おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

245_原仏14ー13

244_原仏14ー12 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ(2) 三 無我の心境 からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。

ー 禅定 ー

(B)禅定~ぜんじょう~仏教語~①心のはたらきを静めて、精神を集中すること。また、その心の状態。瞑想。
(用例)禅定に入る。
②霊山に登って修行すること。
ここでは、①の意。

また、文句になりますけど。

今までにもいくつかありましたけど、ふりがなをつけるべきところにつけていなかったり、経典や本文の送り仮名が、違うのではないか?、というのがかなりありました。

33年前の中村さんの本の出版当時と今とで、ふりがながそんなに変わるはずもないとも思えますし。

まあ、それでも、一応、本を尊重して、そのままにはしてありますが。

個人的な感想ですが、仏教をまったく知らない人が見ることを考えると、禅定はふりがなをつけるべきだ、と思いました。

前回(244_原仏14ー12)の終わりの非我や無我の、やたらめったらわかりにくく、煩(わずら)わしい文章の後に、読み仮名のわからない漢字の登場では、大方の人は大丈夫だとしても、せっかく仏教に興味を持ちはじめて入門書として読んだ人が、例えば、私のような力不足の者やあまり勉強が好きではない者であった場合には、めんどくせえや、と投げてしまいますよ。

戻ります。

で、前回(244_原仏14ー12)の内容を自己流に勝手にまとめさせてもらうと。

私達、人間は、この意思を持つ肉体、これこそが人間だと思い込んでいる。

人間=肉体人間だ、と。

しかし、その肉体自体は、思うに任せない部分が多くあり、これは、本当に自分と言えるものだろうか?、という疑問が起きてくる。

五感に感じることができるものをはじめとして、ありとあらゆるものが、この世で時を経て、少しずつ変わって行き、恒常的であるものがない。

思うに任せない、すなわち、制御ができないし、五感に感じるすべての流転していくものを、とどめておくこともできない。

従って。

自分の思い通りに制御できないものを、自己と定義できない、この理屈でいくと、この肉体さえも、自己とは言えない、ということになってくる。

一方、この肉体は、これに働きかける何らかの力がないと、有機的な生命体として、生きていけない。

神様の分け命、分霊がなければ、人間、肉体人間としては、生きていけないもの。

そして、この世に生を受けてから、寿命が来て亡くなるまでは、この力によって生かされている、ということになる。

なので。

肉体人間、この肉体は神様の分霊によって生かされているものであり、自己=自分の意思は入っている、とどまってはいるが、自己=自分の意思、そのものではない、と言える。

つまり、暫定的に自己を定義させてもらうと。

現界(肉体界、この世)、幽界、霊界の下層の三界(さんがい)を輪廻転生を通して経巡る、俺だ(私だ)、という想い、が自己だ、と定義できる。

肉体は、この自己が入る、働きかける器、場としてのもの、ということになる。

従って。

神様の分霊に、真善美に悖る業想念、果たすべきあまたの過去世の因縁をたくさんくっつけた自分の想い、が自己と(とりあえずは)定義することができ、肉体そのものそれ自体は、自己ではない、と言える。

このことを、経典さんや中村さんは、非我だの、無我だの、と言っているように思えますね。

で。

そして、上記のように、仏陀、悟れた人は現在の地球上、まずはいないので、この自己とは、神様の分霊に、あまたの過去世により積んでしまった真善美に悖る業想念を加えたものとなる。

そうしたことを、はっきりとわかる、認識する、感得するために、古(いにしえ)からは厳しい戒律の下に、各種の自力の修行をしたり、法然さん以降ならば、他力の修行の行き方である浄土門も加えて、悟りを得る方法が出てきた訳です。

その、悟りを得る、無我になる、いわゆる、空になるために、座禅観法をしたり、といろいろとあるんですね。

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)では無我の心境に入るためにはどうしたらよいか?

続きです。

修行者は禅定に入れ、自己のニルヴァーナを知るべし。

(「ウダーナ」三・五)

