おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

268_原仏17ー7

前回 ( 267_原仏17ー6 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第六章 アショーカ王のことば ー 「岩石詔勅」の
アショーカ王のことば です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

ー すべての宗教の承認 ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)さらに、アショーカ王は、一切の宗教の存在意義を認めました。彼はすべての宗教の本質を増大するようにということを目指し、それを岩石詔勅 第 十二 章で説いています。

これは今後の世界の進みゆく方向づけとして非常に重要な意義をもっています。次に、その全文を紹介しましょう。

(B) なし。

続きです。

神々に愛せられた温容ある王は、
出家者と在家者との一切の宗教を施与によって崇敬し、
また種々の崇敬をもって崇敬する。

しかし神々に愛せられたる王が思うに、すべての宗派の本質を増大せしめようとすることのように、
かくも優れた施与または崇敬は他に存在しない。

すべての宗派の本質の増大は多種の方法によって起こるけれども、
その根本となるものは、
言語を慎むこと、
すなわち不適当の機会において専ら自己の宗派を賞揚し、
または他の宗派を非難してはならぬこと、
或いはそれぞれの機会において温和なるべきことである。

さればこそ各自は互いにそれぞれのしかたによって他の宗教を尊敬すべきである。

もしも互いにこのように為すならば、自らの宗教を増進せしめるとともに、他の宗教をも助けるのである。

このようにしないときは自らの宗教を害(そこな)い同時に他の宗教を害する。

何となれば、全くみずからの宗教に対する熱烈な信仰により、
「願わくは自己の宗教を輝かしめよう」
と念じて、
自らの宗教をのみ賞揚し、
或いは他の宗教を非難する者は、
こうするために、却(かえ)って一層みずからの宗教を害うのである。

故に専(もっぱ)ら互いに法を聴き合い、またそれを敬信するためにすべて一致して和合することこそ善である。

けだし神々に愛される王の希望することは、
願わくはすべての宗教が博学でその教義の善きものとなかれし、
ということだからである。

それぞれの宗教を信じている人々には、次のように告げなければならない。

神々に愛せられたる王は思うのであるが、ひとえに一切の宗教の本質を増進せしめるほどの施与あるいは崇敬は世に存在しない。

そうしてこのような目的のために、多くの教法大官・婦人を監督する大官・飼獣苑官ならびに他の部局の人々が事をつかさどっているのである。

こういう訳で、それの結果は、各自の宗教の栄えること、また法の輝くことである。

(岩石詔勅 第 十二 章)

(A) アショーカ王は、仏教信仰に燃えていましたが、決して他の宗排斥するようなことはありませんでした。

他の宗教に対しても同様に援助していました。例えば、特別に宗教事項を扱うための教法大官という役人をつくっています。そしてあらゆる宗教が仲良く栄えるようにと願っているのです。

右の詔勅文でも、各宗教、各宗派は争ってはいけない。互いに法を聴き合い、また、それを敬い信じるために、すべて和合することこそ善である、と和合という言葉を使って表現しています。

こうした態度を示したことは、仏教信仰の念においては弱かったのではないかという懸念や、批判も出てくるのですが、しかし、最初期の原始仏教聖典に出ている仏教の教えは、他の宗教、宗派を自分と対立させようとは思っていないのです。

すべてを客観的に見て、なぜそのような教えが出てきたかを、よく見て冷静に評価して、それぞれを生かす、そこに仏教の本質があると見ていました。

このことからもアショーカ王が、初期の仏教の精神を生かしているといえましょう。

(B) なし。

というか・・・。

以下に書くことは、身の程知らずの未熟者の戯れ言として、あらかじめ、平にお許し願います。

無茶苦茶を書きますので。

春雨サラダ様ごめんなさい。

以下はお読み頂かない方がよろしいかと存じますので。

本当に申し訳ございません。

ただ、私は誰にでもわかりやすく、広く理解すべき内容を書きたいと、至らぬながらも力を尽くして来たつもりです。

その立場からすると、あれはちょっとひどい。

アショーカ王は、確かに画期的な王様だし、偉いと思う。

やること(戦争と征服)はやってしまっても、懺悔をしないより、した方がはるかにマシだし、とにかく、人に物に動物にと、様々に尽くした行動は、わざわざ石碑に遺すまでもなく、記念碑的だとさえ言える。

しかし、あの文章は、もう少し何とかなりませんか?

あれでは、子供がまともに読めないし、学習が嫌いな根気のない者が見たら、投げてしまいますよ(私は自分がそうだったからよくわかるんです)。

通読した時には、いい加減にしたけど、やっぱり、まともに読むとなると、もう、どうにもならない。

(下記にもある通り)偉い学者さんが、各国語に翻訳して広めたいと頑張っていたんでしょう?

しかし、あの文章をまともに読んで、本当に何とも思わなかったんですか?

崇高で立派な理念が含まれているから、広く読んでもらいたいんでしょう?

