前回 ( 218_原仏13ー7 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば
になります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー 愚かな者 ー
(A) 続いて 第 五 章 には「愚かな者」についての詩が集められています。
漢訳の法句経では「愚暗品(ぐあんぼん)」となっています。
眠れない人には夜は長く、
疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚か者どもには、生死の道のりは長い。
(六〇)
(A) これも、当たっていますね。
我々の生活についてみると、眠れない時には夜は長いし、疲れている時には少しの道のりでもつらいものです。
正しい真理を知らない愚か者には、生まれ、死ぬという迷いの道は、もっと長いというのです。
(B) あまり、文句は言いたくないんです。業想念になるから。
裁いたり、責めたりしたくないんです。
原文のせいなのか、訳のせいなのかわかりませんが、ども、とはどういうお心づもりなのでしょうか?
明らかに、見下して差別した感覚があるのではありませんか?
自分たちは真理を知っているから賢い、もっと言えば、偉いんだぞ、ですね、これは。
こうした態度に安易に同調してしまうと、霊性の低い人を見下す、もっと言えば、バカにしたり、蔑んだりする恐れが出てくると考えられるんですよ。
私はそれがきわめて危ういと思う。
偉くなればなるほど、下座につき、慢心しないように気をつけないと、業想念まみれの、未だ悟りを得られない肉体人間の人達では、堕落してしまう可能性が高いんです。
もしも、私が五井先生の本に出会えなかったら、このまま普通に読んでこの経文に同調していたと思います。
俺の方がまだマシだ、何だ、あんな愚かな者は、のようにする想念と行為に何の問題意識も抱かないも、と。
あいつがダメだ、のように責めたり、裁いたりするのは、基本的に業想念になってしまうんですよ。
裁きたいのは、やまやまでも、できるだけ、祈りに切り替える。
あるいは、他山の石として、自らへの戒めとして、その人の天命がまっとうすることを祈る。
そうしないと、危なっかしくてしょうがない気がするんですよ。
以下、私ならここで書かれている愚かな者を霊性のかなり低い人と言い換えることにします。
次です。
「私には子がある。
私には財がある」
といって愚かな者は悩む。
しかし自分がすでに自分のものではない。
況(いわ)んやどうして子が
自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
(六二)
ここに書かれている解説はかなり長いので、私の判断でいくつかに分けます。
その前に。
この経典の表現だけでは、あらっぽくて、内容が特定できません。
なので、勝手ながら、以下の仮定を立て、そのような意味合いだとして見ます。
自分に子供がいて悩むとはどういうことか?
これは、自分が子供に望むこと通りにならない、言うことを聞かない、とします。
財産があって悩むとはどういうことか?
財産があればあるで、失われることを心配しなくてはならない。あれば生活水準が満たされることが多いが、減ることには、常に注意を向け心配していなければならないからです。
よって、子供も財産も、それぞれに自分の願望を思い描き、その思い通りにしたいと執着しても、うまくいかない、という意味だとします。
(Aー1) 我々人間は、自己に固執していますが、単に我という自我意識だけではなく、わがものという我執もあります。
具体的にいうと、家族、例えば子供というものは人が一番愛するものですね。
また財というものは世間の人が非常に尊ぶもの、大事にするものですが、だからこそこれは自分のものだといって主張する訳なのでしょうが、しかし考えてみると、自分の子供が成長するというのも、何も自分一人の力で大きくなった訳ではないのです。
子供に備わった力もありましょうし、それに世の中の大勢の人が助けて、心がけて育(はぐく)んでくれたからこそ大きくなった訳でしょう。
また財産とかあるいは地位というようなものも、自分一人で得たものではない訳です。
この社会の中に生きて、人々に助けられ、協力を得て、それによって得たものですから、自分が生きている間、お預かりしているというようなものです。
こういう反省はかえって真の我を認めることになるのです。
(Bー1) 中村さんのこの理屈の立て方は、子供にしろ、財産にしろ、まわりの環境のお陰様をわずかでもこうむっているものは、それを他の一つのある主体が、使用・収益・処分などを行う、個別の権利が成立しなくなる、としているように見えます。
逆に言えば、まわりの環境のお陰様をこうむってさえいなければ、ある一つの主体が使用・収益・処分することもかまわない、ともとれる。
おそらく、縁起になぞらえて、お考えになったのでしょう。
しかし。
人が、赤ちゃんから、子供、そして徐々に青年に向かって成長していくのも、この一事、そもそもからしてが、摩訶不思議なることではありませんか?
肉体人間でも、動物でも、植物でも生まれたら、必ず成長していきます。段々と姿を変えながら。
この力の源は、どこから来るのか、と考えたら、やっぱり、神様しかないんですよ。
神様のお力の働きかけ。
みんな神様の命を吹き込まれ、その神様の命の力で成長していくとしか、考えられないんですよ。
動物にしろ植物にしろ、固有に与えられた器に、神様の命をあらわしながら、段々に成長していく。
こう考えてくると、すべては神様のものなのです。
成長するための命も、器も、まわりのありとあらゆる環境も、すべては神様が作り出したとしたら、命からはじまって、すべては神様のもの。
それを肉体に入って、俺だ、成長するのも俺の力だ、財産を獲得するための考える力から始まる各種の能力もすべて俺のものだ、だから、得た財産もすべて俺のものだ、だから、俺が、所有・使用・収益・処分するのは当たり前だ、何が悪い?とするのは、おかしくはありませんか?
