おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

250_原仏15ー4

前回 ( 249_原仏15ー3 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第四章 人間関係 ー シンガーラへの教え

一 個別的な人間関係 からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。

(B) お釈迦さんの規定した以下の 6 つのうち、① ② ③ ④ までは済んだので、今回は ⑤ と ⑥ になります。
①東方→父母
②南方→諸々の師匠
③西方→妻子(本には妻のことしか書いてないけど)
④北方→友人・朋輩
⑤下方→奴僕(ぬぼく)・傭人(ようにん)
⑥上方→修行者・バラモン

次です。

ー 主人と奴僕・傭人の関係 ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)第五に、主人と雇われている人との関係です。

(B) 中村さんは、雇われを、傭われと書いていましたが、こんな用法は、現代では滅多に見かけないし、さして意味があるとは思えないので、雇われとしました。おまけに漢和辞典の傭を引いても傭人は出ていない有り様ですよ。

続きです。

「実に主人は次の五つの仕方で、下方に相当する奴僕・傭人に奉仕しなければならぬ。
すなわち、
(一)その能力に応じて仕事をあてがう、
(二)食物と給料とを給与する、
(三)病時に看病する、
(四)すばらしい珍味の食物をわかち与える、
(五)適当なときに休息させること
によってである。
実にこれらの五つの仕方によって主人は、下方に相当する奴僕・傭人に対して奉仕するのである。」

(A) 一見すると逆の道徳のように思われますが、自分の使用人をただ使うだけでなく、奉仕の心をもって対するというのは尊いことです。
(二)の食物と給料とを給与することに関しては、給料の遅配・欠配などはもっての他ということになります。
(三)の病時に看病するは、大体使用人は主人のところに住み込みだったので、こういうことが強調されました。

(B) なし。

続きです。

「また奴僕・傭人は次の五つの仕方で主人を愛さなければならぬ。
すなわち、かれらは
(一)(主人よりも)朝早く起き、
(二)のちに寝に就き、
(三)与えられたもののみを受け、
(四)その仕事をよく為し、
(五)(主人の)名誉と称賛とを吹聴する。
実にこれらの五つの仕方によって立派な主人は、下方に相当する奴僕・傭人に奉仕する。
また奴僕・傭人はこれら五つの仕方によって立派な主人を愛するのである。
このようにして彼の下方は護られ、安全で、心配がない。」

(以上、三二)

(A) 表面だけ従うのではなく、心から愛する気持ちが必要なのです。

(B) なし。

次です。

ー 修行者・バラモンとの関係 ー

(A) 第六の事柄として、良家の子と修行者・バラモンの間のことが出ています。

(B) なし。

続きです。

「実に良家の子は次の五つの事柄によって、上方に相当する修行者とバラモンとに奉仕すべきである。
(一)親切な身体の行為、
(二)親切な口の行為、
(三)親切な心の行為、
(四)門戸を閉ざさぬこと、
(五)財物を給与することである。
実にこれらの五つの仕方によって、上方に相当する修行者とバラモンとに奉仕するのである。
また修行者とバラモンとは次の六つの仕方によって良家の子をば愛するのである。」

(A) 当時の宗教家は、一般の修行者とバラモンの二種類だったので、それに対する道を説いています。

バラモンは、婆羅門で、主としてヒンドゥー教聖典を修め、祭りを司る僧侶またはその階級のことですが、仏教では種々の宗教の行者を隔てなく尊敬すること自体が大切だと説きます。

これに対して、精神的な指導者である宗教家、これには教師なども含まれるのでしょうが、次のようにすべきである、と言います。

(B) なし。

続きです。

「すなわち、
(一)悪から遠ざからしめ、
(二)善に入らしめ、
(三)善(よ)い心をもって愛し、
(四)いまだ聞かないことを聞かしめ(インフォメーションを与える)、
(五)すでに聞いた事がらを純正ならしめ、
(六)天への道を説き示す。
実にこれらの五つの仕方によって、上方に相当する修行者とバラモンとは良家の子によって奉仕され、
また修行者とバラモンとはこれらの六つ仕方によって良家の子を愛するのである。
このようにして彼の上方は護られ、安全であり、心配がない。」

(A) 当時の人々は、善いことをすれば、天の世界に生まれると信じていたので、そのような道を明らかにしてあげるということを説き示しました。

(B) 6 つ? 5 つじゃないの?

何だかごちゃごちゃしてよくわかりません。

今までにもありましたが、無理に数をそろえたり、韻(いんを強制的(?)に踏む形にこだわるのは無理があるような気がしないでもないような・・・。

三や五や七は、確かにそれなりの深い意味があると確かどこかで聞いたことがありますが、それにしても・・・。

まあ、いいんでしょうね。どのみち、お釈迦さんが説いたのならば。

続きです。

幸ある人、師は、このように説いたあとで、次のように説いた、


「父母は東方である。
師は南方である。
妻子は西方である。
友人・朋輩は北方である。
奴僕・傭人は下方である。
修行者・バラモンは上方である。
一族の中で有能な家長は、これらの方角を拝すべきである。」

(以下略)

(A) こういう六通りの人間関係において、本当の人間として為すべきこと、あるべき姿を実現して実践すること、それが方角を拝(おが)むということで、単に形式的に方角を拝むというのではいけない、と説いているのです。

(B) 人としてあるべきより良き道を模索する宗教家に敬意を払うのはわかるのですが、確かだいぶ前にバラモンの祭祀に疑問を抱いた箇所がありましたよね?

それとの辻褄合わせはどうなっているのでしょうか?

そんなことは、些細だから無視なのでしょうか?

中村さんの言及がまったくないので、この点は不明ですね。

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追記: 2024/04/20 14:35
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。