前回( 284_拘泥 )因縁因果について、脅しのつもりではないのだが、まずい書き方をしたので補足をしたい。
ハートカフェ や パウラちゃんねる にアラサーやアラフォーのわがままな女性達に対して、コメントとはいえ、彼女達をひどく蔑んだ言葉を投げつけてしまうと、それらの言葉は、真善美に悖る言葉に他ならず、過去世の因縁によるものでない限り、輪廻転生を通してすべてご自分に返ってきますよと書いたくだりのこと。
まず、その前に。
因縁因果についておさらいをしておきたい。
これは話が外れることなのだが。
ちまたには、神様のことや仏教のことに関連させて、因縁因果の話をするものが、たくさんある。
例えば、あるCD付きの本の場合。
そのCDでは、教祖的存在(?)の実業家が、因果、因果とさかんに声に力を込めて力説(?)していた。
しかし、ごく普通の唯物論しか知らない、信用しないような人が、あれを聞いても、まず、わかりはしません。
その人は、この話を聞けるのは、神様に選ばれた特別な人云々などと言っていたが、あれではよほど霊性や因縁因果に詳しくない人でないと、理解ができない内容だからだ。
なぜなら、過去世の話がふっとんでいるから。
過去世の話を抜かしては、輪廻転生の話は理解できないし、あの話し方では、ほとんど理解はできない。
いくら、因果、因果、と連呼したって、あれでは理解できませんよ。
肝心要の部分を抜かしているんです。
それに、みんな、現世で因縁因果が完結していれば、悩みもしないし、こんな世の中になってはいないはずだから。
人間(ここでは肉体人間ではなく、神様の分霊たる霊なる人間が本来の人間とする)が、何べんも何べんも生まれ変わる、輪廻転生を繰り返すことによって、上がり(=輪廻転生の卒業)になるまでには、たくさんの過去世を積み重ねていて、現世たる今生(今回の人生)の因果の原因、すなわち、因縁の大半は、その過去世の中にこそあるのだ、ということがまったく述べられていない。
だから、因縁因果の理解はほぼ不可能な内容となっている。
他方、仏教的に因縁因果を講義している人(ユーチューバー)の場合。
お釈迦さんが、愚痴や報復の愚かさに触れている話に絡めて、因果たる現世での不条理な出来事を受け入れて、怒るなかれ云々としていたが、やはり、因果の元となる原因、すなわち、因縁が過去世にあることに触れていない。
あれでは、到底、納得できない内容だと思うのだけれど。
結果としての現世での不条理な苦しみなどの出来事が、どこに起因しているかをまったく触れず、言ってみれば原因をまるっきりぼかしたままで、ただ受け入れろ、といっても納得なんかできませんよ。
で、そもそもに戻ると。
私達は、人間は上述のように神様の分霊が、本体であり、霊なる人間こそが、本来の人間である。
ただ、地球さんという惑星を開発して、神様の世界を最終的にあらわす、完成させるために、肉体人間としてこの地球上に働きかけていくこととなった。
その肉体人間として、この物質の地球界を開発するための便宜上、本来にはなかった自己保存の本能を付与された。
そのために、本来なら神様の分霊を頂く神様の子供としてはふさわしくない、真善美に悖る想念と行為=業想念をすることになってしまった。
しかも、個々の肉体に分かれ、輪廻転生を繰り返すうちに、人間=肉体人間だ、との思いが抜きがたく染みついてしまった。
しかし、業想念は、神様としては、神様の子供としては、ふさわしくない、あってはならない想念と行為なので、輪廻転生を通してあがなう、償うという形で、矯正していかなければならない定めにある。
その償いが、この世で、病気、争い、貧乏、苦労といった、私達がもっとも嫌がる辛(つら)い形となってあらわれてくる。
だから、現世での不条理な出来事、苦しみの原因、因縁の大半は過去世にあり、これは特別な人を除いて、一般的な私達にはわからないものとなっているのですよ。
これを、あらかじめ踏まえておかないと、因縁因果の話は、納得ができないし、到底、わかりません。
今、この世の中で、因縁因果の法則が、すぐに誰にでもわかる形で機能していたら、誰も悪いこと(というか、真善美に悖ること)はできないし、しやしませんよ。
そもそも、すぐにバチが当たるなら、悪いことなんかできないはずです。
絶対と言っていいほどに、しないことになるでしょう。
誰だって、被虐的(マゾ)でない限り、痛い目や嫌な目に遭うのは好まないのだから。
だから、例外的な場合(霊性がかなり開発されて現世内で因縁因果がすぐに完結されるようになってくる場合)を除き、今生(今回の人生)で行った、真善美に悖る想念と行為のあがない、償いは、来世以降の何世目かに、因果としてあらわれて、償わなければならなくなる、ということです。
私が、世界平和の祈りと守護の神霊さん(守護霊さんと守護神さん)への感謝行をおすすめしているのは、このためでもあります。
私は、唯物論ではどうしようもない、現世内での不可抗力による苦しみを多少なりとも味わってきている。
祈りと感謝行は、このような苦しみのあらわれを、かなり軽減してくれる効果があるそうなんですよ。
だったら、こんなにありがたいものはない。
あらわれてしまったもの、果たすべき因縁としてやむなくあらわれてくる因果は仕方ないにしても、少しでも少ないに越したことはない。
まあ、こうした、ある意味功利的というか、救われたい一辺倒で、祈りと感謝行をしていても、やがては自然にあるべき形として、信仰として根付いていくのが、理想的な形ではありますが。
ざっと見た限りですが、あそこにコメントを寄せていた大半の方が、唯物論者であるようなので、以上の話は、信じるか、信じないかには、よりますけどね。
多分、これも因縁因果次第だとは思うのですが、信じて頂いて、祈りと感謝行をして頂くことを望みたいです。
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・因果律~いんがりつ~哲学・倫理用語~原因となるべき状態には、必ず結果となるべき状態が伴うという自然の法則。すべてのことは原因と結果の必然的な関係によって存在するという原理。
ただし、霊性の話をする場合には、上記にも書いたように、過去世(前世、前々世、前々々世、・・・の総称)の話は不可欠である。
これがないと、そもそも、理屈として成立しないと考えられるからです。
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①追記: 2021/03/06 07:05
②追記: 2021/03/08 00:15
③追記: 2021/07/09 23:35
④追記: 2021/07/09 23:50
⑤追記: 2022/12/05 23:30
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、表題および本文を加筆・訂正しました。