前回 ( 239_原仏14ー7 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
二 他とのかかわり からになります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー 他人との関係 ー
(A) 他人との関わりにおいて、自己を整えるという方向において、右の教えはさらに発展します。
(B) 困ったよなあ。あれじゃ、不十分だと言ってるのに・・・。
続きです。
自己を護(まも)る人は他の自己をも守る。
それ故に自己を護れかし。
しからば彼は常に損ぜられることなく賢者である。
(アングッタラ・ニカーヤ 第 三 巻 三七三ページ)
(A) この自己を求めるという動きが、ここでも社会性をもってくる訳です。
自分を反省してみる。すると自分が自分にとって一番愛(いと)しいし、大切だ。すると他の人だって同じではないか。だからわが身に引き比べてみて、他人を理解せよ、同情せよ、となる訳です。
自と他は明らかに違う訳ですが、しかしそれは融即するはずのものだというのです。目には見えなくても、因縁の連鎖の網によってお互いに繋がっている。だから自分を厳しく整えることは他人に対して理解をもつことになる訳です。
例えば「怒るな」という教えがありましたが、これは怒らせるような人がいた場合に、ああ、この人がこうした態度をとったのは、こういう条件により、こういう原因により怒ったことなんだから、と思って理解をもつ。すると自分の怒りも自ずから静まる訳です。
あるいは他の人が何かしてくれたことが、余計にありがたく自分も思うようになる。自他融即というのは、決して自分と他人をごっちゃにするという意味ではなく、他人は他人としてそこにある。その立場ははっきり認めて理解する、同情する気持ちをもって対するという訳です。
(B) あと、まだ、たくさん書いてあることがあるのですが、一旦、ここで区切ります。
私の通読の仕方がいい加減過ぎたこともあるかもしれないが、本当に勘弁してほしい。
「融即」て何ですか?
こんなの、中型の国語辞典にも、中型の漢和辞典にも、出てないよ。
融からも、即からも、たぐれない。
出ていない。
何ですか、これは?
ネットだって、融即律が出ているくらい。
本当にもう、いい加減にしてほしい。
たとえ、冗長になっても、もっとやさしく、誰にでもわかりやすい平易な言葉を使うべきです。
失礼ながら、前後の文脈から類推する限り、そう大した意味があるとは思えない。
十分に他の言葉で言い換えが可能なはずです。
ちょっと、キレ気味(怒り心頭に近い)なので、今回はここまでで、仕切り直しをさせて下さい。
申し訳ございません。
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追記: 2024/04/18 23:07
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。