おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

262_原仏17ー1

Ⅱ 人生の指針 第二部 後世における発展
第六章 アショーカ王のことば ー 「岩石詔勅

アショーカ王の時代と岩石詔勅

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。また、ここでも、本の小見出しに従って、見ていく形にしたいと思います。

ー マウリヤ王朝の統一 ー

(A)アショーカ王は、紀元前3世紀の中頃にインドほぼ全土を支配したマウリヤ王朝の第三代目の王です。それ以前(釈迦の時代も同様)インドには多数の国々がありましたが、マウリヤ王朝によってはじめて統一されました。
紀元前327年から始まって、ギリシャアレクサンドロス大王、次いで、シリアの王セレコウス・ニーカトール(ニーカトールは勝利者の意)が、インドに侵攻してきました。これを迎え討ったのが、チャンドラグプタ王で、戦いの結果、講話を結びました。
条件は、セレコウス側が、今日のパキスタンアフガニスタン辺りの国々をすべてチャンドラグプタに譲り、自らの娘(王女)を人質がわりに妃(きさき)としてチャンドラグプタの都に贈るというものでした。
これに対してセレコウス側は、象500頭を貰い受けました。象は同時の古代文明においては最強の戦力です。ギリシャ軍がインド侵攻の時には、象軍に悩まされていたのです。
インドの兵法では、戦闘前に象に酒をたくさん飲ませ酔わせます。そして鞭(むち)をあてて象を敵軍に突進させて粉砕させるものです。下手をすると味方まで踏み潰すものであったようです。
セレコウスは、この象をエジプト戦線に送り大勝利をおさめています。これは西方にも影響を及ぼし、ローマの第二ポエニ戦役の時にはハンニバルが象軍を用い、ピレーネ山脈を越えてローマに侵入しました。
こうしてチャンドラグプタは、セレコウスを退け、インドほぼ全土を統一したのです。

(B)なし。

ー アショーカ王詔勅文 ー

チャンドラグプタ妃はセレコウスの王女なので、アショーカ王はあるいはその血筋を受けていたのかもしれません。とにかく、アショーカ王は、生まれながらにして、コスモポリタン的な非常に視野の広い見識を持っていました。彼は高い理想を頂く王でした。
アショーカ王は、詔勅文の形で、その言葉を多数の岩石に刻みつけています。
現在、アショーカ王の立てた柱やその断片が、26本くらい見つかっています。釈迦の生誕地ルンビニーの石柱もそうです。
また、釈迦の最初の説法地、ベナレスの郊外サールナートにも、柱が残っています。その上にあった柱頭が、サールナート博物館に保存されています。それは、アショーカ王時代の優れた技術が垣間見れるもので、四頭の獅子が背中合わせになって、四方に向かって獅子吼(ししく)しているのだと解せられ、釈迦の説法になぞらえたものになっています。下方に輪があり、これは仏教の印の法輪です。これはまたほかの宗教でも使われます。その下に逆さ蓮花(れんげ)の台座があります。これは今(今から、約33年前のこと)、インドのあらゆる政府刊行物に使われているシンボルです。公の文書には、すべてこの印がついているのです。
アショーカ王は、柱ばかりではなく岩石にも詔勅文を刻みつけています。

(B)何だか、獅子の下りは、聖書のエゼキエル書の描写に似ていなくもないような・・・。

ー 詔勅文の解読 ー

(A)アショーカ王詔勅文は、オーストリアのフルチェという学者が、研究・(英語に)翻訳して1922年に刊行しました。
この後に詔勅文が十数個発見されています。その内容は大同小異です。
アショーカ王詔勅文で一番有名なのが、デリー郊外のフィーローズ・シャーという王様のお城にあります。この王様は14世紀の人で、イスラームの帝王です。今は廃墟になっていますが、昔は立派な宮殿兼要塞であったと思われます。この王様が150マイル離れたトープラーという村を旅行中にこれを見つけて、自らの城の飾りにしようと運びました。これは大変な作業で、柱をいきなり倒して割らないために、大きな車をたくさん用意してそれに綿をたくさん積んで、その上に少しずつ倒して載せるようにしたそうです。そして車にたくさんの縄をつけて、一度に8,400人の人夫が綱を引っ張った記録が残っています。
その柱の表面に書いてある文字を知りたくなった王様は、二人のバラモンの学者に尋ねたところ、碩学のために読めないとは言えないので、「王様。わかりました。ここにはこう書いてございます。未来の世の中にフィーローズ・シャーという偉大な帝王が現れて、この柱を動かすまで何人も動かし得ないであろう、という予言が書いてございます」と答えたと伝えられています。
実際に詔勅文を読んだのは、イギリス人のプリンセップという学者でした。今日ではアショーカ王詔勅文は一応解読はされていますが、その内容については、まだ、学者の間で色々と意見が分かれています。
詔勅文は当時のインドの言葉で書かれているものばかりではなく、アフガニスタンからはギリシャ語で書かれたもの、また、当時の商用語のアラメア語で書かれたものも見つかっています。ですから、彼の帝国は非常に国際的であり、彼自身は高い理想を抱き、広い視野を持っていたと言えます。
この詔勅文のうち、重要と思われる箇所を読んでいきたいと思います。

(B)なし。

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詔勅~しょうちょく~天皇の意思・命令を表示する詔書・勅書・勅語などの総称。

詔書~しょうしょ~国会の召集など、天皇の国事行為に関する言葉を記した公文書。

・講和~こうわ~交戦国が条約を結び、戦争をやめて平和な状態を取り戻すこと。
(用例)講和を結ぶ。

コスモポリタン~全世界と全人類を一つのものと見なして行動する人。世界主義者。また、国際人や、世界を広くわたり歩いている人などにもいう。世界市民

・法輪~ほうりん~仏教語~仏の教え。仏法。仏の教えが悪をくじき、それが他に伝わっていくのを、車輪が動くのにたとえた語。

・大同小異~だいどうしょうい~細かい点は異なるが、大体同じであること。大差ないこと。似たり寄ったり。
(用例)どれも大同小異だ。

碩学~せきがく~学問が広く深いこと。また、その人。大学者。大家。

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追記: 2021/02/02 21:35 〜訂正内容〜

注釈を追加しました。