おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

217_原仏13ー6

前回 ( 216_原仏13ー5 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば

になります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(以下、段落分けなどの改変あり)。

この身は泡沫(うたかた)のごとくであると知り、
かげろうのようなはかない本性のものであると、
悟ったならば、
悪魔の花の矢を断ち切って、
死王に見られないところへ行くであろう。

(四五ー四六)

(A) この身は誰でも、生きている間は堅固なものであると、そう思ってあてにしている訳ですが、考えてみればはかないものです。

泡沫のごとく、かげろうのようなものである、とそう悟ったならば、悪魔の誘惑の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くというのです。

死王というのは、悪魔のことです。悪魔は元の言葉ではマーラと言って殺す者という意味です。だから死王というのと同じことです。

(B) 中村さんの解説のこの文脈で見る限り、悪魔は肉体人間に死をもたらす存在だと読めます。

ただ、悪魔の誘惑とは何か、悪魔の誘惑の花とは何か、悪魔の誘惑の花の矢とは何か、がわかりません。

仮にたとえだとしても、何らかの説明が欲しいところです。

経典にしても、ただ、死のことを対比に出したいだけならば、あんな回りくどいたとえはやめ、もっと誰にも素直にわかりやすい書き方にすべきだとさえ感じます。

人間=肉体人間である。

この肉体人間観が抜きがたくあるからこそ、古(いにしえ)の修行者からしても、厳しい修行で身体を痛めつけたのではありませんか。

肉体人間観があれば、どうしたって五感にまつわる欲望にとらわれ、想いも乱れて、人間とは、肉体ではない、霊そのものをいうのだ、なんて、わかりませんよ。

これが心身ともに感得できているのは悟れた人だけ。

あとは、程度の差こそあれ、誰でも我が身の保身に固執して、その拡大を欲することに執着するのが当たり前だからです。

自己保身の本能を付与され、数限りない輪廻転生を通して、人間=肉体人間だ、としみついている(だから、死ぬのがこわい)。

そんな簡単に、泡沫のように消え、かげろうのようにはかないものだ、何て思えるはずがありませんよ。

そんな斜に構えて、達観できるはずがない。

これを克服した人は、人間は神様の分霊(わけみたま)こそが、本来の人間であり、永遠の生命があると理解して、肉体は仮にこの世に姿をあらわしているものにすぎない、と感得できない限り、わからないからです。

その感得に至るまでには、どうしたって、自力にしろ、他力にしろ、相当な修行を積まないと、とても無理ですよ。

ただ、字面だけを見て、あるいは聞いて、ふーん、でわかるほど、生易しいものではないはずですけどね。

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追記: 2024/04/16 12:34
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。