前回 ( 225_原仏13ー14 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば
になります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー 自らを尊ぶ立場 ー
(A) 第 一二 章は自己についての教えが述べられています。
もしもひとが
自己を愛(いと)しいものと知るならば、自己をよく守れ。
賢い人は、よると三つの区分の一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
先(ま)ず自分を正しくととのえ、
次いで他人を教えよ。
そうすれば賢明な人は、
煩(わず)わされて悩むことが無いであろう。
他人に教えるとおりに自分でも行え。
自分をよくととのえた人こそ、
他人をととのえるであろう。
自己は実に制し難い。
(一五七 ー 一五九)
(A) まず自分のことは自分で処理し、導かねばなりません。
(B) 自分を愛して、大事にするのであれば、まずは、自分を修めなければならない、という意味でしょうか。
自分のことをもかんがみて、その上で、人様に尽くせ、ということでしょうか。
次です。
自己こそ自分の主(あるじ)である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
(一六〇)
(A) これは元の聖典の言葉についていうと、自己とか自分はパーリ語でアッタンという言葉で表現されています。
自己が自分の主である。
自己と考えられているものの構造が露呈していると思われます。つまり我々はどうかすると、これこれのものが自分だと思っている。
それは必ずしもあるべき自分の姿を実現しているのではない。自分の本領を発揮させるところの自分はその奥にある。それこそ帰趨(よるべ)である。そういうことを説かれているかと思います。
その自己を整えるに関連してですが、社会人として活動しているめいめいの人は、第三者が見ると、員数の中の一人にすぎない訳なのです。
取り替えられる存在なのです。
けれども、そのめいめいの人にとってみると、これは絶対に他と取り替えることのできないものなのです。そして職場なら職場にいる一人の人を考えてみると、例えば会計係の方から見れば、それぞれの社員は俸給を渡す一人の人に過ぎない(今から約33年前の中村さんの記述)。
あるいは社長さんから見れば、使っている一人の人に過ぎないかもしれません。けれども、そこにおかれているその人は、その職場においてかけがえのない人なのです。その人でなければできないことが必ずあるはずです。そしてもしもその人が自分のおかれている立場での任務をなおざりにするなら、これは大変な間違いが起きる恐れもある訳です。その限りでも、絶対に取り替えることのできない人なのです。多かれ少なかれ、どの人でも、そうした他と取り替えることのできない独自なる自己があるのです。これを大切にすべきである。これは、同時にその社会性を具現することになる。これは同じ事柄の両面だと思います。
世間では、どうかすると自分が組織や社会の中に埋没してしまって、個性が失われるということがありますが、実は自己を確立することによって組織や社会のうちに調和することが可能なのです。
先に述べた、自己にたよれ、法にたよれ、というのも同じことです。自分にたよる、という意味は、実は自分を自分としてそこに意義あらしめている理(ことわり)というか、理法というか、それを重んずることなのです。決して矛盾するものではなく、同じものの両面である、そう解釈できると思います。
(B) すみませんが、また勝手に書かせて頂きます。
肉体人間の個人個人がこの世に生まれたということは、たぐいまれなる得難きこと。
仏教では人身受け難しともいいますからね。
どんなにわからなくても、神様は各々の人に必ず天命を授けている。
何度も書いてきたように、肉体人間は自分の力で生命活動を維持することはできないし、活動の源となる力も頂いているものだから。
そうした貴重なものをお与え下さったということは、神様がその人にそれなりの役割を期待してのもの、と解釈できることになるんです。
経済が厳しいご時世です。もしかしたら、その後も含めた天命が授けられている可能性も十分にあり得ます。
なので、各々の人が、与えられた環境の中で、神様から与えられた生命を生かすように考え、それぞれがそれなりに工夫しながら、できる限りの人間としてのまことを尽くすことが、精一杯、真善美と愛に悖らないようにして、なおかつ、結果として個人と社会の両立がはかられる、これが神様のみ心であると考えればいいのではないでしょうか。
もしかしたら、人生がつらく苦しいことばかりで、何もかも信じたくなくなることもあるかもしれません。
そうした場合には、人生を振り返る時でも、自分には厳しいなりにそれなりの天命があったのではないか、と考えてみることも意味があるのではないかと思うのですけれど。
やはり、私としては、世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行をして頂きたいと切に願います。
次です。
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、
自分ではない他人の目的の故に、
自分のつとめを捨て去ってはならぬ。
自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
(一六六)
(A) この詩の原文はパーリ語で書かれているのですが、この受け取り方は色々あると思います。
南方アジアの仏教徒の伝えた伝説によると、人のことに手出しをするな、まず自分の身を整えよというのです。
これは大変なことなんだ、人のことなんかかまわないで、まず自分を整えよ、と修行のみを強調する訳です。
ところで漢訳が二つありますが、その漢訳では、自分のつとめを重んぜよ、となっています。つとめという言葉を表へ出しています。多分に倫理的になる訳です。さらに社会性をもってくるということにもなるかと思います。
(B) 自分の生活と家族や近しい人をほったらかしにして、人様に尽くすのはダメだよ、ということなのでしょうか。
まずは、自分を整えてから、それから周辺に及ぼしていきなさい、と。
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(参考)
・寄る辺~よるべ~頼りにして身を寄せるところ。
(用例)寄る辺のない身。
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①追記: 2020/12/20 22:38
②追記: 2024/04/16 22:46
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。