おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

243_原仏14ー11

前回 ( 242_原仏14ー10 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
二 他とのかかわり からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (Bと記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー よいことば ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)また、人と付き合っていくためには、必ず言葉を媒介とします。お互いに話し、言葉をかわすことによって、気持ちも通じ、相互の理解がなされます。言葉に出さなくても、何かの記号を手がかりとして人々の交渉が成立するのです。色々な記号の中でも、一番重要な言葉についての教えが述べられているので、その一つを紹介しましょう(第 Ⅷ 篇・第 五 節)。

(B)また、文句になってしまいますが・・・。

この文章も非常にわかりにくいです。

この記号とは何ですか?

非言語コミュニケーション(ノンバーバルコミュニケーション)のことですか?

それとも割り符のような物を指しているのですか?

言葉で人間同士の相互理解がなされる。
 ↓
言葉でなくても何らかの記号で人々の交渉が成立する。
 ↓
その中でも一番重要な言葉についての教えを見ていく。

何か理屈が繋がらなくて、変に飛んでいるように見えるんですけど。

なので、多分。

人間同士の間の意思疎通(コミュニケーション)には、言語的なコミュニケーションのバーバルコミュニケーションと、非言語的なコミュニケーションのノンバーバルコミュニケーションの二つがあり、中でも、古代だから言葉は特に重要な意義を持っていたと考えられるから、これを見ていこう、という意味だと思いますけどね。

大体、そんな風にしかとれません。

まあ、中村さんは記号の意味それ自体にもまったく言及していないし、ノンバーバルコミュニケーションについても一言も触れていないので、モヤモヤしてはっきりしませんが、こんな風にとっておけば、そんなに弊害は出ないでしょう。

続きです。

(ある時尊師(お釈迦さん)は)
サーヴァッティー市のジェータ林、
(孤独な人々に食を給する人)の園に住しておられた。

(A) 釈迦は一生遍歴の生活で、あちこち経巡っていろんな場所に滞在したのですが、サーヴァッティー市のジェータ林での滞在が一番長かったと記されています。

(B) お釈迦さんの遍歴生活は、一生ではなくて、29 才で出家してから80才で亡くなるまでの、約51年じゃないですか?

続きです。

そこで尊師は修行僧たちに呼びかけられた、
ー 「修行僧たちよ」と。
修行僧たちは尊師に向って
尊いお方さま!」と答えた。
尊師は次のように言われた、
ー 「修行僧たちよ。
四つの特徴を具(そな)えたことばは、
みごとに説かれたのである。
悪(あ)しく説かれたのではない。
諸々の智者が見ても欠点なく、
非難されないものである。
その四つとは何であるか?
ここで修行僧が、
(一)見事に説かれた言葉のみを語り、
悪しく説かれた言葉を語らず、」

(A) 言葉は、人に悪い気持ちを起こさせるような下品なものであってはならない。

見事な言葉であることが尊ばれています。それは、必ずしも、立て板に水を流すような能弁という意味ではなく、立派な言葉という意味です。

(B) もしも、これを読まれている方がいたら、質問させて頂きます。

「見事に説かれた言葉」とは何だかおわかりになりますか?

「悪く説かれず、智者が見ても欠点なく、非難されない言葉」とは何ですか?

おわかりになる、教養の深い方なら、問題がないのかもしれません。

しかし、私のような力不足の者には、「ふざけてんのか?」としか思えません。

後々の部分もそうですが、あまりにも、書かれていることが抽象的過ぎて理解のしようがないからです。

2500 年も昔の話です。色々な環境や言葉には、理解をしにくい壁が立ちはだかってくるかもしれません。

しかし、少しでも、読者層を広めたい、誰にでも平易に理解させたい、とほんのわずかでも思うなら、何かしら、もっと具体的でわかりやすい言葉を例に挙げてくれなければ、まったく理解ができません。

こうした表面をなぞったような抽象的な言葉の羅列(私の力では理解できないのであえてこう書きました)の高等な言葉のご遊戯は、私のような力不足の者には迷惑なんですよ。

仏教への興味が削がれてしまいます。

なぜ、もっと視点を下にまで及ぼしてくれないのか?

