おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

283_原仏18ー12

282_原仏18ー11 の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 念仏 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様) このように、色々なことが議論されていますが、日本人にとって興味あることの一つは、念仏が論議(直前の議論とどう違うんだ?)されていることです。
念仏によって救われるとどうして言えるのか。王はききます。

続きです。

「尊者ナーガセーナよ、あなたがたはこのようにいわれます。
ー「たとい百年間も悪を行っても、臨終に一たび仏を念ずることを得たならば、その人は天上に生ずることができるであろう」と」(しかし私はそんなことは信じません)。
「またあなたがたはこのようにいわれます。
ー「ひとたび殺生を行ったならば、地獄に生まれるであろう」と」(こんなことも信じません)。

続きです。

(A)これに対して、ナーガセーナは反論します。

(B)

続きです。

「石を水の中に投げこんだら石は水の中に沈むでしょう。しかし石を舟の上に乗せてごらんなさい。すると石は浮ぶじゃありませんか。大きな牛でも舟に乗せると浮ぶ。それと同じように念仏の行いというのは功徳のあるものであって、不思議な力を持っているのです。だから過去に悪を行った人でも、仏さまを念ずるというその行いによって人は救われるのです。」と。

(以上、第一篇 第七章・第二)

(A)仏さまを念ずるということは、仏教で最初から説くことです。(?) そして、それは功徳があると考えられています。(?) それで念仏によって罪が救われるという考え方もだんだん出てきた訳です。(?) けれども、念仏によって救われるということがギリシャ人には理解しがたかったのではないでしょうか。
この議論はずっと続くのですが、彼(ナーガセーナのこと)は善業の力は、悪業の力より強いと考えていました。
悪人がいることは確実に認めますが、こうしたどんな悪人でもやがて救われる可能性があり、それを救ってくれるのが仏の慈悲だと考えているのです。そうした見解がここにも(?)反映されています。
ミリンダ王がナーガセーナと議論をしたものは、まだこの他にも色々とあります。インド人一般の宗教聖典と同様に、ことに仏典の記述には、非常に誇張した表現が出てきます。空想的な説き方もあります。
ミリンダ王は、これらを「わしには信じられん」というのです。ミリンダ王は、三十二相が信じられないとも言っています。仏さまに三十二の色々な立派な特徴があるという、あの信仰をどうしても信じられないと質問する場面が、この書物(ミリンダ王の問いのこと)の中にも出てきます。
これらの対話を、今日の問題と考えてみますと、宗教の伝統が確立されているところならば、経典に説かれていることだけですべて受け入れられる訳です。ところが、今日のように色々異質的な人が対立して争っているとき(?)には、ただお経に書いてあるからというだけではだめなのです。どこまでも合理的に考えて、自分で納得しなければ人は受け入れない訳でしょう。納得してもらうように説くためには、この「ミリンダ王の問い」は、実に教えるところの多い経典だと思います。

(B)

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これで本の一通りは終わりです。
縁起や無我を含めて、いまだに書き方を決めていない(空欄にしてある)ものは、おいおい書いていくつもりです。
ちょっと、注釈をはしょったものもありますので、読み返しながら、適宜、追加していこうと思います。
なお、本の末尾に中村さんのお弟子さんの解説があるので、息抜きをはさんで、もし気が向いたら適当に触れてみたいと思います。
いい加減ですみません。

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