傲慢ではありませんか?
すべて、命からはじまって、神様から与えられたものがなければ、何もできないんですよ。
何一つ。
だから、あえて、すべてのものの、所有・使用・収益・処分を独占的にする権利があるのは、神様しかいないのではありませんか?
こう考えてくれば、自分の子供、同じ神様からわかれて、別の器(肉体)に入っている別の人格の存在に対して、獲得した財産に対して、執着を起こし、意のままに操ろうとするのは、創造主・造物主である神様に対する越権行為にあたるのではありませんか?
すべて、神様のみ心のままに、ならば許されるし、認められるのでしょうけど。
ただ、ない・ない・ない、だけの無我ではない。
すべては神様の中にある。
神様のみ心の中にある。
だから、肉体人間に限定して、ああだこうだと執着を起こし、右往左往し、感情想念を乱すことは、神様のみ心から、外れれば、外れるほど、その修復が余儀なくされることになる。
そう思うんですけどね。
(Aー2) (一部 (Aー1 ) と重複します。なお内容の関連がなく削除可能と思われるところを省き、また、文章を一部詰め、あるいは改変します)こういう反省はかえって真の我を認めることになるのです。
真の自分というものは何かを探求するのが、原始仏教の課題あるいは目的といえるでしょう。
仏教、ことに原始仏教では決して我がないとはいっていません。これがアートマンだとか、これがわがものだとかといって執著(しゅうじゃく)してはいけない、とするのです。
つまり外に見る具体的な形のあるもの、そのどれもが自分ではない。
では本当の自分をどこに求めるかが、原始仏教の課題であり、そのため自己を求めることが非常に重要なテーマになっているのです。
(中略)
どこに求めるかですが、外の客観的な具体的なもの、これは何も真の自分ではない。
釈尊の臨終の説法がありますが、この世を去るにあたり、弟子達が「本当にさびしいことでございます。釈尊がお亡くなりになったら、私達はあと何を頼りに生きて行けばよいのでしょうか」と言った。
すると釈尊がそれに対して「自己に頼れ、法に頼れ、自己を燈明とせよ、法を燈明とせよ」と言ったというのです。
この法というのは、ダンマのことですが、義と訳しても、道と訳してもいい訳です。つまり人間が人間として、真の道にかなった実践をする。その主体性の中に真の自己がある訳なのです。だから自己に頼ることは、人として生きるべき道に頼るのと同じことだと思うのです。
仏教は無我説であるとよく言いますが、それは我執をなくすことです。
(Bー2) 以下の文章の意味がよくわかりません。
人間が真の道にかなった実践をする、その主体性の中に真の自己がある
そして、
原始仏教では、決してアートマンを否定しない、執着を離れよ、といっているだけだ、
としています。
何か、中村さんのお話も、かなり窮屈そうな感じがします。
こんなにまわりくどくしないで、神様、と一言でいってしまえばいいのに・・・。
と、力不足の私は思ってしまいますけどね。
よほど、仏教の唯物論解釈の力が強大なのでしょうか。
よくわかりませんけど。
(Aー3) (一部 (Aー2) と重複します。なお内容の関連がなく削除可能と思われるところを省き文章を一部詰め、あるいは改変します)仏教は無我説であるとよく言いますが、それは我執をなくすことです。
わがままなことをしてはいけない。
世間の人は、わがままなことをするのが自己確立や自己主張だと思っていますが、わがままは、こうしたい、ああしたいとチグハグに衝動的に思うだけで、統一的に考えず、その瞬間瞬間に勝手なことをする訳でしょう。
けれどもただ衝動に任せているのはいけないのです。
よく考えると、人間はそれぞれに生き方は違っていいはずですから、自分としてはこうあるべきだとする生き方を追求する、そこに仏教がある訳です。
その生き方はめいめいによって違う訳ですが、自分の判断で決める場合には、何か基づくものが必要です。それが法であり、ダンマであり、真理です。人間の道理なのです。
(Bー3) 我執→わがまま→衝動的な行動は不可→法に従え→それが仏教だ、ということでしょうか。
頼るのは自分であるが、その行動基準と判断基準は法なんだよ、ということでしょうか。
ー 愚かな者 ー
の途中ですが、また、長くなりましたので、ここで区切らせて頂きます。
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・アートマン
アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。
真我とも訳される。
ヒンドゥー教では世俗的な我意識のみを否定してニラートマン(無我)といい、自我意識のない純粋な実体としての真我を否定しないが、仏教は、永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配するような我の存在を否定して無我説を立てた。
・その他参照
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。
ウィキペディアより
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①追記: 2020/12/18 17:01
②追記: 2020/12/18 17:09
③追記: 2020/12/19 22:19
④追記: 2024/04/16 15:23
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。