今回の ( 233_原仏14ー1 ) は、
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2) ー 生きる心がまえ
からになります。
より詳しく言うと、
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第一章 ブッダのことば ー スッタニパータ(2)
の次、
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
の次、
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
一 生きる心がまえ
二 他とのかかわり
三 無我の境地
の
一 生きる心がまえ からになります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)サンユッタ・ニカーヤの中には、釈尊(お釈迦さんのこと。お釈迦さんの尊称)の生涯に関することと同時に、世の中に生きていくために必要な実践上の心がまえが説かれていて、非常に示唆に富みます。
ここでは、私達に感銘を与える言葉や物語を取り上げて、読んでいくことにしましょう。
(B) ここからは、また、便宜上、中村さんのつけた小見出しに沿って見ていくことにします。ご了承願います。
ー もの惜しみ ー
(B) お断りです。
すみません。ここから先はすべて書き直しになります。すでに公開していた文章のほとんどすべてを、不注意な操作ミスで誤って消してしまいました(バックアップもとっていませんでした)。
以下の文章は、従来とかなり違ってきてしまうかもしれませんが、書き直しになります。
もし、読んで下さった方がいらしたら、本当に申し訳ございませんでした。お詫びとともに訂正させて頂きます。
できるだけ記憶をたどり、同様に書くようにつとめます。
(A) 人はどうかすると物惜しみをしがちですが、むしろ積極的に人々に何物かを施し、与えて奉仕せよ、という精神が経典に述べられています。
或(あ)る時尊師は、(*1)
サーヴァッティー市のジェーダ林、
孤独なる人々に食を給する長者の園に
住しておられた。
(*1)尊師はお釈迦さんのことを指している。
(A) サーヴァッティー市とは、インド北方にあったコーサラ国という大国の首都で、郊外にジェーダ林という林の園がありました。
漢訳仏典ではしばしば「祇園」と訳されます。これは元の言葉では「ギダオン」(祇陀園)といい、祇陀とは、その国のジェーダという太子のことであり、祇園とは、その太子の持っていた園(林)という意味です。
そのジェーダ太子が持っていた祇園を、当時そこに住んでいたスダッタ長者という、サーヴァッティー市の第一のお金持ち長者が買い取って、釈迦の教団に寄進したのです。
その際の伝説があります。
ジェーダ太子はできるだけ高値で園を売りつけたくて、スダッタ長者から求められても、すぐには売らずに、この林の中に黄金の金貨を敷きつめるだけ持ってくれば譲ってもいい、としました。
すると、スダッタ長者は、本当に牛車に一杯に積んできて敷きつめて、その園を買い取り、釈迦の教団に寄進した、とされる話です。
スダッタ長者は、孤独なる人々、身寄りのない人々や貧しい人々に食物を施し与えることをすることで有名でした。そのため、孤独なる人々に食を給する長者という名前で呼ばれているのです。
そうして、そこに釈迦と弟子達は住んでいました。
そのとき多くのサトゥッラパ群神たちは、夜が更(ふ)けてから、容色うるわしく、ジェーダ林全体を照らして、尊師のもとにおもむいた。おもむいてから、尊師に挨拶(あいさつ)して、傍らに立った。
(A) サトゥッラパ群神たちがやってきた、というのですが、仏典の中には多くの神々が登場します。
仏教では、世界を創造した神というものは認めません。(*2)
(*2)中村さんは、同じ本(原始仏典)でこうした矛盾した記述をされているから、本当に困る。困惑する。下記参照。
けれど人間よりも優れた神々、目には見えないけれども不思議な力を持っている神々というものは認めるのです。
神の原語「デーヴァ」は、語源的にいいますと「輝くもの」という意味ですから、林をあまねく照らした訳です。
(B) 仏教は世界創造神を認めない・・・。
また、こうしたことを・・・。
Ⅰ 釈尊の生涯 第二章悪魔の誘惑 三梵天の懇請 のところで、梵天は世界創造の神とはっきり書いてあるじゃないですか。
他の著書では、梵天の釈迦の一般への布教の懇願をあったか、なかったか、曖昧(あいまい)にしたりと、首尾一貫していないんですよ。
中村さんの本ではありませんが、例えば、とある仏教の入門書では、悪魔のことを煩悩の象徴としています。
仏教の悪魔とは、絶対善(何ですかね、これ?)と対立する絶対悪の化身ではなく、煩悩の象徴としての存在としているのですよ。
そんな象徴が、恐ろしい形相をあらわして脅したり、美女にあらわれて誘惑したり、と姿をあらわしたり、人格を有する者のごとくに、姿をあらわし、声(叫び?)をあげて、お釈迦さんの悟りを妨げようとした、と言うんです。
妄想や空想の産物にしても、無理筋に過ぎるんじゃないですか。
こうした存在は、肉体だけは持たない霊的な存在、とした方がはるかに自然だし、理解に無理がない。
それに、唯物論者は、どう感じますかね。
彼らは、霊魂や神を信じないんですよ。
ただ、煩悩を、空想や想像を膨らませただけのお話を、まともに受け入れますかね。
こうしたことがあるから、お釈迦さんには霊魂を「無記」などとはせずに、証明はできないまでも、通り一遍の説明をしておいて欲しかったんですよ。
まあ、こうした経緯もすべて神様のみ心なら、仕方のないことなのかもしれませんが。
続きです。
傍らに立った或る神は、
尊師に向かって次の詩をとなえた。
ー 「物惜しみと怠惰とのゆえに、
このような施与はなされない。
功徳を望んで期待し道理を識別する人によって、
施与が為(な)されるのである。」
(A) 或(あ)る神とされていますが、これは実際の人が神のように敬われていて、神として表現されているのかもしれません。
(B) 神様の捉え方が、本当にはっきりしませんね。悪くいうと、行き当たりばったり的な感じもしなくはないです。
続きです。
(A) どうも人間は、物惜しみをする。また怠けて、人様を助けるために何かを差し上げることはしない。けれども本当の意味の功徳を目指す人、彼は道理を知っているが故に、施与(布施)を行う。
ここで施与という訳語を使いましたが、仏典ではしばしば布施という言葉を使います。
今日布施というと、お寺に差し上げるものを指す場合が多いのですが、元来は布(し)き施(ほどこ)すという意で、物を死蔵しておかず、人様に差し上げて、生かしてその功徳をあまねく及ぼすことなので布施というのです。
つまり、功徳を布して施す、という意味です。元の言葉ではダーナといい、与えるという意です。
英語のドネイト(donate)と語源的には同じです。この音写が日本の言葉に入り、旦那(だんな)は与える人(ダーナパティ)いうことからきています。
大体、世間でも旦那さんという時には、何かこう、喜んで物を施してくれる人にいうことが多い訳ですが、そこからきているのです。
(B) 道理を知っているから、布施をする。この意味は、もっと掘り下げないとわかりません。
何となくならいいんでしょうけど。
道理とは何ですか?
