おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

242_原仏14ー10

前回 ( 241_原仏14ー9 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ _ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
二 他とのかかわり からになります。

ー 他人との関係 ー

前回 ( 241_原仏14ー9 - おぶなより ) で、自分の身の保身をかんがみて、他人様に嫌なことをしない、そして、ここから愛や慈悲が出てくる、とするのは違うのではないか、やかましく、うるさく書いてきました。

それだけではない、と。

お釈迦さんではありませんが、この内容を遺(のこ)した、お釈迦さんと同世代の人物がいます。

中村さんは仏教徒だから、あえて触れなかったのかもしれませんが、孔子(こうし)です。

ある記録を見ると、この二人のいた時代は、活動したところはインドと中国の違いはあるものの、ほぼかぶっています。

釈迦 インド 紀元前 565 年~ 465 年
孔子 中 国 紀元前 551 年~ 479 年

お釈迦さんの方がやや先輩といったところでしょうか。

この孔子の言葉(問答で弟子に答えた言葉)で、以下のようなものがあります。

己の欲せざる所は人に施す勿れ

おのれのほっせざるところはひとにほどこすことなかれ

まさに、前回中村さんが書いていた内容そのものです。

孔子は、これを他者にしないことが、思いやりだとしていて、大事なことだと説いていました。

しかし、これも発想の元は同じなのではありませんか。

自分も人様も、同じ肉体人間。

だから、自分の身をいとおしむように人様をいとおしみましょう。

自らの保身とそこから生じるいとおしみを他者に及ぼしていきましょう。

そこには、肉体人間の元が、本体が、本質が、神様の分け命の神様の子供である兄弟姉妹だから、慈しみ合い、愛し合い、傷つけたりし合わなないのは当然である、との視点は、見ることができません。

だから、私は、打算的なのではないか、利害得失計算なのではないか、と書いた訳です。

さらに、もう一つ欠点をあければ、脆(もろ)いんですよ。自分の身の保身の安全確保が保てないと、すべてが始まらない。もしも、この安全が何らかの事情で脅(おびや)かされてしまったら、愛も慈悲も出ないことになってしまう。

もしくは、そうなりがちである。

この不安定で厳しい唯物論全盛の押しつまった資本主義社会では、身の回りのことで精一杯、そんなに余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の人は、多くはないのではありませんか。

それでなくても、ただでさえ、この世は、過去世からの因縁を果たすための、それはそれは厳しい火宅の世です。

そんなに簡単な心がけだけで、人様の身になり、わが身に引き比べて、同情や理解を示す余裕が果たしてあるものでしょうか?

お釈迦さんならば、こうしたことのすべてを十分にわかっていたはずです。

弟子の阿難(アーナンダ)に問われた時に、人は誰でも、もちろん、女性でもちゃんと悟りを得ることができる、と答えているからです。

肉体人間は誰でも、どんな人でも、神様の分霊(わけみたま)を本体とする神様の子供である、仏教的に言えば、誰でも、もちろん、性別を問わず、悟りを得ることができる、いわば、仏性をそなえると言ったのですから。

・仏性~ぶっしょう~①一切衆生(いっさいしゅじょう)が本来持っている、仏になれる性質。仏心。
②仏の本性。

衆生~一切の生き物。特に人間。

だからです。

従って、お釈迦さんが実際にどこまで言及していたのかはわかりませんが、肉体人間の本体が神様の分霊であること、彼が仏性のことをわかっていたことは間違いありません。

なので、あのように書いてあるのは、経典作者さんの意図なのか、中村さんの意図なのかはわかりませんが、まだ、理解と説明が足りないような気がするのです。

現に、中村さんも、無意識だとは思いますが、自己探求から人に対する理解ができ、自分への反省から他人への同情が出て、それが宗教の意味での慈悲の具現ではないか、とあまり強い口調で言い切ってはいません。

世の中が円滑に進んでいくための実践上の原理という、いわば、処世術みたいな書き方もしていますからね。

処世術とするのは、極端に言えば、ハウツーもの、小手先の対処に近いと認めている訳ですよね?

本来、神性をそなえた、仏性をそなえた、肉体人間のあるべき姿から、直接導いている訳ではありませんよね?

まあ、霊魂を無記としながらも、仏教では、仏性を認めているのですから、この点に触れてもよかったのではないか、と思うのですよ。

ぐちゃぐちゃと何度もうるさくてすみませんけど。

なお、やっぱり老子様はすごいですね。

以前、書いたことがあるんですけど、老子様はスケールが大きいというか、本当に深い。

恨みに報いるに徳を以てす(老子様の報怨以徳)と、
これに対となる(?)
孔子様の以徳報怨=雪辱しろ、義に則って復讐せよ、
とはまったく違うように。

無為にして為(な)せ、神様の光が流れてくるのだから、肉体人間の五感にまつわる想いで、ああでもない、こうでもない、と光をさえぎるな。

すべて神様のみ心のままに流れるように為されれば、いちいちこまごまうるさいことを言わなくても、すべてが整っている。

まあ、そうなるためには、悟りを得て、空にならなければいけないので、まずは、普通の私達にはできないことなんですが。

だから、段階を踏んで少しずつ精進していく、他力の信仰、中でも、世界平和の祈り一念の生活と守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願いしている訳でもあります。

やはり、少しでも、より好ましい形にもっていくためには、できるだけ無理の少ない信仰の後押しが、必要なんじゃないのかなあ、と。

人様に対する理解や同情や慈悲や愛が、その時々の状態で左右され、出たり出なかったりするような不安定なものではなく、今すぐには無理でも、いずれは果たせるように、目指すべき境地として位置付ける信仰をもつことが、好ましいし、あるべき姿だと思えますので。

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・火宅~かたく~仏教語~煩悩・苦しみ・不安に満ちたこの世を火炎で燃えつつある家にたとえた語。現世。娑婆(しゃば)。

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①追記: 2021/01/10 00:00
②追記: 2024/04/18 23:30
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。