前回 ( 223_原仏13ー12 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば
になります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー 老いについて ー
(A) その他、我々の胸をえぐるような鋭い言葉もあります。
第 一一 章は、老いることがテーマになっていますが、その最初の言葉は次のようなものです。
なぜ笑うのか、どうして喜ぶのか。
世はつねに燃えているのに。
あなた方は暗やみに蔽(おお)われているのに、
なぜ灯を求めないのか。
(一四六)
(A) (一部改変短縮訂正あり)こういう考え方は昔から日本にも知られていました。
後の経典、例えば法華経などを通じて伝えられましたが、三界火宅という言葉があります。
衆生の生存する三つの領域というか、世界というか、それは火のついている家のようなものだ。
人々は火のついた家の中にいる子供のようなものだが、その危険に気がつかない、と説かれています。
三界火宅という言葉は、わが国でも昔からいわれており、古典によく出てきます(例えば、三界無安、猶如火宅という法華経の句は、謡曲などにも引かれています)。
ただ三界火宅として私どもが受けとめると、何か古典的な、あるいは優雅なニュアンスがあって、遠い彼方(かなた(の事柄であるかのように思う虞(おそ)れがある訳です。
ところが、今読んだように、パーリ語の原典から今の現代の言葉に直して伝えると、「なぜ笑うのか、どうして喜ぶのか、世は燃えているのに」と非常に直(じか)に響いてくるのです。
我々はいつも追いまくられて暮らしています。終始危険に襲われている訳です。
それをたとえて、火がついている、燃えているという言葉を使ったのですが、そういわれると、確かに燃えている家の中にいるようなものです。
今のこの生活を考えてみると、いつどこから火がついて燃えたのかわからない。
また、今読んでみて、あなた方は暗やみに蔽われているのに、なぜ灯を求めないのか、とありましたが、考えてみると、私どもは暗やみの中に生きているようなものだと思うのです。
だから、光明を求めたい気持ちは皆ある訳ですが、その気持ちをまさに的確に表明している言葉だと思います。
(B) ちょっと、また、面倒くさいので、自己流に書かせて頂きます。
まず、大前提として、私達の家庭や社会生活が、日々、様々なものに追われ、しかも、肉体の制約から来る生老病死があるだけでなく、過去世の因縁のあらわれから、いつ病気、争い、貧乏、苦労が起きてくるかはわからないことがあるとします。
この基本は古(いにしえ)の昔でも変わりません。
そうなると、人間万事塞翁が馬ではないですが、何が起こるかは、まったくわからない訳です(未来を読み取ることができる特別な能力がない一般的な私達には)。
しかも、再三再四、書いて来ましたが、肉体人間として生まれて来ることは、基本的に修行です。
元の、大元の神様の分霊(わけみたま)としてふさわしい写し身となる肉体に進化していくために、魂の汚れ落としをしていかなければならないのです。
霊魂魄の汚れ落とし、あまたの過去世で行ってしまった、真善美に悖る想念と行為のあがない、償いをするために生まれてくるのです。
もちろん、過去世の貯金(真善美に悖らない想念と行為の蓄積のこと)から、比較的つつがなく平穏な人生を送られる方や、過去世の人様のための大犠牲や著しい貢献から、ご褒美のような人生を歩まれる方もいるかもしれません。
しかし、大半の方は、何かしら苦労を余儀なくされるようになっている。
しかも、つかの間の笑顔や喜びがあっても、いつ不幸災難が降りかかって来るのかは、まったくわからないのです。
従って、ただ、幸せを無邪気に謳歌するのではなくて、人生はいつどこでどんな急転直下の転落があるかはわからないととりあえずは心して、古(いにしえ)なら修行はできないまでも、良き修行者の生き方を参考にしながら徳を積むなり、謙虚に、おごらない人生を送るようにすることが、悪い因縁のこの世でのあらわれ=痛い目に遭う可能性を少しでも減らすよりどころとなる。
家族だって、修行の相方です。場合によっては、過去世からの厳しい因縁の解消のために、逃げられない固い絆を持った家族として生まれ合わせてくるかもしれないのです。
普通はみんな幸せをつかみたくて家族を作ろうとすると思います。しかし、過去世からの因縁がどうなっているのかは、(特別な人以外は)まったくわからないのです。
だから、今、ちょっと、楽しいから、嬉しいからと、のほほんと浮かれているのは、危なっかしくて仕方がないんだよ、と言っているように見えるんですよ。
中村さんが、暗やみに蔽われているのに、なぜ、灯りを求めないのか、というのは、
さしずめ、
こういった過去世の主として神様の真善美と愛に悖る想いと行いの報いとして悪いものがいずれ起きてくる
=暗やみに蔽われている、
のに、
なぜ、このような悪いものがいずれあらわれてくることを防ぐような、
いってみれば、神様のみ心の真善美と愛に悖らないよいことをしようと思わないのか、
人格の向上をはじめとした、
世のため人のために尽くす、
愛を施すようなことをしないのか、
と読み替えてもいいと考えます。
途中ですが、長くなりましたので、ここで区切らせて頂きます。
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・塞翁が馬~さいおうがうま~人生の幸・不幸は変化が多くて予測できないことのたとえ。人間万事塞翁が馬。
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①追記: 2020/12/20 15:00
②追記: 2024/04/16 21:48
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。