ご説明頂きたかったです。
世の中のものは、五感に感じることができるものも、そうでないものも、すべては神様の供給されたものでしょう。
そう考えると、神様がお与え下さったものならば、しかるべく、無駄なく有効に、すなわち、神様のみ心のままに、当意即妙に配分され、活用されるべきだ、との結論が導き出せます。
しかし、この世では、五感にまつわる欲にまみれた肉体人間が、自分だけ、自分を含めたごく近しい周辺だけのための欲望だけを果たそうと、あるいは、自分達だけの身の保身のために物の確保をはかろうと、与えられた資源や生産された物資を巡って、争奪することが基本的です。
力のある者が、既得権益のある者が、絶対優位に立つ、唯物論の世界です。
そこで、神様のみ心のままに、当意即妙に、資源や物資の配分をすることを考えたら、どうしても、世の中を構成する、かなりの人の霊性が開発されなければならないことになってきます。
もちろん、こんな世知辛い世の中ですから、与える、ギブのみは、大抵はいいものなのでしょう。
しかし、与えすぎがご本人のためにかえってよくない場合(放蕩息子さんなど)には、一呼吸おくべきですよね。
その判断も難しいことが多いから、その判断を適切に行うためにも、やはり、霊性の開発が不可欠になってくると思うんですよ。
それと、前にも書きましたけど、あげるときは、あげっぱなし。ギブのみ。
見返りは期待しない。
見返りを期待するのは、功利主義と一緒ですよ。
だから、見返りがないと、不愉快になるし、イライラすることにもつながる。
あげっぱなしの方が精神衛生上もいいし、業想念も生じないから、明らかにいい。
ただ、やはり、やみくもにあげまくるのは、ものの無駄遣いや相手方の迷惑になる場合もあり得るから、慎重に考えを巡らせるべきことにはなります。
やはり、その適切な配分のためには、霊性の開発が必要になる、と考えられるんですけどね。
次です。
そこで他の神が、尊師に対して次の詩をとなえた。
ー 「物惜しみする人は、
なにかのことを恐れて施与をしないのであるが、
そのことこそ、
施与をしない人にとって怖ろしいことなのである。」
(A) 何か心にわだかまりがあって、心配ごとがあるために、人に物をあげて生かすことをしない。そこに何か憂慮すべき点があるのではないか。
(B) 中村さんは、肉体人間の自らの保身のことを暗示しているのでしょう。古(いにしえ)なら現代よりもはるかに天変地異の影響を受けやすく、食料や生活物資の枯渇への不安材料が多かったでしょうから。冷蔵庫みたいな便利な保存用の家電も当然ありませんし。
次です。
「物惜しみする人が恐れるのは、
飢えと渇きであるが、
この世とかの世において、
それが愚人に触れる。
それ故に物惜しみの心を抑えて、
恐れに打ち克(か)って、施与をなせ。
功徳は来世における人々の足場となる」と。
(A) 現世は見えるだけの領域です。けれども我々はこの現世をこえた、非常に広い深い見通しの中に置かれている訳です。
功徳を積めば、自ずからその徳が我々の目に見えないところで生きてくる、そのことをいうのです。「徳孤ならず」と昔からいいますが、その通りです。
(B) 中村さんは、過去世、現世、来世以降と、人間の行い、当然、布施のような徳も巡るのだから、やっておいた方がより良い(ベターな)のだよ、好ましいのだよ、と言っているように感じます。
しかし。
それは、もちろん、そうなのですが、いいことが巡ってくる、自分も助けられることがあるかもしれないからと、行いをすること。
これは、厳密に言えば、功利主義ではありませんか。
もう、無為にして為(な)す。
ああだこうだ、考えない。はからない。
(巧利的な)計算をしない。
だだ、神様の子供として、神様の分霊(わけみたま)を本体とする者として、自然に与えるべきところは与え、そうでないものは控える。
すべては、神様のみ心のままに。
老子様のように無為にして為す、自然に神様の子供として好ましい行いが、(神様催しに)行われるようになる。
ここが、究極の目指すべき終着点だと思いますけど。
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中村さんの言う、徳孤ならずの徳孤は字引には出ていなかった。
漢和辞典の徳を引いたら、以下が出ていました。
徳不孤必有隣
とくはこならず、かならずとなりあり
人格者は孤立することなく、必ず共鳴者が現れるものである。
(論語・里仁)
ということだそうです(漢和辞典によると)。
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追記: 2024/04/18 01:41
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。