(A)禅定の意味は心の安定、統一です。人間の心というものは、放っておくと、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、始終、意馬心猿といいますが、猿や馬のようにあっちへ行き、こっちへ行きするものです。それをじっと落ち着けて整えるということです。そして心が安らぎに帰した、それをニルヴァーナ、涅槃といっている訳です。これまでにもよく出てきましたが、涅槃、ニルヴァーナという言葉は、当時、既に色々な宗教の間で使われていたので、別にそう難しい意味がある訳ではない。心の安らぎ、理想の境地、それをいった訳です。
それは死の克服です。一章でふれた「死王にまみえず」というのも同じことです。涅槃の境地を不死という言葉で表すこともできます。あるいはインドは暑い国ですから、「涼しいところ」と呼んだり、あるいは「帰趨(よるべ)」とか、あるいは「島」(洲ーす)というような趣意です。「安楽」と呼ぶこともあります。自分にとっての本当のあるということがいえるのですから。
ところで禅定は一般に行われていました。元をたどると、おそらく、インダス文明辺りから行われていたのではないでしょうか。インダス文明の発掘品や色々な彫像を見ると、足を組んで禅定を修しているらしい姿があります。
さて、現代になりますと、非常に忙しいざわざわした生活の中で、しかも心が乱されないことの中に、先の教えの精神が生かされるのではないでしょうか。形のほうは色々とあってかまわないと思います。日本ではことに座禅が、一般的に日本の修養法の骨格となってきましたが、インドや南アジアでは、色々な精神修養をしています。姿勢はそれほど問題にしておりません。心が静まればいいのです。
この教えは誰にとっても適用される教えだと思います。厳しい修行ができる人は、大いにそれを進めて頂きたい。また人のために尽くすように、奉仕するように、人を助ける活動のできる方は大いに進めて頂きたい。これは人によって色々ですが、世の中のことが中々自分の思うようにならない場合もある訳です。例えば、病気で静かに療養を余儀なくされている方もいる訳です。けれども、万人に通じる教えとして、ああ自分には今苦しみが起きているな、と思う。それに巻き込まれて、苦しむだけではなく、ああ苦しみが起きているなと思って、ちょっと心を一歩退けて、高いところから反省する。すると苦しみは苦しみとしてそのまま受け取られる訳です。
だから、苦しみというものがありながら、その苦しみというのは、精神的なものもあれば生理的なものもありましょう。物理的なものもありましょうが、心はちょっとゆとりをもって見ることができる訳です。
人生にはどうにもならないことだってある訳です。その場合にゆとりをもって反省して見るならば、苦しみは確かに苦しみとして受け取られながら、しかもそれを超えることができる。悩みは悩みとして受け取られながら、しかも悩みに生かされるということになる訳です。所詮、苦悩のない人生はないのですし、その苦悩に直面して、それを超えて喜びをもって生きていく道がここに示されている。それこそが釈尊の最も説きたかったことなのだろうと思います。

(B)申し訳ありませんが、きわめておおざっぱに自己流でまとめます。

中村さんは、座禅による精神統一による修養が、古来から悟りを得るための修行の一つ、というか、必須項目として取り入れられており、それを突き詰めれば、悟りを得て、死をも恐れぬ、達観した悟りの境地、涅槃に至れる、と書いているように読めます。

しかし。

釈迦の時代のように、とてつもない厳しい戒律と修行を修める環境があるならいざ知らず、その後だいぶたった時代でさえも、座禅観法をしても、それも何十年もして、必死に修行に打ち込みながらも、悟れずに寿命が来てしまったお坊さんもたくさんいたのではありませんか。

托鉢で暮らし、定住生活を送らず、山の中で厳しい修行に打ち込んでも、そう簡単に悟りは得られないのではありませんか。

悟りを得るために、座禅観法による精神統一をする修養は確かに必須項目でしょうが、現代人が片手間で、あるいは、期間を限定した短い時間で、悟りを得るのは到底不可能だ、と思うのですけれど。

こうした修養法があり、精神を安定させるよりどころの参考として使える、のがせいぜいなのではないでしょうか。

おそらく、自力で悟るのは、現代では無理だと思います。

やはり、各人が置かれた立場で最善を尽くしながら、(浄土門などの)他力のやり方でやっていくしか、修行法はない、と思うんですけどね。

中村さんは、精神統一をすれば、苦しみを一歩引いて俯瞰できるかのような書き方をしていますが、そんな簡単にはできないはずですよ。

死王にまみえず、死を意識しないことは、大変なことです。

それこそ、自らの本体が神様の分霊である、仏性である、輪廻転生を通した永遠の命であると感得して、今現在生きている、肉体人間として生きていることが、あまたの過去世からの因縁を果たすべくこの世にあらわれた仮の姿だ、なんてわかりっこないからです。

それがわかり、永遠の生命、神様の命、仏性を感得できた者だけが、死の恐怖を乗りこえることができると思いますよ。

そんな人が、今現在、この世の中に一体何人いるでしょうか?

地球さん開発のために、追加付与された自己保存の本能もあることだし、そんな簡単に死を乗りこえることなんてできませんよ。

合気道の開祖、あの植芝盛平先生が、体の痛いところを意識をずらしてしのいだ話を読んだことがありますが、あれは悟りを得た植芝先生だからこそできたことであって、私達一般人は、過去世からを含めよほどの修行を積んでいない限り、こんな真似は絶対にできませんよ。

ちょっと、中村さんの後半の文章はモヤモヤして何が言いたいのかわかりにくいですけど、人生は、思うに任せない、苦しみも多いものだから、精神統一をして心を落ち着けることで、諦め、明らかに見る、そして現状を受け入れながら生きていく、と書いているように読みとるしかないですね。

