前々回 ( 239_原仏14ー7 - おぶなより ) の続きです。
前回 ( 240_原仏14ー8 - おぶなより ) のお見苦しい文章は、大変失礼致しました。
この場をお借りしてお詫び致します。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
二 他とのかかわり からになります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー 他人との関係 ー
(A) 他人との関わりにおいて、自己を整えるという方向において、右の教えはさらに発展します。
(B) 困ったよなあ。あれじゃ、不十分だと言っているのに・・・。
自分がやられるのが嫌だから、保身を省みてじゃあ、本質に至らないんじゃないですか。
まったく、至らない、効き目がない、とは言いません。
しかし、因縁の深い因業人間やサイコパスはどうするんですか。
こうした人は、そう簡単に他人様に思いを馳(は)せたりなんかしませんよ。
相手の立場になるどころか、自分の思うまま、どんどん勝手にやりたい放題、ことを進めていってしまいます。
良心の呵責(かしゃく)に訴えても、効き目はむなしいほどにないでしょう。
なぜか。
果たす悪い因縁があるからですよ。
しかも、その悪い因縁が深ければ深いほど、新たな悪い因縁までつくってしまう可能性がきわめて高い。
私は説教にはほとんど効果がないとしばしば書いてきました。
何回も何回も。
あるべき規範や道徳を指し示しても、どうにもならないような人がいるんですよ。
過去の歴史にも、侵せない絶対権力を背景に、暴虐なことをした権力者がいたのではありませんか。
別に権力者に限りません。
うっとうしい説教だなと思うことは世の中にいくらでもあるでしょう。
どんな人だってそう感じることはあったはずです。
世の中は、業想念に満ち満ちて、不平等、不均衡が、まだまだはびこっているじゃないですか。
この業想念に満ち満ちた世の中を見る限り、お世辞にも霊性の高い人がたくさんいるとは言えないんじゃないですか。
自分(私)の傲慢な経験も踏まえて言うと。
魂の経験、もうどうにもならないほどの、抗えない不可抗力の経験を積むと、謙虚になるんですよ。
苦しんでいる人様に思いを馳せることができるようになるんです。
自然の恵みや、美しさ、はかなさにも、気づけるようになるんです。
今まで当たり前のように享受できていた環境が、いかにありがたいものであったかも、わかるようになるんです。
つまり。
私達の本体、霊魂魄についた汚れを落とさないと、浄めないと、きれいな本質(神様の分けられたお命=分霊=わけみたま)があらわれないんですよ。
私達肉体人間が、あまたの過去世で積んでしまった五感にもとづく欲望で重ねてしまった、真善美に悖る業想念を払わないと、浄めないと。
それをしていくのが、現代まで含めると、自力の修行(聖道門)か他力の修行(浄土門)になるんじゃないですか。
古の釈迦の時代なら、自力修行しかなかった訳ですが、彼らのような厳しい修行生活をすることによって、業想念を浄める。
そうすることによって、神様の光を、仏性の光を出していく。
自然な態度で示すことによって、一般の人々にまで、光を及ぼしていく、因縁の波を浄めていく。
こうすることで、みんなの神性を、仏性を引き出すことで、はじめて、みんな神様の分け命を頂いている兄弟姉妹だと、人様の身になることができるのではありませんか。
悟りを得ていない肉体人間である以上、地球さん開発のために便宜上追加付与された自己保存の本能により、自分の保身は必定です。
しかし、これは、神性そのものでもない、仏性そのものでもない、違うのではありませんか。
保身から、慈悲や愛が出る。
じゃあ、保身はいらない、保身を放棄した人はどうするんですか。
どうなろうと構わないと言うのですか。
違うでしょうよ。
愛や慈悲は神性をもつ以上、仏性をもつ以上、元からあるんですよ。
ただ、あまたの過去世で積んでしまった業想念で曇(くも)らされて、わからなくなっているんですよ。
私達の本質が神性でなかったら、仏性でなかったら、修行をしても意味がないのではありませんか。
どんなに修行しても、悪人(?)のままで、変わらない人がいることになってしまう。
修行をする、あるべき姿を求める、ということは、肉体人間の本質が神性である、仏性である、と無意識に思っているからではありませんか。
つまり。
私達は知らず知らずのうちにわかっているんですよ。
だから、窮地に追い込まれた時には、無意識に、神様!と叫びたくなるのではありませんか。
従って。
話を肉体人間の自己保存だけに帰着させるやり方は、不十分だと思えるんですよ。
続きです。
自己を護(まも)る人は
他の自己をも守る。
それ故に自己を護れかし。
しからば彼は
常に損ぜられることなく賢者である。
(アングッタラ・ニカーヤ 第 三 巻 三七三ページ)
(A) この自己を求めるという動きが、ここでも社会性をもってくる訳です。
自分を反省してみる。すると自分が自分にとって一番愛(いと)しいし、大切だ。すると他の人だって同じではないか。だからわが身に引き比べてみて、他人を理解せよ、同情せよ、となる訳です。
自と他は明らかに違う訳ですが、しかしそれは融即するはずのものだというのです。目には見えなくても、因縁の連鎖の網によってお互いに繋がっている。だから自分を厳しく整えることは他人に対して理解をもつことになる訳です。
例えば「怒るな」という教えがありましたが、これは怒らせるような人がいた場合に、ああ、この人がこうした態度をとったのは、こういう条件により、こういう原因により怒ったことなんだから、と思って理解をもつ。すると自分の怒りも自ずから静まる訳です。あるいは他の人が何かしてくれたことが、余計にありがたく自分も思うようになる。自他融即というのは、決して自分と他人をごっちゃにするという意味ではなく、他人は他人としてそこにある。その立場ははっきり認めて理解する、同情する気持ちをもって対するという訳です。
すなわち自己を探求することの中から人に対する理解が出て、自分に対する反省から他人に対する同情が出て、それが宗教的な意味では慈悲の理想となって具現化するのではないでしょうか。
考えると、自分は、他から色々及んできた力の一つの結び目のようなものです。他人から離れた自分というのはあり得ません。多くの人々が我々に影響を及ぼし、その力、そのお陰によって個々の人が育ってきた訳です。
だから個人は他人から切り離しては考えられません。一応、個が個として成立するために、因縁の結び目のようなものがなければならないのですが、それは他から離れたものではありません。ですから他人の立場に立って行動するということ、これが世の中が円満に進んでゆくための実践上の原理なのです。
これは二千五百年前の昔だけのことではなく、実は今日のような世の中になってみると、人々、各個人の生存は密接に結びついています。だからこそ他人の立場を考えなければいけないのです。その点では貴重な教えだと思います。
(B) これは私のきわめて勝手な推測ですが。
中村さんは、縁起にからめて、自分と他人の関係づけを説明しようとお考えになったのではないでしょうか。
しかし。
いくら自己をきわめても、反省しても、悟りを得られない限り、因縁の壁は破れませんよ。
果たさなければならない、厳しい、深刻な因縁が、同情や理解で消失するとは、到底、考えることができないからです。
この地球さんの上に、生まれ合わせた以上、私達にはかすかなりにも、誰にも、誰しも因縁があるのは確かですね。
しかし、その因縁にも程度の著しい差があって、生涯を通しても、袖振り合わない人は、まったく、袖振り合いません。
ただ、私達のすべてが、神様の分け命により生きている、生かされていることは、まったく変わりがありません。
神様の分け命を頂く、同胞として、本質は同じである。
元は同じ神様の分霊(わけみたま)である。
だからこそ、人様の身になることに、意味があるのではありませんか。
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追記: 2024/04/18 23:13
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。