
この (一 ー 二) の文言だけでは、このような因果応報が隔世を意識した内容なのかどうかがはっきりしません。
仮に、隔世を意識していないにせよ、このように自らを戒めながら、想いと行いに気をつけていれば、少なくとも、病、争、貧、苦のあがない、苦しみである悪果が主に来世以降に生じてくるのを避けることにはなりますね(その想いと行為だけに限っては)。
一方、真善美に悖る想いを抱きながら、表面上は、真善美に悖らない行いをしたらどうなるか。
これは、一方で、自分(の神様の分霊、自分の神性)を偽ってもいるし、他方で、人様を、いわば騙している訳ですから、二重に、真善美に悖っています。
従って、そのあがないとして、いずれ苦しくつらいものが、控えることになります。
だから、偽っても、良いことがないどころか、余計に苦しむ羽目になるのです。
次です。
「彼はわれを罵(ののし)った。
彼は、われを害した。
彼は、われにうち勝った。
彼は、われから強奪(ごうだつ)した」
という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
(三)
(A) あいつはこういうことをしやがったな、けしからんと思っている間は、心にわだかまりがあるし、それが相手に伝わり、向こうもまた仕返しをしようとする。
結局怨みが息むことがありません。
ところが、
「彼は、われを罵った。
彼は、われを害した。
彼はわれにうち勝った。
彼は、われから強奪した」
という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
(四)
(A) というのです。相手がけしからんことをした、と気にかけている間はこちらにもわだかまりがありますが、こちらがそれを忘れてしまえば、自ずとわだかまりが消えてしまうのです。
(B) 以下、彼は私を罵ったなどを彼は私を害したとまとめて表すものとします。
彼が私を害したことが、過去世の因縁のあらわれである、すなわち、私が過去世において彼を害したあがないとしてあらわれてきたものであるならば、私が何らその輪廻転生を通した経緯をわからなければ、この世での私は被害者意識しか持たないことになり、彼を憎み、恨むことになる。
想いというのは、大変なもので、こうした憎みや恨みによる想いも、浄めるなりで消し去ることができない限り、短い時間か長い時間かを経て、いずれは私の彼を害する行為となってあらわれてきてしまう。
そうして、私が彼を害すれば、また、反対に、彼も私を憎み恨む、となり、悪い循環過程に入ってしまうことになる。
ドツボにはまってしまう訳です。
だから、恨みがやむことはない、と。
他方、私が彼に害されたことが、過去世の因縁の発現である、すなわち、過去世で私が彼を害したことのお返しだと理解できていれば、(過去世の記憶が消し去られているために原因がわからないから)不本意ながらも何とか受け入れて(浄めとなる祈りと感謝があればもっと良い)、憎んだり、恨んだりしなければ、とりあえず、因縁因果は完結して、悪循環に向かうことだけは回避できる。
だから、とりあえずは、恨みがやむ、と。
これを、過去世の因縁の発現だと理解して、南無阿弥陀仏の祈りとともに、(阿弥陀様が自分の業想念を浄めてみ仏の子供としてお救い下さったと)感謝で受け入れていた、宗教の達人が、源左さんや宇右衛門さんの妙好人と呼ばれた人達です。
中村さんは、忘れればわだかまりが消えるとしているが、これは違うのではありませんか。
そんなに簡単に、身に覚えのない、いわれのない(過去世の記憶が消されていてるために、過去世の因縁によるなどとは思いもせず、また、因縁因果の法則も納得できないなどで)被害を許せるものではないでしょう。
簡単に忘れるなど、よほど修養を積んでできた人間でない限り、そう簡単にはできないからです。
反撃はできなくとも、恨み心だけは残ってしまうと、また、いずれこれが具現化されれば、また、同じことの繰り返しになる。
そうなると・・・。
とりあえずは、理不尽なことがあっても、耐え忍ぶこと、で因果応報を完結させることですかね・・・。
ただし、やはり簡単には納得できなかったり、と、なかなか平穏ではいられないのが普通だと思うので、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすることで、浄めて頂くことで、因縁をきれいに消し去ってしまうことが望ましいと思います。
五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)によると、この世に起きてくるかなり(大半)のことは過去世の因縁に端を発しているとのことで、しかも、この世で起きたことの、何が過去世の因縁の発現で、何がこの世で新たに起こしたものかは、特別な霊感のない私達には、判別することはできないようなんですよ。
判別できればいいのに・・・。
これも、神様の深い深いお考えがあってのことなら、仕方がないけれど。
これまでをも考え合わせると、やはり、祈りと感謝行をしておくのが、まずは無難ですね。