喜びをもって、と書かれているのは、感謝しながら、ということですが、感謝すること、これは、やはり、妙好人みょうこうにん)のようにならないと多分無理ですよ。

彼ら(妙好人)のような人達ならば、それこそ、日常生活の何気ない、ささいなことからはじまって、ありとあらゆることに、感謝ができます。

しかし、これほどまでに高い霊性を持たない私達一般人が、ちょっと精神統一する、ちょっと感謝を心がける、そんなほんの少しの程度の心がけで、妙好人の人達のような心からの深い感謝をすることができるようになれますかね。

まず、無理だと思うんですけど。

苦悩に直面して、これを喜びをもって生きていく、ゆとりをもてば、苦しみ、悩み、苦悩を、ゆとりをもって見る、あるいは省みることだけで、そんな簡単に乗りこえることができるものでしょうか。

唯物論全盛の世の中です。しかも、宗教をやっている人でさえも、自分にとってきわめて都合の悪いこと、例えば、不幸や災難を感謝で乗りきるのは、並大抵のことではありませんよ。

そうしたことも、自らにとって都合の悪いことに感謝する意味を理解することができない、現代の唯物論に染められてしまっている私達が、何となく、感謝せよ、といわれるだけでは、感謝することの意味はまずピンとこないし、おそらく、わかりませんよ。

今から10年程前でしょうか。確か五日市さんという方が、どんなことにも「ありがとう」と感謝をいうことによって、運命を切り開いていった話を読んだことがありました。

ただ、そこには、嫌なことがあった時に、ありがとう、と感謝することの宗教的な意味までは、深く掘り下げて書いてはありませんでした。

あれだけでも、かなりの感謝行にはなるとは思いますが、感謝の意味をもう少し、掘り下げたら、さらによかったと思われます。

感謝の意味、さらになぜ感謝をするか、の宗教的な深い意味は、頭の理解だけではなく、行い、行(ぎょう)として、体得して積み重ねていかないと、なかなか、理解する、感得することはできないと思います。

前回、私達肉体人間の肉体それ自体も、これを有機的な生命体として動かしている命も、すべて、自分が一からつくったものではない、与えられた絶体絶命のものである、ってことを書きましたが、こうしたところにまで思いを馳せて、心の底から感謝を捧げることができる人が、今、この地球上に、果たして何人いると思いますか。

いらっしゃいませんよね。

もしもいたならば、古(いにしえ)の釈迦のような存在になっていますから。

しかし、釈迦の生きた時代と現代とは明らかに様々な状況が異なります。

ああした人は、何者にも絶対に侵(おか)すことのできない、それこそ、備え持った神通力の他に、元祖魔神ブウのような絶対的な力を持つ超常的な存在でない限りは、表舞台に立つことはできないでしょう。

そんな時代です。

だから、ああした人は、仙人のように暮らし、陰ながら、世界人類のために祈りを捧げるしかないと考えられます。

話がそれました。

中村さんは、禅定やちょっとした気持ちの切り替えによる感謝で、うまく生きることができる可能性があるかのように書いていますけど・・・。

やはり、ある程度の他力の修行をしていかないと、あるいは、していないと、ああした喜びを感じたり、感謝したり、苦しみや悩みを乗りこえることは、そう簡単にはできないとしか思えないんですよ。

なので、あそこに書いてあることは、少し楽観的にすぎるのではないか、と思えて仕方ないんです。

以上で、 Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ までを終わります。

次回、息抜きを挟んだ後は、第四章 人間関係 「シンガーラへの教え」になります。

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・暫定~ざんてい~物事が確定するまで、一時的に定めること。しばらくの間の仮の取り決め。
(用例)暫定的。暫定予算。

・意馬心猿~いばしんえん~仏教語~(馬や猿が騒ぐのが抑えがたいように)煩悩や妄念で心が迷い、抑えがたいさま。

・座禅(or 坐禅)~仏教語~禅宗などで、両足を組んですわり精神を集中させて悟りを得ようとする修行法。
(用例)座禅を組む。

・観法~かんぽう~仏教語~自分の心の中に宿る仏法の真理を観察すること。また、真理を感じ念ずる法。

・帰趨~よるべ~字引載っておらず。
何すか、これ?
失礼ながら、あんまりたいした意味がないような・・・。

(参考???)寄る辺~よるべ~頼りにして身を寄せるところ。
(用例)寄る辺のない身。
この、寄る辺、は既出しています。

・涅槃~ねはん~仏教語~①すべての煩悩を滅却した悟りの境地。
②死ぬこと。特に、釈迦の死。入滅。入寂。
この、涅槃も既出しています。

・所詮~しょせん~つまるところ。詮ずる所。
(用例)所詮だめなものはだめ。所詮かなわぬ夢だ。

・俯瞰~ふかん~高い所から広く見渡すこと。

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①追記: 2021/01/16 07:01 〜訂正内容〜

本文の内容を数ヶ所にわたり加筆・訂正しました。

②追記: 2021/01/16 13:55 〜訂正内容〜

本文の内容を一部加筆・訂正しました。

③追記: 2021/01/16 18:53 〜訂正内容〜

本文の内容を一部加筆・訂正しました。