おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

264_原仏17ー3

263_原仏17ー2 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第六章 アショーカ王のことば ー 「岩石詔勅」の
アショーカ王のことば です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。また、ここでも、本の小見出しに従って、見ていく形にします。

ー 理想を説く ー の続きです。

(B)アショーカ王は、それまでのヴェーダ祭典での生け贄(いけにえ)としての動物の殺傷行為を極限まで減らしたという点からすれば、きわめて異例で、慈悲深い王ということになるでしょう。

しかし、中村さんもまったく説明がないのでわからないのですが、インドで愛される動物だった鹿を、神に供物(くもつ)として捧げるとは、一体、どのような意味なのか。

私には、きわめて理解しにくいというか、はっきり言ってわからない。愛している身近な動物を死なせるんですよ。そんなことをしたくないのが普通でしょうに。

仮に、家でペットとして可愛がっている、犬やネコやインコを、神様への捧げものだからと、殺されても構わないと簡単に差し出すことなどできますか?

これは、極端なたとえですが、言っていることの本質は同じですよ。

神様の罰(?)が怖いから、背に腹は変えられないから仕方なしにですか?

そんな信仰なら、その信仰そのものに疑いを持たざるを得ない。

慈悲という発想、生け贄をやめるという発想の根底には、人間、なかんずく、生きとし生けるものの命を、やみくもに他者が奪ってはいけない、という判断が前提としてある。

これこそが、善なのだ、人としてあるべき姿なのだ、と無意識にわかっているからこそ、そう考えるという結論にならざるを得ない。

孔雀(くじゃく)は、肉に不思議な力があるから、犠牲として選ばれてくれ。

そう言っているのと同じですよ、あれは。

神様のお気に召す(?)不思議な神通力(?)があるから、孔雀さん、あんたは涙を飲んで、(人々に愛されている鹿以外の)すべて生き物の代表として犠牲になって下さいな、と言っているんですよね?

犠牲を極力減らす代わりに、愛している生き物を、あるいは、不思議な力を持つ珍重される生き物を捧げますから、どうか一つ、ここで手を打ってくれませんかねえ、神様。

と読めなくもない。

もちろん、アショーカ王は、懺悔深く、画期的で、偉い人だったのでしょうが、何か、釈然としないんだよなあ。

中村さんも、まったくと言っていいほど説明がないし。

古来から現代まで、肉体人間は、五感にまつわる各種の欲望を求めてばかりで、真善美に悖る想いと行いばかりを重ねている罪深い存在だ、罪悪深重の凡夫だ、だから、色々と償わなければならない一環として、神様に許してもらうための言い訳として、動物を生け贄に捧げるんですかね?

まあ、現代を見る限りでも確かにこれは・・・、と思うことがありますからね。

生け贄や戦争ほどの極端にひどいものではないものの、世の中をリードする、世の経済を回すような人が、これはちょっとないんでないの?っていうのが、いくつもありますから。

例えば。

婚活スパルタ教師みたいな人の場合。この人は、女性が30過ぎで男も知らないなんて気持ち悪いと言っていた。

こういう貞操観念を持っている人が、バリバリのキャリアを持ち、なおかつ、現在スパルタ教師のように活躍しているようです。

あの人は、古の仏教の出家修行者がセックス禁止で、これを破れば教団追放だったこと、そして、在家でも不邪淫戒のあったことをご存知ないか、何とも思っていないのかな?

世の婚活世代やそれ以下の若い世代を導く人があの霊性では・・・。

しかし、これが世の中、世の現実なんですね。

すべてのすべてではないにしても、間違いなくこうした事実がある。

また、別の話では。

現代の婚活女性は、若くて優しくて優秀でイケメン、高収入を求めるようですが、実際にこのような要件かこれに近い要件を満たしている人は、既婚を隠すか、未婚でも、絶対に女性を単なる遊び相手以下にしかしない男性が少なからずいるようなんですね。