次です。
実にこの世においては、怨みに報(むく)いるに怨みを以(もっ)てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
(五)
(A) これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもっている発言です。
ここで思い出すのは、第二次世界大戦の後で講和条約が締結され、世界の諸国はわが国に賠償を要求したのですが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しましたが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、この法句経の言葉を引いているのです。
なぜか。その時のスリランカの政府首脳達は、仏典のこの文句を引いていました。
「戦いは終わったのだ。
もはや怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。
この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。
(A) ですからこの教えは今日に至るまで、南アジアの人々の心に暖かい気持ちを起こさせているのです。この精神は今後の世界に生かされるべきでありましょう。
(B) 因縁因果、特に、世をまたいだ因縁因果をまったく理解していないと、争い事などで最悪の場合には、復讐だ、敵討ちだ、捲土重来だ、との繰り返しになってしまい、悪循環に陥ることになる。
私が先に上記で書いたことと同じで、因縁因果を完結させないと、悪循環に終止符を打てなくなってしまうことを言っていますね。
だいぶ前に書いたのですが、「恨みに報いるに徳を以てす」というのがあります。
老子の報怨以徳です。これに対となる(?)孔子の以徳報怨=雪辱しろ、義に則って復讐せよ、とはまったく違いますけど。
老子の報怨以徳まで至ることができれば、上徳になるのかもしれません。
だって、過去世の因縁を解消したばかりではなくて、善因のない善果までほどこすのですから。
スキがなさすぎますよね。
さすが老子様。
レベルが違う。
次です。
「われらは、この世において死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
ー このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。
(六)
(A) 世の中に争いは絶えません。文明が進歩しても依然として争いは絶えません。
これは昔とあまり違いませんが、ここで考えて見ましょう。
やがてはあの人も死ぬし、私も死ぬものなんだ、そう思えば、この世に生きている命がある限り、仲良く楽しく暮らそうではないかと。
人々は自ずからそういう気持ちになるでしょう。
だからこの世の命が限られているものだと自覚することが、実は命をありがたく、楽しいものとして送っていくよすがになるのです。
その教えをここでは述べています。
そしてそういう気持ちを実際の生活に具現すること、体現すること、それが仏教の実践なのです。
(B) これを読んでいると・・・。
どうせみんな死ぬんだ、恨みっこなしだぜ。だから、どんな理不尽でも、堪え忍べよ。
ともとれないこともないような。
そんなにやりたい放題、好き勝手し放題の人を、人間は誰しもみんな死ぬんだ、どうせあの人もいつかは死ぬんだから、と簡単に見過ごして許そうぜ、となれるものでしょうか。
難しいと思いますけど。
傍観者として想いを平穏に保つだけでも、難しいと思いますよ。
やはり、自分の心を平穏に保つためにも、そして、自分勝手なこまったさんの悪因縁が早く消えますようにと、祈りとともにお浄めをする、祈りと感謝行が必要なのではないでしょうか。
まあ。
どうせみんなこの世に修行に出された罪悪深重の凡夫同士、いろいろ、軋轢もあるかもしれないけれど、まあ、ひとつよろしくお願いしますよ。
肉体人間の命は、せいぜい数十年、ガタガタ言わず、良しなにやっていきましょうや、ならば少しはわかる気がするんですけど・・・。
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・悖る~もとる~道理にそむく。反する。
(用例)理に悖る。人の道に悖る行為。
・琴線~きんせん~①心の糸。
②(比喩的に)人間の心の奥にある感じやすい微妙な心情。
(用例)琴線に触れる(=感動を与える)。
ここでは、②の意。
・福楽~字引載っておらず。
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①追記: 2020/12/19 22:09
②追記: 2024/04/16 02:32
③追記: 2024/04/16 03:08
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。