前回 ( 237_原仏14ー5 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
ー 生きる心がまえ からになります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー 無一物の境地 ー の続きになります。
(B) 前回 ( 237_原仏14ー5 - おぶなより ) を読み返していたら、何だか、われながら、ぼやけてわかりにくい書き方だったように思えてきたので、もう少しはっきり目にして、まとめて書き直しておこうと思います。
ただ、以下に書くことは、あくまでも私の独断と偏見にもとづくものであり、中村さんの考え方に対する私個人の勝手な憶測を含めているので、想像の域を出ません。
その点をあらかじめご了承願います。
「思念を捨てるのだ。
おごりにおもむくな。
この世で名称と形態に対する妄執を断って。
束縛を断ち、苦しみもなく、
願望もない人々、
ー この人を神々も人間も、
この世でもかの世でも
さがし求めたが、
跡を見出すことができなかった」と。
(B) この束縛を断ち、苦しみもなく、願望もない人々は、前回も書いたように、悟りを開いた、得た人々のことと思われます。
この世である、現界(現世)でも、かの世とされる、あの世である幽界でも、その姿を見つけることができなかった、とされていますが、中村さんは、悟りを得た人々の境地が清らかなので、それは何とも表現すること、特に、人物像化が難しいために、初期仏教では仏像がつくられなかったと推測しているようだ、と書きました。
そして、以下の経典の文言から、中村さんは考えた。
尊者モーガラージャは次のように問うた、
「もしも神々も人間も、
この世でもかの世でもそのように解脱した人を見ることができなかったのであるならば、
人々のためになることを行う最上の人を称する人々は、
称賛されるべきでありましょうか?」と。
尊師は答えた、
「モーガラージャよ。
ビクよ。
そのように解脱した人に敬礼する人々も、また称賛さるべきである。
かれらもまた理法を理解し、
疑惑を捨て、
束縛を超えた者となったからである。」と。
(以上、第 一 巻 二二 ー 二三ページ)
(B) 中村さんは、この経典に悟りを得た人々が、尊敬されて、敬礼されるべきだ、と書かれている(実際には、悟りを得た人々を尊敬して敬礼する人々が、悟りを得た人々に匹敵するとして称賛されるべきだ、と書いてあるのですが、まあ、大体、同義としてもいいのでしょう)ことを援用して考えたのだと思うのです。
悟りを得た人々(経典には、この悟りを得た人々に敬礼する人々と書いてあるのだが)が敬礼されるべきと、わざわざ書いているところから、拝むべき、礼拝すべき偶像をつくる必要が生じてくるだろうことを、中村さんは暗に示している、暗示している、と私は読み取った訳です。
つまり、悟りを得た人々は敬礼されるべきと経典に書いてある、従って、初期仏教のすぐ後には、敬礼される、礼拝されるべき、しかるべき偶像が必要になったのであろう、と中村さんは考えた。
それが、あのような、ほのめかすような書き方になっている、と私は読み取った訳です。
私個人の勝手な解釈を言えば、悟りを得た、解脱した人々が、この世でも、かの世でも、見つけることができなかったのは、すでに、高い高い、神界まで昇られてしまっていたので、見つけることができなかった、会うことができなかった、ととらえていますが。
これが、前回のまとめになります。
私は自分の力量不足も踏まえて、とにかく、自分にも理解しやすく書くことが、自分以上の能力を備えている誰にでもわかりやすくなるはずだと考えて、つとめて、わかりやすく、平易に書くことを心がけています。
まあ、今回も、あまり明快には書くことができなかったかもしれませんが、精一杯書いたつもりなので、どうかお許し下さい。
お願い致します。
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追記: 2024/04/18 07:03
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。