だったら、せめて意訳するなり、簡にして要を尽くした、別の要約文書を添えるべきです。

残念なことに、肉体人間には寿命があり、この世にいる時間が限られているんですよ。

無駄なことに時間を費やすべきではないんです。

内容が大事で、遊興事じゃないんだから。

あえて言わせてもらえば、博学云々なんてどうでもいいんです。

エスが何と言った、お釈迦さんが何と言った、お弟子さん達がどこで何をしたかさえどうでもいい。

小難しい仏教の用語、理論、理屈・・・。

やりたい人は、どうぞ、高尚な趣味として、遺憾なく楽しんで下さい。

どうでもいいんだ、もう。

そんな幅広い知識が、いかに広く深くとも、実際の想いと行いに反映されなければ、活かされなければ、絵にかいた餅で、何にもならなくなってしまうからです。

残念ながら、あそこに書いてあることは、理想にも見える。

すべての宗教を互いに尊重し合い、かつ、それが深まって、一つの理想的な形に融合していくかのようなことは、まずあり得ないと思います。

そもそも、他宗を排斥しない宗教が今までどれだけあったのでしょうか。

現に、仏教は、13 世紀に本国インドでイスラム教という他宗教に実質的に滅ぼされた。

まるで掃討のような形で。

そういうことをする宗教=イスラム教が他に厳然としてあるんですよ。

だから、仏教徒はあんな無惨な目に遭(あ)った。

ただし、無抵抗という意味では、他とは異なり寛容であることを証明した形にはなりましたが。

仏教それ自体でさえも、世の中の流れから、修行生活による霊性の開発が難しくなり、考え方も分かれて、宗派が様々に分かれている。

だから、お釈迦さんの考え方や生き方を参考に、私達が生きていくよりどころとしていくためには、わかりやすいこと、短く、簡潔なことは不可欠だと思うのですよ。

従って、長いもの、わかりにくいもの、は適当だとは考えられないんですよ。

もちろん、想いや行いができていれば、その上で、宗教的な知識や説話や参考になる話はいくら知っていても、構わないと思いますけど。

で。

具体的にいきます。

訳の問題だか、何だかわかりませんが、もう少し、明快にわかりやすく、かつ、すっきりとした文章というか、文体にはできなかったのでしょうか。

お世辞にも読みやすい文章とは思えないし、冗長である上に、何が書いてあるのかきわめてわかりにくい。

わかりませんよ。

もう、本当に、勘弁して下さいという文章です。

まず、のっけから、崇敬、崇敬、崇敬と 3 回も不必要に重複しているように見える。

施与によって崇敬する?

崇敬をもって崇敬する?

何言ってんだか、訳わからないよ。

勘弁してほしい。

せめて、逐条解釈のように、中村さんに解説してもらわないと、理解できませんよ。

すべての宗派の本質の増大は多種の方法によって起こるって何ですか?

さらに。

その根本となるものは、言語をつつしむこと、すなわち不適当の機会において専ら自己の宗派を賞揚し、または他の宗派を非難してはならぬこと、或(ある)いはそれぞれの機会において温和なるべきことであるって・・・。

宗教の宗派の本質を増大するだとか、施与によって崇敬するだとか、意味不明とまでは言わないが、あまりにもわかりにくすぎます。

元のインド語では、もしかしたら、もっとすっきりして明解な文章だったのかもしれない。

しかし、あれでは・・・。

中村さんも、下記にあるように、きわめて高い評価をしているのだから、あのわかりにくく、漫然とした文章には、明らかに手を加えるか、もっとわかりやすい解説をつけるべきでした。

非常に残念です。

次です。

ー 現代における意義 ー

(A) また、これは今から 2300 年も前に説かれた教え、思想ではありますが、ある意味で非常に現代的な意味をもっていると思います。

今後、世界が一つになり、人々が協力しあって生きていかなければならない、その時に、宗教が違うといって争ったり、あるいは、イデオロギーが違うといって争っていたのでは、世界の平和は永遠にきません。

この点で、哲学者の中に注目すべき人がいます。国際哲学学会の名誉会長であるクリバンスキーという人は、ユネスコの援助を得て、アショーカ王詔勅文を世界中の言語に翻訳する努力をしています。

つまり、いろんな学者に頼んでアショーカ王詔勅文を十数ヵ国語に翻訳しているのです。このことは、今までの世界の支配者、帝王の中で、将来人類の必要とする寛容の精神を具現しているという点において、アショーカ王に及ぶ人はいない、これをこそ生かすべきであるという考えからでした。そこで、ユネスコの当局者の協力を得たのです。

これは、アショーカ帝国の国際的性格と表裏の関係にあります。すなわち、アショーカ王の当時にも、やはり、国際的に、あちらこちらに詔勅を徹底させる必要があったのです。

ことに、アショーカ王は、ヘレニズム世界に使者を送っています。その証拠として、先に触れた、最近アフガニスタンで見つかった、ギリシャ語とアラメア語で書かれたアショーカ王詔勅文があります。それ以前までに見つかっていたのは、インドの言語で書かれたものだけでした。ところが、このギリシャ語とアラメア語の二つの言語で書かれた詔勅文の破片が見つかったのです。

