おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

282_原仏18ー11

281_原仏18ー10 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 解脱 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様) 解脱の状態については、さらに突っ込んで論議されています。

(B)なし。

続きです。

「尊者ナーガセーナよ、涅槃を得た人は、なんらかの苦しみを感じますか?」
「ある種の苦しみを感じ、またある種の苦しみを感じません。」
「何を感じ、何を感じないのですか?」
「大王よ、肉体的な苦しみを感じ、心の苦しみを感じないのです。」
「尊者よ、どうして肉体的な苦しみを感じるのですか。またどうして心の苦しみを感じないのですか?」
「肉体的な苦しみを感じるための因と縁とがなくならないかぎり、肉体的な苦しみを感じ、また心の苦しみを感じる因と縁とがなくなるがゆえに、心の苦しみを感じないのです。大王よ、世尊(釈迦のこと)はこのことを説かれました。「彼はただ一種の苦しみのみを感じる。すなわち肉体的な苦しみのみを感じ、心の苦しみを感じない」と。」
「尊者ナーガセーナよ、苦しみを感じるその人が、なにゆえ完全な涅槃に入らないのですか?」
「大王よ、聖者(阿羅漢)には愛好もなく、嫌悪もない、聖者は未熟なる(果実すなわち身体)を落とすことがない、賢者は(それが)成熟して(脱落するのを)待つのである。」

続きです。

(A)業の成熟する因縁を待つというのです。
ここで、ナーガセーナ長老は、経典のうちの古い詩の文句を引用します。

(B)

続きです。

「大王よ、サーリプッタ長老によってこれが説かれました。
われは死を喜ばず、われは生を喜ばず、あたかも雇われ人(びと)が賃金を待つがごとくに、われは時の来たるを待つ。
われは死を喜ばず、われは生を喜ばず。正しく意識し、心に念じて、われは時の来るを待つ。
と。」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ。」

(以上、第一篇 第二章・第四)

続きです。

(A)今、読んだパッセージ(またこんな言葉を使う・・・)の内容に付随して説かれていることですが、悟った人はなぜ完全な涅槃にすぐ入らないか、あるいは、何もかも苦しみがなくなれば、存在も消えてしまうのではないか、という疑問を向けられた訳です。それに対する答えは、我々の、ことに修行を完成した人の生存というものは、果実のようなものだというのです。果実が出てくるのは、色々な因縁があって、そして実がなる訳でしょう。
それと同じように、我々がこの世でこうして生きているのは、過去から、あるいは目に見えない色々な因縁が織りなされて、そしてここに我々は現れている訳です。因縁の続いている限りは、我々は生存している。因縁がやがて解きほぐされると我々の存在も消えてなくなる。それに対して決して無理はしない。因縁の存在する限りは生きながらえる。生を願わず、死を願わず、与えられたものを与えられたものとして生を頂いて楽しんでいく。そういう気持ちなのです。無理して早く自殺するというようなこともしない。また、やたらに不老長寿ばかりを求めて長生きをはかろうともしない。水が流れるようなサッとした気持ちで生きていく。それを目指しているのだろうと思います。
「生を喜ばず、死を喜ばず、生を悲しまず、死を悲しまず」という淡々たる気持ち、それが解脱である、となるのだと思います。
そこで、この議論を突き詰めていって、解脱においては心の悩みはないけれども、体の悩みは別になくなる訳ではないと言っています。
これは非常に合理的で徹底した説明です。初期の仏典を見ると、涅槃、ニルヴァーナの説明はあるのです。そこでは、(涅槃のことを)苦しみがなくなるとか、すがすがしいとか、涼しいとか、清らかだとか、安楽の楽しい境地であるとか、いう訳です。
しかし、具体的にどういうことかは深くは追究していない。それでインド人は非常に空想して物事を考えて、遠くに思いを馳せる訳です。だから、あまり分析的な論議をすることをしなかった訳です。
ところが、ギリシャ人の合理的思惟によって質問を向けられた。そこで考えてみると、なるほど、悟った人だって、棘(とげ)が刺さればやっぱり体は痛い。だから、身体の苦痛は残る。しかし、精神の苦しみはなくなっているのだ、と示す訳です。つまり、問答、ダイヤローグ(また、こんなことする・・・)によって、その点がはっきりさせられたと言えるのではないでしょうか。これは、つまり、対話によって、異質な考え方をぶつけられたためだ、ということではないでしょうか。
つまり、悟りを開いても、あるいは解脱をしても、(肉体人間として)生きている限りは、少なくとも肉体的な感覚はちゃんとある、痛いものは痛い、と。
こうはっきり言ったのは、仏典ではここが最初ではないかと思います。古い仏典を見ると、悟った修行者の生活や感想が色々とでていますので、それを論理的に分析すれば、このようになると思われますが、インド人は、あまりそういうことを分析しないで、現実と空想の世界が何か続いていたように考えて楽しんでいた、という面もあるのです。ところが、この対話においては、考え方が非常に現実的になっています(何を言っているのかわかりません)。

(B)

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追記: 2021/02/24 02:52 〜訂正内容〜

本文を加筆しました。