おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

234_原仏14ー2

前回 ( 233_原仏14ー1 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
 
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
一 生きる心がまえ からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー 施与の功徳 ー

つぎに、他の神が、尊師に対して、
次の詩をとなえた。
ー 「広野の旅の道連づれのごとく、
乏しきなかよりわかち与える人々は、
死せるものどものうちにあって滅びず。」

(B) また、文句ですが・・・。

「つぎに」がすぐ後に「次に」です。そのままの字句を尊重して書きはしますが、こういうのばっかりだと、意味さえ通じれば構わないんだから、いい加減、こっちの書き方(表記)で統一して書きたい、と思うようになってくる。

もしかしたら、誤植だったのかもしれないけれど・・・。

そして、また「ども」です。ども(接尾語)を字引で引くと。

①(名詞について)複数であることを表す。・・・たち。・・・ら。
(用例)男ども。
②(人をさす語について)相手に呼び掛ける語。
(用例)野郎ども。
③(特定の第一人称について)謙遜の意を表す。
(用例)私ども。

で、用法は、以下のようになっている。

(用法)②は、多く目下や見下す相手に用いる。

となっているのですよ。

見下す、なんです。

響きが悪くて、好ましくないな、と思っていたら、やっぱり、こういうことだったんですよ。

ここで、死せる者ども、とされる人達は、生前、さほど生活に余裕がない、厳し目の状況にありながらも、施しをした、そうした(経典作者さんが考えているであろう)好ましい人達ではなく、好ましくない人達ということで、こうした見下した、ある種の差別的な表現になっている訳ですね。

そう読み取れますよ。

アイツがダメだ、コイツがダメだ、というのは、裁きです。

真善美に悖る想念、業想念なんですよ。

この字句に同調して、好ましくないと感じる人達を、何だあんなヤツら、と捉えてしまったら、真善美に悖る(≒反する)想念である、業想念を生じることになってしまうんですよ。

もちろん、好ましい施しのあり方をすすめる、推奨するだけなら、まだいいのかもしれませんが、裁き出すのは、よろしくない、と思わざるを得ないんですよ。

本来なら、注意を払うべき事柄です。

なので。

以前にもありましたけど、「ども」の使用はどうにもふさわしくないように思えて仕方がない。

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)人生を考えると、本当に広野の旅の道連れのようなものです。

インドは日本と違い土地が荒れています。旅をしても、美しい森は割と少ない。林はありますが、その間が透(す)けて見える。

荒れ果てた印象を与えるところが多いのです。もちろん、アッサム地方や南インドのカルナータカ州などになると、雨量が多いので密林が茂っていますが(今から約33年前当時)、仏教が興(おこ)った当時の中インドは、どちらかというと荒れています。

そうした中を一人旅して行くのは、まことに寂しい。その場合に、道連れはありがたいもので、楽しいのです。どうかすると旅人は、強盗に襲われるということはよくあったのです。私(←中村さんのこと)も中央州(マディヤプラデーシ)の山奥を通って、ジャイナ教霊場へ詣(もう)でたことがありますが、着いたら人から言われました。

「あなたはあの危ない所を通って来たのか。あそこは強盗の出る名所だよ。」ですから、旅は容易ではない。ことにインドないし南アジアは、日本よりもはるかに広いのです。

そうした旅においては、「人々が乏しき中から分かち与える」ことが、何よりもありがたいことなのです。

こういう、人々の功徳は、滅びることがない。他のものは死んでしまうかもしれない。有意義な価値のあるものでも、生かされなければ、死んでしまう訳です。

けれども、人々がお互いに助け合って進むならば、その功徳は滅びないということです。

「これは、永遠の法である。」

(A) 永遠の法は、ヒンドゥー教でもいいますが、インド哲学では重要な観念です。つまり、人間の真理、理(ことわり)は限られたものであってはならない。人間がどこにいようとも、根本の精神はずっと続くものである。

それを「永遠の法である」というのです。

(B)ここで書かれている永遠の法は、真善美に悖らない、神様のみ心に適(かな)った(≒沿った)行いだから、いつ、いかなる場合でも、人として、行うべき、好ましい行為、と同じことを言っていると感じます。

だから、神様の愛に通じるところの(想念と)行為だから、永遠の命を持つ、好ましい行為だ、と。

神様の生命は永遠。その分霊(わけみたま)の生命も永遠。

従って、これに沿った愛に満ちた行為は、当然に永遠の生命を持つ、と言えることになりますからね。

次です。

「或る人々は、乏しき中からわかち与え、
或る人々は、豊かであっても与えない。」

(A) これは、今の日本についても、グサリと刺すような言葉ではないでしょうか。

(B)肉体人間は、五感にもとづく五欲にまみれ、自分に近しい者だけの保身と栄達をはかり、他人には無関心なのが普通でしょう。

これは、付与された自己保身の本能から、人間=肉体人間である、と輪廻転生を通して染み付いていることもあるので、ある程度はやむを得ないのでしょう。

浮き世も厳しいですから。

五井先生がご活躍されていた数十年前はわかりませんが、今の富める人々は、世界人類が平和でありますように、と心から思っている人は少ないのではないですか。

ましてや、一般の人ならともかく、富める人々には、妙好人のような人は、ほとんどいない、絶無に近いんじゃないですかね。

そんな気がするんですけど。

次です。

「乏しき中からわかち与えたならば、千倍にも等しいと量(はか)られる。」

(A) 自分は貧しいから、人のために何か上げたり奉仕したりすることはできない、という人がいるかもしれないけれども、その中から人に何かを差し上げ、人々を助けるというならば、その功徳は千倍もあると考えられる、というのです。

(B) 苦しい生活にあえぎながらも、同じく苦しい人々に愛を与える証として、物を分け与える。

これは、より、愛深き行いである、と言っているように感じます。

途中ですが、長くなりましたので、ここで区切らせて頂きます。ご了承願います。

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追記: 2024/04/18 02:07
〜訂正内容

本文を加筆・訂正しました。