おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

235_原仏14ー3

前回 ( 234_原仏14ー2 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2) ー 生きる心がまえ

からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を(B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー 施与の功徳 ー の続きになります。

ついで、他の神は、尊師(*)に対して、
次の詩をとなえた。
ー 「わかち難(がた)きものをわかち与え、
為(な)し難きことを為す人々に、
悪人はまねて行うことができない。」
(*)お釈迦さんのこと。

(A) どうも悪人というのは目が狭く、目に見えない世界にまで眼をゆきわたらせることをしません。

(B) 目(め)が狭く、眼(め)を、ですか。

中村さんがどのようなお心づもりがあってこのように書き分けていらっしゃるのか・・・。

訳がわかりません。

こんなのがありすぎですよ(悪いけど)。

なぜ、穏やかな人格者らしい大学者さんがこんなミス(?)、それとめ意味があっての書き分けをなさるの?

本当にわかりません。

不可解です。

ちなみに、字引(国語辞典)で悪人を引くと。

悪人~あくにん~よくない心をもった人。悪事をはたらく人。悪者。悪党。←→善人。

とあります。

そもそも、人間の本質が、本体が神様の分霊(わけみたま)であり、霊なる人間こそが、本当の人間なんだ、ととらえた場合には、悪人などは誰一人としていません。

みんな、真善美に悖らない(≒反しない)神様を、神様の愛とまことと勇気を体現している神様の子供を本質とする存在だからです。

しかし、現世、この世に肉体人間としてあらわれてくる場合、肉体人間としては、神様の世界を、この地球さんの上にあらわす、地球さんを開発するために、自己保存の本能や生殖の本能といった、いわば、排他的な本能を追加付与されたために、何世にもわたって、積み重ねてしまった、真善美に悖るところの、数限りない業想念を浄めるために、汚してしまった霊魂魄をきれいに直して、本来の霊なる人間が、そのまま、肉体人間としてあらわれるための修行をする身として生まれてくる。

なので、例外的な人を除き、ほとんどの人は、あまたの過去世において何らかの浄めを必要とする肉体人間として生まれてくる。

こうした中で、一般的に悪人とされる人は、この世で果たす悪い因縁がきわめて多い人になりますね。

世に言うところの、優しい人や、気のいい人、気の小さい人などは、良心のひっかかりもあって、人様を押し退けるような図々しい立ち居振舞いはできません。

ところが、悪人とされるような人達は、他人がどう思おうが何だろうが、自分勝手にどんどん、どんどんコトをすすめてしまいます。

いわば、人間=肉体人間なんだ、この俺様の利害得失を最大限に優先して、人様を押し退けようが、踏み潰そうが構わないような人、が典型的な悪人と言えますね。

だから、こうした人は、他人が貧しかろうが、苦しんでいようが、何だろうが、一向にお構いなしで、自分の身の保全と無縁なこと、例えば、ここにあるような、施しや、苦しい境遇にありながらも人様に対して、わかち与えることなどは、まったく眼中にない、従って、まったくやらない、となりますね。

人様の苦しみを目の当たりにして、良心の呵責(かしゃく)はあった(悪人を含めて誰しも必ずあります)としても、軽く吹き飛ばせるほどに、悪い因縁をもった人、業が深い人、となるでしょうね。

だから、施し、やわかち与えは、まずすることはない、となります(絶対とは言えませんが)。

次です。

「善き人々の法は、
従い行くこと難し。
それ故に、善人と悪人とは、
死後に異なったところにおもむく。
悪人は地獄におもむき、
善人は天上に生まれる。」

ついで、他の神は、尊師に向かって次のように言った。

ー 「尊師さま、
みごとにとなえられたのは、
だれの詩でしょうか?」

尊師いわく、
ー 「そなたらのどの詩も、
すべて、順次にみごとにとなえられた。
しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。
ー 落穂を拾って修行している人でも、
妻を養っている人でも
乏しき中からわかち与える人は、
法を実践することになるであろう。」

(A) 修行している人は経済活動から一切離れていますから、収入はない。

托鉢するか、落穂を拾う。

落穂を拾うというのは、田や畑から拾うのではなく、パーリ語で書かれた註釈文献を見ると、脱穀場などに残っているものを拾って暮らしている人ということです。

ですから非常に切ない、人間的な臭いのする表現です。また、妻を養っている人というのは世俗の人達のことです。

(B) 肉体人間が亡くなる時、肉体を脱ぎ捨てて、幽体、霊体をまとった神体に戻ると、いちばん外側(?)の幽体に従って、行く世界が異なるようです。

あまたの過去世からたまりにたまっている、真善美に悖る想い、その想いの世界にそのまま、向かうことになる。

人のことを押し退け、自分だけのことばかり最優先、そればかりか、世に言われる悪いことばかり想って行ってきた人は、その想いのある世界、悪い想いの満ちている幽界にそのまま向かうのでしょうね。

だから、悪い想いに満ちた想いのある世界、争いに満ちた想いの世界で、とりあえずは暮らすことになる。

神様なんかないんだ、人間は肉体人間だけなんだ、死んだら無になるんだ、と想っていれば、何もない、それこそ荒野の闇の暗い野原をどこまでもどこまでも歩き続ける、となるのでしょう。

こうした人達は、想いの癖が、しかも悪い癖が、あまたの輪廻転生で、染み込んでしまっているから、立ち直りは難しさをきわめるでしょうね。

そんな時に、子孫や生前の知人などが供養をしてくれると、神様の光が届き、少しずつではあっても、悪い想いの癖、真善美に悖る業想念をはがすことになり、神性に目覚めるきっかけになるのでしょう。

