243_原仏14ー11 の続きです。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ(2) 三 無我の心境 からになります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。
ー 非我説 ー
(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)サンユッタ・ニカーヤの散文の部分には無我の心境になれ、と教える非我説が盛んに説かれています。
(B)なし。
(そこで世尊は五人の修行僧の集いに説かれた。)修行僧らよ。物質的なかたち(色)は我(アートマン)ならざるものである。もしもこの物質的なかたちが我であるならば、この物質的なかたちは病に罹(かか)ることはないであろう。また物質的なかたちについて「わが物質的なかたちはこのようであれ」「わが物質的なかたちはこうあることがないように」となし得るであろう。しかるに物質的なかたちは我ならざるものであるが故に、物質的なかたちは病に罹り、また物質的なかたちについて「わが物質的なかたちはこのようであれ。わが物質的なかたちはこうであることがないように」となすことができないのである。
(感受作用)受(じゅ)は我(アートマン)ならざるものである。もしもこの感受作用が我であるならば、この感受作用は病に罹ることはないであろう。また感受作用について「わが感受作用はこのようであれ」「わが感受作用はこうあることがないように」となし得るであろう。しかるに感受作用は我ならざるものであるが故に、感受作用は病に罹り、また感受作用について「わが感受作用はこのようであれ。わが感受作用はこうであることがないように」となすことができないのである。
(表象作用)想(そう)は我ならざるものである。・・・ないし・・・
(形成作用)行(ぎょう)は我ならざるものである。・・・ないし・・・
(識別作用)識(しき)は我ならざるものである。
修行僧らよ。もしもこの識別作用が我であるならば、この識別作用は病に罹ることはないであろう。また識別作用について「わが識別作用はこのようであれ」「わが識別作用はこうあることがないように」となし得るであろう。しかるに識別作用は我ならざるものであるが故に、識別作用は病に罹り、また識別作用について「わが識別作用はこのようであれ。わが識別作用はこうであることがないように」となすことができないのである。
(第三巻六六ー六八ページ)
(B)ちょっと、どうしても考えがまとまらない点があるので、勝手ながら今回はここで区切ります。ご了承願います。
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春雨サラダ様、いつもお世話になっております。大変失礼致しました。申し訳ございません。
前回記入時の01/10(日)からかなり空いてしまいましたが、続きを書きます。
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(A)伝説によると、この説はベナレス郊外の鹿の園における釈尊(釈迦のこと)の最初の説法の一部だと言われています。
この物質的なかたち(色)という言葉は、元の言葉でルーパといいます。これは、色や形と訳される言葉で、この場合には、形あるもの、物質的なもの、何か空間を占有していて、他を寄せつけないものをいいます。
私達の個人存在を省みると、色々な面があり、そこに物質的な側面があるのははっきりしています。どうかすると人間の物質的な面が、真の自分である、と思われがちですので、まず、その点を取り上げたのです。
もしも自分の物質的な面が真の自己であるならば、自分の思うようになるはずです。そこに何らかの妨げもないはずです。ところが、現実の人間は、決して思い通りにはなりません。病気になりたくなくても、病気になることもあります。もう少し太りたい、あるいは、やせたい、と思っても、それぞれの反対になったりと、なかなか思うようにはいきません。そしていずれはこの体が消え失(う)せてしまう。そう思うと、自分の思い通りにならないから、これは自分が主(あるじ)となっているものではない。真の自己とはいえない、といって、まず問題を投げかけている訳です。