女性のほうは、そんな実態も知らずに、若くて優しくて優秀でイケメンを相も変わらず理想にしている。

経済を回し、一千万かそれ以上の稼ぎのある男性がこんな霊性しかないのか、と愕然としますが、仕方ないですね。

彼らは、よほど魂の学習のように、不可抗力で抗えない苦しみを経験しないと、霊性の意味を理解することはないでしょう。

とはいえ、彼らが、過去世の因縁を果たすためにあのような想いと行いをしているのかどうかは、残念ながらわかりませんが。

あれらが彼らの過去世の因縁の発現でないなら、彼らには来世以降にみっちりと修行をしてもらうことを陰ながら期待するしかないですね。

善でないものが栄えまくることや、こうしたお花畑物語を木っ端微塵に粉砕されるような現実を嫌というほど見せつけられても・・・。

それでも、投げやりになり、神様なんかいるものか、と捨て鉢にはならずに、あくまでもすべては現世で時を経て消えてゆく姿だと言い聞かせて、祈りをしていくしか、神様を信じたい人間には救いはないですからね。

やっぱり、神様を信じていくしかないとあきらめた(?)者の立場から言わせてもらうと、せめてわかった人から、祈りをしてほしいんだけどなあ。

道ははるか彼方(かなた)に思えても、可能性はほとんどないように思えても、地道に少しずつ祈るしかないとご理解頂いて。

ー アショーカ王の悔恨 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)続いて、岩石詔勅の第十三章を読んでみましょう。

(B)なし。

続きです。

神々に愛せられた温容ある王は、即位灌頂(かんじょう)から八年だってのちに、カリンガ国を征服した。そこから捕虜として移送された人々は十五万ほどの数である。またそこでは十万ほどの数の人々が殺され、その幾倍もの人々が死んだ。それから以後、今はカリンガ国はすでに領有されているから、熱烈なる法の遵奉(じゅんぽう)、法に対する愛慕(あいぼ)、法の教えさとしを神々に愛せられたる王は行っている。

(A)即位式バラモン教の儀式によって行われました。古代インドの即位式は、頭上に水を注ぐ、つまり水瓶の中に水を入れ、それを王位に即(つ)く王の頭上に注ぐのです。この儀式を灌頂といいますが、後に真言密教に採り入れられて日本にも渡来しました。そうした訳で、日本でも真言密教で灌頂を行い、また、宮廷でも行われたことがあります。
現代では、1975年にネパールで即位式があり、その時には16の川から神聖な水を集めて水瓶の中に入れ、それを新たに即位する王の頂きにバラモンが注ぎました。ですから、アショーカ王の頃から現在に至るまで、この儀式は続いているのです。
カリンガ国は、現在(今から約33年前)のインド東海岸のオリッサ州のあたり、カルカッタの西南に位置し、ベンガル湾に面しています。そこだけがマウリヤ王朝の支配下になっていなかったために、そこを征服したのです。
なぜ、移送されたかというと、奴隷としての労働力を利用したのだと思われます。アショーカ王の政治というものは、法の理想に基づくものでした。人間にも理法があるように、国にも守るべき法(のり)があるはずで、それに基づいて政治を行うのがアショーカ王の理想だったのです。

(B)ちょっと、何となく思ったんですけど。

捕虜としての移送人数の約15万人や、ここで殺された人々が約10万人、さらに戦争による被害者はその何倍にもなるとされていますが、どうやって数を特定したのでしょうか。

たとえ、大まかにしても。

かなり昔なので、被害を受けた人々が大量だとはわかっても、どのように数えたのでしょうか。

そうした、記録があったのでしょうか。

ふと、そんなことを感じました。どうやって数えたのかな、と。

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・木っ端~こっぱ~①木の切れ端。
②(名詞の上について)取るに足りないつまらないものの意を表す。
(用例)木っ端役人。

・木っ端微塵~こっぱみじん~粉々にくだけ散ること。こなみじん。
(用例)ガラスが木っ端微塵に割れる。木っ端微塵にやっつける。

・悔恨~かいこん~してしまったあやまちをくやむこと。後悔して残念に思うこと。
(用例)悔恨の情にかられる。

・愛慕~あいぼ~愛し慕うこと。
(用例)愛慕の情。

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追記: 2021/02/05 12:43 〜訂正内容〜

本文と注釈を加筆・訂正しました。