前回 ( 280_原仏18ー9 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。
二 ナーガセーナとの対話
ー 究極の理想の境地 ー
(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)その他、色々なことが論じられています。
例えば、「涅槃に入る」とは、何かが論議されています。
(B)
続きです。
「尊王(?)ナーガセーナよ、涅槃とは止滅のことなのですか?」
「大王よ、そうです。涅槃とは止滅のことです。」
「どうして涅槃が止滅なのですか?」
「すべての愚かなる凡夫は、生まれ・老い死ぬこと・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えから解脱せず、苦しみから解脱していません。
大王よ、教えを聞いた聖なる弟子は、何ごとにも歓喜せず、執著していません。
この時、彼には愛執が滅び、愛執が滅びるがゆえに執著が滅び、執著が滅びるがゆえに生存一般が滅び、生存一般が滅びるがゆえに生まれが滅び、生まれが滅びるがゆえに老い死ぬこと・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えが滅びる。
このようにしてこの全き苦の集まりが滅びるのである。
大王よ、こういうわけで涅槃とは止滅のことなのです。」
(第 一 篇 第 四 章・第 七)
続きです。
(A) 涅槃(ニルヴァーナ)とは、これまでもたびたび出てきましたが、仏教が興(おこ)った時代にどの宗教でも使っていた言葉なのです。
つまり、理想の境地を言います。
理想の境地は、いかなるものかを追究した中で、ある人々は、快楽を追究するのが理想だと思い、またある人々は、人間の一切の感情や欲望を鎮(しず)めてなくすことが理想だと思いました。
後者の傾向の方が、インドの宗教一般としては強かった訳です。
そして、元の語義から見ると、否定的な意味が強かったと言えるでしょう。
ニルヴァーナのニルは否定的な意味です。
ヴァーナはよくわからないのです。
色々と解釈されますが、やはり、我々は束縛されている存在で、そこから出て行くということを意味するのです。
次に、王は、「すべての人が涅槃を得ることができるか」と問います。
(B)
続きです。
「尊者ナーガセーナよ、すべての人が涅槃を得るのですか?」
(A)すると、ナーガセーナは次のように答えます。
(B)
続きです。
「大王よ、すべての人が涅槃を得るのではありません。
しかしながら、大王よ、正しく道を行い、熟知すべき法を熟知し、完全に知るべき法を完全に知り、断ずべき法を断じ、修すべき法を修し、現証すべき法を現証する人は、涅槃を得るのです。」
「もっともです。尊者ナーガセーナよ。」
(以上、同・第 八 )
続きです。
(A)ここでは、もしも真剣に仏道の実践をするならば、いかなる人でも救われる。
救われない人はいないはずだ、という根本的な立場が表明されています。
(B)
続きです。
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、まだ涅槃を得ていない者が、「涅槃は安楽である」ということを知っているでしょうか?」
「大王よ、そうです。まだ涅槃を得ていない者が「涅槃は安楽である」ということを知っているのです。」
「尊者ナーガセーナよ、どうして、まだ涅槃を得ていない者が「涅槃は安楽である」ということを知っているのですか?」
続きです。
(A) ナーガセーナは、逆に王に問います。
(B) なし。
続きです。
「大王よ、あなたはどうお考えになりますか?
手足をまだ切断されたことのない人々が「手足を切断することは苦である」ということを知っているでしょうか?」
「尊者よ、そうです。彼らは知っているでしょう。」
「どうして、知っているのですか?」
「尊者よ、他人が手足を切断されたときの悲痛な声を聞いて、「手足を切断されたことは苦である」ということを知るのです。」
「大王よ、それと同様に、(まだ涅槃を得ない人々でも)、涅槃を体得した人々の声を聞いて、「涅槃は安楽である」ということを知るのです。」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ。」
(以上、同・第 九 )
続きです。
(A) つまり、その境地(涅槃のこと)に達していなくても、心の落ち着いたすがすがしい境地に達した人に会えば、自然に「あの人の境地はまことに慕わしいものだ」と我々でも感じるように、同時にその究極の境地が願わしいものだと知ることができるというのです。
これは、今日の私達にも非常に訴えかけるところがあると思います。
ことに、まだ涅槃を得ていない人でも、涅槃を体得した人々の声を聞いて、涅槃は安楽であると知る。
現代でも、宗教的実践に徹している方にお会いしていますと、何かしらそこに感じるものがあるのです。
こちらでは(そういった境地)を得ていなくても、あの方はそうした境地を得ておられると思って非常に慕わしくなりますね。
また、特に宗教的実践ほど難しいことではなくても、ごく平生お会いしている方々の中に、それぞれの人柄といいますか、持ち味というものがあります。
あの人のああいう気持ちはいいなということを感じます。それを、ここでは宗教的な形で述べているのではないかと思うのです。
(B)
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追記: 2021/02/23 06:38
追記: 2024/04/24 21:33
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。