だから、気持ちを込めた供養にはちゃんと意味があるんです。

やはり、ここでも、一番望ましいのは、世界平和の祈りです。

世界人類のみならず、あらゆる、あまたの神様のあらわしたもののすべての世界の愛と調和を願う祈りだからです。

戻りますが、ここで、しばしば述べられている、貧しき、苦しき、乏しき中から、わかち与えることをすすめているのは、いかなる苦しい境遇に置かれようとも、同じように苦しい境遇にある人に想いを馳せ、愛の行い(ここでは、施しやわかち与えること)をすることは、人としてのあるべき姿だし、法にも則(のっと)っていますよ、ということなんでしょうね。

しかも、自分の生活に、身の回りのことに執着を起こしやすい、肉体人間としては、なかなかないこと=有り難いこと=ありがたいこと、だから、貴重だし、称賛されてしかるべき行為とされるのでしょうね。

次です。

「千の供犠をなす人の百千の供犠も、
そのような行いをなす人の(功徳の)
百分の一にも値しない。」

(A) 当時はまだ、バラモン教ヴェーダ聖典に基づいた祭祀の儀式を行っていました。

ことにお金持ちは、中々豪気なことをやるのです。盛大な祭祀を行う。

しかし、そのような盛大なお祭りをやるより、純な気持ちで他の人々のために分かち与えることのほうが尊い

その百分の一にも値しない、というのです。

そこで、他の神は尊師に対して、
次の詩をとなえた。

ー 「これらの供犠をなす人々の、
大がかりな豊かな祭祀は、
どうして、正しく(立派に)なされた
施与の百分の一にも値しないのですか?
千の供犠も、そのような施与をなす人々の(功徳の)百分の一にも値しないのは、なぜですか?」

そこで尊師は、
その神に向かって次の詩をとなえた。
ー 「或る人々は悪い行いになずんで、
ものを与える。
ー ひとを傷つけ、殺し、
また苦しめ悩まして。

そのような汚れた行い、
汚れた動機の贈与は、
涙にくれ、暴力をともない、
正しい施与には価しない。

同様に、
千の供犠をなす人々の千の供犠も、
そのような施与をなす人の(功徳の)
百分の一にも値しない」と。

(以上、サンユッタ・ニカーヤ 第 一 巻 一八 ー 一九ページ)

(A) 大がかりな供犠、祭祀を行っても、それは大して功徳がないというのです。

その具体的な内容は、バラモン教の祭りの時には牛・馬・羊など多くの獣を殺すのです。そして神々に捧げる。

費用も非常にかかるのですが、それは傷つける行為を含んでいるので、純粋なものではない。本当の施し、奉仕というものは、心が清らかでなければならない。

大乗仏教になると、特に強調することですが、人に何かを与える時には「三輪清浄」が必要になります。つまり施す主体と、施される相手と、その間に渡されるものと、その三つが清らかでなければなりません。

「俺がアイツにこういうことをしてやったのだ」というような思いがある時は、「俺」と「アイツ」と「こういうこと」の三つが滞っている訳です。

そうではなくて、そういうことを忘れた清らかな気持ちで人々に物を与え、奉仕すること、これがありがたいことだというのです。

(B) ちょっと、乱暴になりますが。

要は、形式ばかりにこだわり、中身が伴っていないものはダメだよ、と言っているように読めます。

なぜならば。

神様は目に見えるもの、目に見えないもの、さらに言えば、五感に感ずるもの、感じないものをはじめとして、ありとあらゆるものを提供して下さっている。

私達肉体人間は、神様の分霊(わけみたま)、神様の生命力がなければ、この肉体の生命活動を維持することができない(補助があってもなくても)。

肉体人間として生きていけないんです。

しかも。

肉体人間よ、対価をよこせ、とは、どこにも言っていないし、書いてもいない。

(神様は私達に)与えっぱなし。

そうじゃありませんか?

お前たちは、行いがなっていないから、自然を返せ、地球を返せ、などとは言われていない。

おそらく、ただひたすら望まれることは、神様の愛と調和に満ちた世界がこの地上にあらわれること。

そのための原資をすべて提供して下さっている。

従って、神様の愛と調和に満ちた世界に準じる、想いや行いは、当然に、神様のみ心に適(かな)うことになる。

肉体人間としては、過去世からの因縁により、どんなに違った形にあらわれてきていても、本体は、本質は、神様の霊光の兄弟姉妹、お互いに、相身互いは、あって当たり前のことになりますからね。

ただ、みんな各々にある、あまたの異なった過去世からの因縁のために、中々、一筋縄ではいかないし、業想念の少ない人もそうは多くはない(?)ので、有り難い=ありがたいこととされる。

そういうことなんじゃないですか?

大乗のような理屈は、私のような単純きわまる人間には面倒くさくて仕方がない。

余計な理屈をこねくり回しているように感じる。

前にも書きましたが、神様の愛に沿った、まことに満ちた、自然な行いができれば、あとはうるさいことを言わなくても、整っている。

老子様の無為にして為す、ですよ。

ただ、そこまでには、かなり霊性の開発をして、人格を向上させなくてはならないから、段階的な精進がどうしても必要になる。

みんな固有のあまたの過去世からの因縁があるから、これがいい、と感じても、簡単には行えない。

なので、世界平和の祈り一念の生活による、霊性の開発を重ねてお願い致します。

~~~~~

・落穂~おちぼ~刈り取ったあとの田畑に落ちている、稲や麦などの穂。
(用例)落(ち)穂拾い。

・供犠~字引載っておらず。
供養と犠牲の略ですかね?
中村さんの本は、こうした箇所が本当に不親切です。
そう言わざるを得ません。
調べる手がかりの読みだけでも書いて下さい。
漢和辞典を引くのは大変な作業なんですから。

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①追記: 2024/04/18 05:47
②追記: 2024/04/18 05:53
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。