私達は、太りたい、やせたい、死にたくない、病気になりたくないといってもままにならない。自分の自由にならないものを、これが私のものだとか、これが私だとはいえないのではないか、ーこういう意味です。
そこで自己とはどういうものなのだろう、この探求が原始仏教における大きな課題となっていたのでした。
やがて我々の存在を
(一)物質的な形(色)、
(二)感受作用(受)、
(三)表象作用(想)、
(四)形成作用(行)、
(五)識別作用(識)、
という五つの構成要素に分けて、その一々について無常・苦・非我を述語として説くようになりました。
(B)なし。
続きです。
物質的なかたち(または感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は無常である。
無常であるものは苦しみである。
苦しみであるものは非我である。
非我であるものはわがものではない。
これはわれではない。
これはアートマンではない。
正しい智慧をもってこの道理を如実に観ずべし。
(第三巻四二、四五ページなど)
(A)我々の身体の方面でも、精神作用の方面でも、無常である、変滅するものであるという認識から出発しています。
我々は、いつまでも自分がこのままでありたいとか、あるいはこうした物を持っていたいと思います。けれどもすべては消え失せるのものですから、いつかは自分から離れてしまう。これは離れてほしくない人には苦しみです。だから、それは苦である。自分の思うままにならないから、自分の我ならざるものである。従って、わがものではない。これは我ではない。つまり、自分の体とか精神作用とか、あるいは、自分が持っているもの、財産とか名誉とか地位とか、そういうものもわれではない。これはアートマンではない。アートマンは、インドの言葉で自分のことを指します。
ここでは、何ものも「我に非(あら)ず」と説いていますが、表我と無我とは趣旨は結局同じことになるのです。古い漢訳の聖典を見ると、非我という訳の方が多いのです。元の言葉でいうと、パーリ語ならアナッターとなりますが、それが名詞ですと、「非我」「我ならざるもの」ということになります。それから形容詞として使いますと「我を持たないもの」という訳です。仏教は無我を説くといいますが、何も自己がないとか、アートマンがないとか、そういうことを説くのではないのです。その我執をなくするという教えです。言葉は違いますが、趣旨としては同じことになる訳です。
(B)ここに書いてある、色、受、識は、五感の認識のことなので、仮に、耳で聞くことに代表させることにします。
ここでは、我(われ)を定義するにあたって、自分の思い通りにならない、制御ができないこと、耳で言えば聞こえにくい病気にかかることを防ぐことができない、治すことができないことを取り上げるものとします。
少なくともここでは、ああしたい、こうしたい、すなわち、耳が聞こえにくいことを防ぎたい、直したい、を判断する主体は存在することになります。
ということは。
これを、仮に肉体だとすると、判断する主体と思い通りにならない主体の一部をいっしょくたにして、混同して捉(とら)えていることになります。
従って。
少なくとも、判断する主体は肉体ではない、としなければならなくなります。
なぜならば。
判断する主体とその部分を一体とする限り、主体の一部には、思い通りになること、自由が利(き)くことを暗黙の前提として話を進めていることが読み取れるからです。
逆に言えば、思い通りにならない、自由が利かないならば、主体の部分とはならない訳です。
なので、判断する主体と部分を一緒にはできないということは、判断する主体は肉体ではない、としなければ辻褄が合いません。
自分の制御が及ばないものは、自分の一部とは言えない。
こうした理屈を展開していますからね。
しかし。
現代で、ごく普通に考えて、耳が思い通りにならないから、お前ではない、お前の体とは言えない、などと他人から言われたらどうでしょうか?
はあ?
あなた、何言ってるの?