なぜ、中型の字引からも、まったく調べることが不可能な滅多に使わないような語句を唐突に用いるのか?、突然に持ち出すのか?

中村さんには、考えて頂きたいと願います。

続きです。

「(二)理法のみを語って、理にかなわぬことを語らず、」

(A) 人間が生きていくためには道理があります。この道理に従ったことだけを語り、無茶なことは言わない。

(B) なし。

続きです。

「(三)好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、」

(A) 好ましい愛情のこもった言葉を、仏典ではしばしば愛語といいます。

愛の言葉です。道元禅師も説いていますが、この愛語は、人々の間では非常に大事なものです。

自分に対して愛情のこもった言葉を面と向かって聞くのは、ありがたく嬉しいことである。また、自分がその場にいなくても、人づてに自分に対しての愛情をもっていると聞くと、非常階段深い感銘を受ける。だから愛語は大切なことなのです。

(B) なし。

続きです。

「(四)真実のみを語って、虚妄(きょもう)を語らないならば、」

(A) 嘘を言ってはいけない

真実がどういうことかがさらに問題になる訳ですが、真心がこもっている言葉、これが大事だ、というのです。

必ずしも事実を事実のまま伝えるという意味ではありません。事実をそのまま伝えて、かえって相手の人の気持ちを損なうような場合には、立派な人は語らない、ということが原始仏典の中にも説かれています。

あるいは人を励ますために、例えば子供がピアノをひくのに、下手でも、「お上手ね」と言って励ましてやる。それも真心のこもった言葉です。所詮、真心という点から判断されるべきでしょう。

(B) この終わりの子供の話は、嘘も方便ということになりますよね。だから、中村さんはやけになって(?)あんな書き方をしたのですかね?

よくわかりませんが。

まあ、指導者としては、帰依してくる者を、できるだけ痛めず、傷つけず、長所を伸ばしてあげるように、本人の性格や資質を見極めながら指導していく、その場合には、嘘も方便ということもありうるのだよ、ということでしょうか。

続きです。

「この四つの特徴を具えている言葉は、
見事に説かれたのであって、
悪しく説かれたのではない。
諸々の智者が見ても欠点なく、
非難されないものである」
尊き師はこのことを告げた。
このことを説いたあとでまた、
幸せな人である師は、
次のことを説いた。

(A) 同じようなことが、次に繰り返されています。

(B) なし。

続きです。

「立派な人々は説いた

(一)最上の善い言葉を語れ(これが第一である)。
(二)正しい理を語れ、理に反することを語るな。
これが第二である。
(三)好ましいことばを語れ。
好ましからぬことばを語るな。
これが第三である。
(四)真実を語れ。偽りを語るな。
これが第四である。」

続きです。

そのときヴァンギーサ長老は座から起(た)ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわにして)師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げて言った、

「ふと思い出すことがあります。
幸せな方よ」と。 
「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、
師は言われた。
そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以(もっ)て師をほめたたえた。

(A) ヴァンギーサ長老という人は、弁舌巧みな人として知られていましたが、釈迦はここで、本当の良い言葉はどういうものかを教えています。
まとめの文句は次の通りです。

(B)なし。

続きです。

「自分を苦しめず、
また他人を害(そこ)なわないような言葉のみを語れ。
これこそ実に善く説かれた言葉なのである。
こころよい言葉のみを語れ。
その言葉は、人々に歓び迎えられる言葉である。
他人に禍いをもたらすことなしに語る言葉は、快い。
真実は実に不死のことばである。
これは永遠の理法である。
道義も教えも真実の上に確立している、と立派な人々は語る。
安らぎに達するために、苦しみを終滅させるために、仏の説きたもうおだやかな言葉は、実に諸々の言葉のうちで最上のものである。」

(以上、第 一 巻 一八八 ー 一八九 ページ)

(A) 釈迦という歴史的人物は、まさにこの通りの言葉の教えを実践した人でした。

(B) これらの言葉を簡単にまとめると、現代的には、次の一言になるんじゃないですか。

真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適(かな)った言葉。

こうした意味であると思います。

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①追記: 2021/01/14 19:10
②追記: 2024/04/19 23:57
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。