ということは、当時の国際語であったギリシャ語とアラメア語を使って、アショーカ王は自らの理想を広めようとしていたことがわかるのです。そこには、それぞれの国にもいろんな事情があるかもしれないが、高い法の下(もと)に一つになろうではないか、という呼び掛けが書いてありました。

アショーカ王の時代には、うまくいかなかったのかもしれませんが、こうした試みがなされて、うまく成功するかどうかは今後の問題です。これは、是非、実現されねばならないことでしょう。

(B) なし。

以上で、
Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第六章 アショーカ王のことばー「岩石詔勅」 までを終わります。

次回、息抜きをはさんだ後は、
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 からになります。

~~~~~

・温容~おんよう~おだやかでやさしい顔つき・ようす。温顔。
(用例)師の温容に接する。

・施与~せよ~人に品物を恵み与えること。また、その品物。

・崇敬~すうけい~あがめうやまうこと。
(用例)崇敬の念。

・宗派~しゅうは~①同じ宗教の中での分派。
②流派。流儀。

・賞揚~しょうよう~ほめたたえること。ほめあげること。
(用例)善行を賞揚する。

・温和~おんわ~①性質がやさしくおとなしいさま。
(用例)温和な人柄。
②暑さ・寒さが厳しくなく気候のおだやかなさま。
(用例)温和な気候。
(参考)
・温良~おんりょう~人柄などがおだやかで素直なさま。
(用例)温良な性質。

・願わくは~願うことには。どうか。願わくば。
(用例)願わくはお許し頂きたい。
(語源)文語動詞「ねがふ」のク語法+係助詞「は」

・敬信~字引載っておらず。

・和合~わごう~仲良くすること。
(用例)夫婦和合。

・博学~はくがく~広く学問に通じていること。また、そのさま。
(用例)博学多識。博学な人。

・苑~えん~①その。草木を植えた庭。
(用例)御苑(ぎょえん)。禁宛。廃宛。
②囲いを設け、鳥獣を飼う所。
(用例)鹿宛(ろくえん)。
③物事の集まる所。文学者・芸術家の仲間・社会。
(用例)芸宛。文宛。

・部局~ぶきょく~①官公庁や会社などで、事務を分担してそれぞれ取り扱う所。局・部・課などの総称。
②一部分。局部。

・なかれし~字引載っておらず。

・戯れ言~ざれごと~ふざけて言う言葉。冗談。
(参考)・戯れ事~ざれごと~ふざけてする事柄。冗談事。

・懺悔~ざんげ~自分の過去の罪悪を悔い改め、神仏や人に告白すること。
(参考)仏教では「さんげ」と言う。

・遊興~ゆうきょう~遊び楽しみこと。特に、酒色に興じること。
(用例)遊興費。遊興にふける。

・掃討~そうとう~敵や賊などをすっかり打ち払うこと。すっかり払い除くこと。
(用例)掃討作戦。

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追伸

あんなに散々文句ばかり言って、じゃあ、それならお前はどう解釈するんだ? ときかれた時のために、拙(つたな)いながらも、自分の理解し得た範囲であの文章を翻訳というか、意訳しておきます。

〈意訳文〉

一国を治める君主または王としてあるべき者は、仏教などの人の道を求める出家信者と在家信者を、可能な限り援助して、尊重すべきである。

私(アショーカ王)としては、これ以上の人としての道を求める宗教信者(信仰者)への援助はないと考えている。

すべての道を求める宗教信者は、様々な方法によってその勢力拡大をはかるが、その基本姿勢は以下のようにあるべきである。

①他宗を批判し、責め裁くような言動は厳に慎むこと。

②自らの宗教の自画自賛をして、高慢にならないようにすること。

③各宗教の話し合いや交流には、つとめて温和な態度を貫くこと。

以上によってこそ、それぞれの宗教は互いに自らを高く評価できるであろう。

そうすることが、それぞれの宗教の教えの拡大や発展にも寄与し、さらには互いに影響し合い発展することにもなるであろう。

また、自らの宗教を熱心に信奉するのはよいが、そのあまり、他の宗教を批判し、責め裁き、排斥することは、自らの宗教をかえって損なうことになると強く自覚すべきである。

それぞれの宗教をあがめるすべての人々が、一致して、しかも調和することが望ましいことであり、善なのであるから、私(アショーカ王)は、それぞれの宗教の便宜をはかり、各種の地位や身分の保証制度を設けて、整えているのである。

こうしたことこそが、それぞれの宗教が栄え、法となる人の正しい生き方を求める宗教のあり方が、輝く道であるのだ。

私が、あのわかりにくい文章を、勝手に意訳して、改竄すると、大体、以上のようになります。

お見苦しい文章で、大変失礼致しました。

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追記: 2024/04/21 15:43
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。