と思われるのが、むしろありがちなんじゃないか、と思うんですけどね。
なので、勝手ながら、また、まったく違った書き方に持ち込ませて頂きます。
まずは、私達肉体人間は、自分で生きているのではなく、生かされていることがあります。
肉体からみれば、俺は自分の力で生きている、心臓を動かすのも何もかも自分ですべてやっている、とは言えないからです。
五臓六腑の働きが、すべてそうです。
これも、耳の話と同じく、自分の制御が及ばない、自分の意思では気づかない何かしらの力の働きかけによって、肉体が有機的に作用して、肉体人間という生命体として生きて行ける訳です。
しかも。
どんなに、俺が俺が、と息巻いても、そもそも、この世に生まれてくることからしてが、自分の力ではない訳です。
そんなに、俺が、俺が、というならば、もう一遍自分の思うように生まれ直してこい、と言われても、誰にもできませんよね。
物質的には、両親を通すこと、そして、肉体を有機的に作用させるのは、何かしらの肉体に働きかける生命力がなければ、肉体人間として、この世に生を受けることはできない訳です。
こうして考えてくると、どう考えても、判断する主体は肉体ではない、とせざるを得ません。
まあ、これが、いつもいうところの神様の分霊であり、肉体を有機的に作用させる本体、となるんですね。
ただし、あまたの輪廻転生を通して、人間=肉体人間だという余分な思い込みの染み付いたところの(自分が神様の分け御霊そのものである、仏性そのものである、と感得したらもう悟れている訳ですから、悟れていないのがほとんど。つまり、霊魂魄に浄めるべき汚れがたくさんついている状態な訳です)。
つまり、肉体人間を生かす生命力も、肉体それ自体もつくられたもの、すべて与えられているものである、ということになるんですよ。
俺が、俺が、と言っても、そもそも、肉体は何一つ自分で一から作り上げたものではない、となってしまうんです。
しかも、容姿、運動能力、学習能力も、ある程度、大枠が定まった上で生まれてくる(これは過去世の因縁がかかわっている)。
じゃあ、自分とは一体何者か?
何のために肉体人間として生まれてきたのか?
これは、どうしたって、肉体人間として生まれてくる前、それ以前、を考えざるを得なくなりますよね。
自分の意識ではわからない、何かしらの大いなる力によって、この世に肉体人間として生み出されてくる、ということになる。
といった次第で、とりあえず、ここまでにしておきますが、非我だ、非我だ、と何が言いたいのか非常にわかりにくいし、たとえも、主体と部分を混同しているようにも思えたので、霊性を肯定する違った方面から書いてみました。
要は、肉体人間の肉体そのものは、自由自在にならない(悟りを得れば自由自在になる)と、言いたかったんでしょうね。
ここには書いていませんが、主体(アートマン?)は神様の分霊、仏性であるとしたかったんでしょうね。
そして、この肉体人間の五感にまつわる感覚や欲望によって生じる執着も、すべて神様の分霊、仏性ではなく、現世たるこの世で時を経て消えてゆく姿だから、本体たる神様の分霊ではない、仏性ではない、と言いたかったものと考えます。
続きです。
カッチャーナに対する教えにおいて、次のようにいう ー 世人は執著のために縛(ばく)せられているが、
「これはわがアートマンであると執しないならば、苦しみが現に生じつつあるときには、(苦しみが)生ずると(見)、苦しみが現に滅しつつあるときには、(苦しみが)滅すると(見て)、惑わず、疑わず、他に縁(よ)ることなくして、ここにかれに智が生ずる。実にカッチャーナよ、これだけのことによって正しい見解が起こるのである。」
これがすなわち解脱である。
(第二巻一七ページ、第三巻一三五ページなど)
(A)なし。
(B)カッチャーナって、誰ですか?
中村さんは一言もありません。
まあ、釈迦の弟子なのでしょう。
しかし。
訳の問題なのか、原語(古代インド語)の問題なのか、もう少し、すっきりして頂けないものでしょうか。
私のような力不足の者には、あまりにも、煩雑(はんざつ)で読み難(にく)すぎます。
本当にわかりにくいことこの上ない。
賢明な皆様ならばおわかりなのでしょうが、私は読み難さに本当に辟易します。
要するに、アートマン(?)、肉体人間の本体であるところの神様の分霊、仏性以外は、五感に感じるものすべてが、この世(現世)で時を経て消えてゆく姿であり、これを感得することができれば、執着しないことにより、苦しむこともなくなる、すなわち、解脱できるんだよ、と書いてあるみたいですけどね。
参りましたよ、本当に。
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①追記: 2021/01/14 14:00 〜訂正内容〜
本文内容を一部書き直し、後半部分を書き足しました。
②追記: 2021/01/14 19:16 〜訂正内容〜
本文内容を一部書き直しました。